田宗及主催大茶会

永禄12年2月11日、森可成は信長の上使衆として同輩らと共に、津田宗及から茶席での接待を受けた。  


 

 

 永禄12年1月、織田信長がついに日本のヴェネチア・自由商業都市「堺」を自分の

直轄地にする時が来た(無理矢理)。

その堺接収の上使衆のひとりが京都奉行でもある森可成だった。

 その際の永禄12(1569)年2月11日に、可成は堺の茶人である津田宗及(そうぎ

ゅう)主催の大茶会に参加しており、「宗及自會記」にはこう記されている。

宗及自會記

永禄十二年 巳二月十一日 終日
 上使衆
 佐久間衛門 柴田 和田 坂井右進 
 森三左衛門 蜂屋 結城進斎 竹内下総 野田佐吉 
其外方々之衆
 百人斗 折、盃之台、色々

この記述にある上使衆とは、このままでは誰だかよくわからないので親しみのある名

称に変換するとこうなる。(森可成以外はどうでもよいものの、わざわざ記してみた。)


     佐久間信盛、柴田勝家、和田惟政、坂井政尚、森可成、蜂屋頼隆、
     結城進斎(足利義昭の家臣)、竹内秀勝(松永久秀の家臣)、
     野間康久(河内若江の武士)。

このうち、佐久間信盛、柴田勝家、森可成、蜂屋頼隆が信長家臣のスペシャルビップ

なので、上席にいたらしい。

名前を表記された以外にも100人ばかりの大茶会であったとつづられている。

さすが堺の豪商の自宅はでかい。100人乗っても大丈夫!!


more

 念のため、堺接収にいたるまでの過去の流れをかなりおおざっぱに書いてみる。


 永禄11年9月、信長は足利義昭を奉じての上洛にともない、石山本願寺と堺に矢銭

(軍用金)を課していた。

石山本願寺は(絶対ブリブリ言いつつ)矢銭を提供したが、自治都市国家である堺は

矢銭上納を断固拒否、町に堀をめぐらし、浪人を雇ってこれでもかといわんばかりの徹

底抗戦の構えを見せた。

 一方で京都の東福寺に陣を置いていた信長は、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・

坂井政尚の4人に命じて岩成友通(京都を牛耳っていた三好三人衆のひとり。)

へ攻撃をする事を皮切りに、三好勢への攻撃に突入、これを一掃させることに成功。

しかし、翌年、永禄12(1569)年の1月5日、正月早々、一掃したはずの三好三人衆が足利

義昭のいた本圀寺を急襲、既に岐阜に帰国していた信長は慌てて(大雪を一騎駆け)上洛

したという。

この三好三人衆の出撃拠点となっていたのが堺と知った信長は怒り、再び堺に矢銭を

恐喝して町を包囲してみたところ、堺はついに降伏した。

これにより、堺の自治権は剥奪され、信長の直轄地になったのだった。


ホーム 辞典