田宗及主催茶会

天正12年1月13日、森長可は関共成とともに、津田宗及の茶席で接待を受けた。  


 

 

 天正12年1月13日、森長可は自分の妹婿の関小十郎右衛門共成とともに

堺の茶人である津田宗及(そうぎゅう)主催の茶会に参加している。

「宗及自會記」にはこう記されている。

 『宗及自會記』

   同正月十三日朝  津川玄蕃 せき小十郎右衛門尉 

 一、床 舩子ノ絵 
    炉 ノ釜、自在、籠 つるへ
   手水間善好茶碗、金ノ合子、ならへて
    
   同 日昼     森武蔵守 川三郎兵衛 中川甚右衛門尉
 床 墨跡 手水ノ間巻、
 かふらなし、紅梅、生、手水間花ヲヌキテ、花瓶、つるへとならへ候
 金ノ合子、せんかう茶碗

これによれば、朝には、関共成が津川玄蕃允義冬とともに宗及の茶席の接待を
受けている。

その茶席に用意されたものが書き残されている。
私のしょぼい茶道知識(高校のクラブで1年裏千家。湯は並々と注いでみる。)
で語ってみる。

『自會記』曰く、床の間には名画「船子の絵」を掛けた。
炉には「鶴の釜」、自在鉤。籠(菓子器?)、釣瓶水指を使い、
手水の間に、「善好茶碗」、「金ノ合子(建水、みずこぼし)」を並べた。

一流の豪商であり、茶人であった宗及が用意したこれらのものは、皆々一
級品ばかりであろう。殊に、『善好茶碗』は名物として知られている。

「手水ノ間」とあるのは「中立(なかだち)」という休憩時間。
本格的な茶席は、ミュージカルのように前後半に分かれているらしく、
詳しくは前半を「初座(しょざ)」、後半を「後座(ござ)」と言う。
「初座」では、亭主は茶室を薄暗くして床に絵を掛け、炉に炭を入れ、客にお菓子
などをもてなし、腹を太らせる。
「中立」の休憩タイムにお客を外に追い出し、彼らが庭のジャングルジムなどで遊ん
でいる間に、茶室の模様替えをする。
「後座」では床に花をスタンバイし、部屋を明るくしてから再び客を招き入れ、茶を
もてなすのだ。

ここに関共成と同席した津川義冬は伊勢松ケ島の城主。
織田信雄の家老であったが、この年の3月、豊臣秀吉の流したデマによって内通を
疑われ、長島城で信雄に殺害されることになる。
それを契機に勃発した小牧長久手の戦いにより、この関共成もまた森長可の為に
命を落とすことになるので、数ヶ月後にはこの世にいない者同士が居合せたのだ。
まさに、禅に言う「一期一会」の茶席だった。


 同日の昼には、森長可、瀧川雄利、中川甚右衛門らの姿が見うけられる。
瀧川(滝川)雄利は滝川一益の養子で、織田信雄の家老になっている。のち、小牧
長久手の戦いを契機に豊臣秀吉側につくことになる。
中川甚右衛門尉は『戦国人名辞典』に載っていないし、どうでもよいので無視する。
でも、長可と茶を飲めたなんて羨ましいことこの上ない。

”床の間には墨跡、手水の間、

…実は、私にはこの「巻」がよくわからない。巻いたのか?!何をやったのだ!!
(わかる方、何を巻いたのか教えてください。)
ともかくも、「後座」では、長可らの為に紅梅が活けられた。

「かぶらなし(青磁の花入)」に、紅梅を生花で活け、手水の間に花を抜き取り、花瓶、
釣瓶水指と並べた。「金ノ合子」、「せんかう茶碗」を使用。


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船子の絵(せんすのえ):禅僧・牧谿(もっけい)筆の伝承を持つ禅画の掛け軸。後に豊臣秀吉に献ぜられたが、
               大阪の役で焼失。
               絵のモデルの船子とは、中国唐代の徳誠禅師のこと。
               禅師は独り小船を浮かべて人を渡して暮らし、「船子和尚」と呼ばれた。
               法を伝授した後、自ら船をくつがえして入寂した。
               この絵と対をなす左幅の絵に『漁夫の絵』があるが、こちらも大阪の役で焼失した。               

善好茶碗:大富善好が所持したことに由来する名物茶器。


 

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