森家用語じてん

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森家家紋    鶴丸紋   十字紋   五三桐     関係家紋    桔梗紋    揚羽蝶(鳳凰丸紋)

能寺の変

本能寺の変・森家関係者討死リスト


金山 現在の岐阜県可児市兼山。もとは金山村で、金の字を使っていた。
森可成が永禄8(1565)年入城の際に、烏ケ峰城の名を”金山城”と改めたという。
文献には、直江景綱宛の信長の書状案に登場する(永禄年間9月9日)。
           『先日濃州相働、井口近所取出城所々申付候
              然者、犬山令落居候、其刻金山落居候』(歴代古案)

兼山城と表記されることも多いが、「金山城」というのが正しい。

『金山軍記』には「黄金は朽ちねども城主(長可)はほろびたまいて、金山の
字をあらためかえて兼山村という。」とあるが、実際は明暦2年(1656年)に兼山村と改められた。
金山城の漢字だけが昔の名を留める。
殿町(可児市兼山) 森一族と重臣が居住した。
魚屋町(可児市兼山) 城下町経営の際、長可が塩問屋を強制移住させてその地に命名。 
今渡(可児市兼山) 長可が川向こうの米田城攻めで一人も損ねず川を渡ったという場所。
大蔵(可児市兼山) 金山城の米蔵があった。
武蔵ケ渕(可児市) 長可がスッポン妖怪を退治したと伝えられる。
這坂(美濃加茂市) 森長可と加治田城勢の戦い激戦地。ここで、負傷兵が這(は)いずりまわったのでこの名がついたという。
蘭丸山(中津川市手賀野) 岩村城主だった森蘭丸に由来すると伝わる。

@『中津川市史 第四編 中世』より
「…また中津川市内については斧戸城(阿寺城)森某之におると諸旧記に見えること、またこの山を地元の人々は
蘭丸山と呼んでいることなどから、森氏に支配下(岩村)に入っていたと考えられる。阿木あたりは岩村との地縁関
係が深いところであるから、岩村領であったことはもちろんである。」

A中津川市役所ご回答:
「蘭丸山」は市内手賀野の尾根の一角で、中世城館である「阿寺(照)城」があったところです。
地名は森蘭丸からきたものといわれていますが、江戸時代の文献には「蘭丸山」は登場しません。
恐らく明治以降つけられた地名か。

@Aとに少々食い違いが見られますが、私(管理人)自身に上の記述を裏付ける判断材料がありません。
いつ頃、そしてなぜ、蘭丸山と言い習わされるようになったのか、まだはっきりと解決していませんので、
引き続き調査を続行いたします。

森(岐阜県羽島市正木町) 森家先祖が住みなした場所で、森可成が金山城入りする前の居城・蓮台城にも近い。
松代(長野県松代市) 忠政の海津城(松代城)入城に由来する。”兄・長可の待望の城”という説と”我を討た
んと(武田)旧民我を待てり”との説がある。
津山(岡山県津山市) 忠政入城に際し、もともと鶴山だった地名を”鶴は森家の家紋”という理由で”鶴”の字を訓読みの通じる
”津”に変え”津山”と改名したことに由来する。

解説  森家と合戦  森家合戦一覧              
  可成関係合戦 可隆関係合戦 長可関係合戦 蘭丸関係合戦 忠政関係合戦

解説  森家とお城
美濃国  森家とお城(美濃国)
 
 金山城(森家居城) 岩村城(蘭丸拝領の城)  鴻野城(城主・関小十郎) 高山城(城代・林為忠) 

 苗木城(城代・林常照)

近江国  安土城(城内蘭丸の部屋 蘭丸邸)     宇佐山城(可成築城) 
信濃国  海津城(松代城)(長可・忠政居城) 
美作国  津山城(忠政築城の居城 )

解説  森家とお茶
可成関係  津田宗及主催大茶会
可隆関係  利休茶杓
長可関係  津田宗及主催茶会 さはひめの茶壷    
蘭丸関係  本能寺茶会 
忠政関係  青木肩衝茶入

イテム
長可  人間無骨  鵜の丸  軍旗    百段(長可愛馬)  さはひめの茶壷    
蘭丸  武並八幡宮太刀    信長下賜刀    旗印
忠政  軍旗  八段(忠政愛馬)  桃   青木肩衝茶入  朝顔の半鐘 

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