山本願寺

信長が情念を燃やして滅ぼさんとし、妙向尼が一命を賭して救った中世権力

百段(ひゃくだん・ひゃくたん)


 

「鬼武蔵」こと森長可の名高い名馬。

百段は金山城の石段を百段も一気駆けできるのでその名がついたという。長可どの、馬で階段なんかを全力

疾走しないで下さい。

やりかねない人だから、やりきれない・・・。寛永期、讃岐国・生駒家の馬術指南役の曲垣平九郎が愛宕山の

石段百段余りを馬で登って徳川家光に「そなたは日本一の馬術の名人!」と感嘆されているけど、長可とこの

馬はかようなレベルにいたのだ。

段といえば、距離の単位でもある。百段を全力疾走できることからつけられた名前とも言われている。

百段の「段(たん)」というのは距離の単位。六尺=1間 六間=1段。

1反、2反の反と同義語であるが軍馬には「段」の漢字のほうが感じがよいのだろう。

一段が約11mなので、距離にして約1,100m。ともかく、サラブレッドですらその全力疾走可能距離は約300m

くらいらしいので、実にその4倍近くを走るこの馬は、大変すぐれた長可自慢の名馬であったに違いない。

しかし、じゃあ、忠政の愛馬「八段」て・・・・。

話を戻すが、この馬の発音がよくわからない。「ひゃくたん」だったか、あるいは、「ひゃくだん」や「びゃくだん」だっ

たのか。教えて、アルムのもみの木よ。どちらにせよ、名はどうであれ、由来はどちらであれ、主人に似て、尋常な

らざる馬である。

「人間無骨」の十文字の槍を抱えこの凛々しい名馬にまたがった鬼武蔵の勇姿を、怖いので遠まきながら双眼鏡

なんかで拝見したいものだ。

昔の馬は、サラブレッドのようにかっこよくはなく、むしろ、ポニー状態だったが、この時代の日本人の小柄な体型を

考えればちょうどいい大きさなのかもしれない。どったんどったん走ってくるポニー武田の騎馬武者軍団を恐れるな

かれ。

天正12年4月9日長可の死出の戦い・長久手合戦でも百段は長可のお供をした。

ご主人は眉間を鉄砲で打ち抜かれて即死、その身体は百段の身体から はかなく落ちていった。

その首を奪わんとやっぱり多くの敵が走りよる。すさまじいタイムサービスだっただろう。

百段は鬼武蔵の気性のごとく憤怒のうちに大暴れして敵をふせぎ、その間に森家家臣が打ち寄って長可の遺体を

肩に担いで退却した。

百段は2個所も槍傷をこうむったが、それは常に一身同体だった人の亡骸を守った名誉の傷だったのだ。

この百段は長可の忘れ形見の弟・忠政に引き継がれ13年後にも大坂の陣の2度の戦に及んだ。おい。

森家や林家も年齢おかしい人や年齢詐称者とおぼしき者が多いが、馬まで、お馬までその道を通す覚悟らしい・・・。

いったいいくつになるまで戦っているのだ!寿命無視!武内宿禰!

百段の死後は忠政が憐惜のあまりにこの馬を神に奉って祠(ほこら)を建てたとのこと、もはや神馬(しんめ)なり。

天国への階段一気駆け!!!


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■ 祠の話は貝原益軒の『朝野雑載』に収録。忠政が憐惜のあまりに神に奉って建てた百段の祠の場所をご存知の方は
   ご教示下さい。美作国内にあるそうです。心当たりは全部探したけど見つかりませんでした。

■ 天正10年3月、武田方の武将・武田逍遥軒が降伏してきたが、織田信忠は長可に「殺せ。」と下知した。
   長可は各務兵庫元政を使いとし、豊前采女を添えて逍遥軒の元へやった。逍遥軒は刀を膝下において離さない。
   長可の使いの2人は「武蔵守(長可)が愛する馬がおりますので、なぐさみにご覧になられませんか?」と誘った。
   みんなで庭に出たとき、各務兵庫が刀で逍遥軒をブシュ―!!!豊前采女が刀で逍遥軒をドスッ!!!!


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