木肩衝

大名達に愛された大名物の茶入。

青木肩衝(あおきかたつき)

大名物


 

明智光秀が主君に刃をむけるその時まで愛し続けたこの茶入れを、森忠政はどんな心持でこれを眺めたのだろ

うか______。


全体的にゆがんで、口づくりもゆがんで青みを帯びたというこの茶入れは、途中火災に遭いながらも幾星霜その

美しさと気品を守り、セレブの手から手へと旅した大名物であった。

「青木肩衝」 肩がはっきりとついている茶入れを肩衝と呼ぶ。

元は青木民部法印浄憲(青木紀伊守秀以の所有ともいう)という武人の所有するものであり、「青木」の名もこれ

に因むとする。

この茶入れは一度は明智光秀が所有し、その後徳川家康の手に入り、元和の頃(慶長18年説あり)森忠政の手

に下賜された。

『寛政重修諸家譜』には、大阪の役の戦功で森忠政が元和2年(1616年)徳川家康に愛染国俊の脇差と、後に青

木肩衝の茶壷を賜ったとあるが、慶長18年(1613)年に森忠政が徳川家康から駿府へ呼び出された際に、幼少の

岡山藩主松平(池田)忠継のサポートを頼まれ、これを拝領したともいう。

しかしこの茶入れは永く森家に留まることはなく、再び幕府に献上された。

「忠政君遺物、愛染国俊の小脇差・青木肩衝茶入・北澗墨跡、右三品将軍家へ献上也」と、森家の記録『森家先

代実録』にもその名が見える。

そして明暦3年(1657年)1月19日の世にいう明暦の大火の際に江戸城本丸宝庫の中で火災に遭ってしまう。

「青木かたつき焼け候へども不苦。」(『玩貨名物記』)火災にあってもだいじょうぶ!

幸いこの茶入れは大破しなかったので漆でもって修繕された。

この茶入れを後藤庄三郎が拝領し、最終的には姫路酒井家に納まった。

長い・・・・・・・・・名物は長旅を続けるものなのだ。


青木肩衝の写真は、『大正名器鑑 第一編』にあるので、大規模な図書館で(恐らく閉架図書)どうにか探し出し

てご覧いただきたい。


ネットでも閲覧できます。
近代デジタルライブラリーサイト内:
 
 『大正名器鑑. 第1編』
青木肩衝 伯爵酒井忠正氏藏 / 83p (0079.jp2)
(※該当ページは『コマ番号:79-82』です。ここは自力で手動でページ移動してください。)


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明智光秀が天正8年(1580年)12月7日、天正10年(1582年)1月25日に催した茶会にもこの青木肩衝は登場し、

『津田宗及茶湯日記』にも記録されている。

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