2005年 森家研修旅行ひとり

米田諏訪神社(美濃加茂市)の手水鉢。
鶴が飛来中

4月29日(金) モリゾーよりも、モリショーゾー

夜行バスで名古屋へやって来た。
名古屋から私の目的地までの道のりが途中まで愛・地球博と同じなので、モリゾーやマンモスへ会いに行くと
思しき人々と群れをなして地下鉄に乗って藤ケ丘駅まで出てリニモに乗り換え。
リニモ乗り場には臨時チケット売り場ができて列をなしていた。
客A:「地球博会場まで4人。」
客B:「万博会場まで、大人2枚。」
客C:「地球博会場まで。」
客D:「長久手古戦場までおとな1枚。」

それからも行列待ちしてようやくリニモに乗れたと思ったら、次の駅でさっそくリニモ故障!左から2番目の扉
が開かないけど気にしないでくれとのアナウンス。気にしないので早く私を戦場に連れてって!!!
結局、焦る私を尻目にリニモはゆっくりゆっくりと長久手古戦場駅へたどり着き、私だけが下車。
後はみんな、その先の愛・地球博に行くのだろうか。古戦場のほうが絶対に面白いのに、変わった人達だ。

久々の長久手古戦場、長久手町郷土資料室で合戦ジオラマを見、書籍を買って周辺の史跡めぐりに出た。
森長可の岳父・池田恒興を弔う勝入塚、その息子の池田元助の庄九郎塚、そして長可の戦死した場所にあ
武蔵塚
今日の武蔵塚はポカポカ陽気の中、沢山のタンポポたちに囲まれていた。

この長久手の戦いが和睦をもって終る事を思えば、長可の死は一体何だったのだろう・・・。けれど、この戦
に意義を唱えるとすれば、秀吉や家康がその巨大な力関係を見せつけることで、織田信長の子息達に
”織田家が歴史を動かす時代は終焉したのだ。もうお前たちの出る幕じゃない”
ということを知らしめ、家康や秀吉こそが次の時代の担い手と宣言するものだったのだろう。
森長可は、日本の歴史舞台から静かに幕引きするその織田家の栄光の時代に殉じたのかもしれない。
蘭丸たちとともに____。
        
長久手古戦場石碑



今日は、長久手古戦場をみっちり歩くつもりでいたので、地図を広げて武蔵塚から探検を続行。
住宅街に散在する血の池公園鎧かけの松長久手城跡を探して歩いた。
血の池公園は家康方の渡辺槍半蔵らが槍や刀を洗った池で、毎年4月9日には池の水が赤くなるといわれた
血の池があったそうだけど、今はなく、公園に整備されて憩いの場になっている。しかし、名前が名前だけに、
私は憩えそうにない。
鎧がけの松は血の池で武器の洗い物をする時に、武将が鎧をかけたといわれるもので、今は3代目松なるも
のがあった。
長久手城は太郎右衛門忠景の城だったが、忠景は長久手の戦いで、義弟の岩崎城を守り討ち死にした。

家康の本陣があった御旗山にも上った。すでに日は高く、真夏のような天候だったので、もう汗だく。
ペットボトルのお茶も不気味に生温かい。このまま歩くと確実にバテあがるな。
山頂で出会った神社の氏子さんに「次、安昌寺あたりに行きたいのですが、バスとか出てますか?」と道をた
ずねると、「歩きなっせ。」とおっしゃる。
地図で見た限りでは遠いけど、実際は近いのか。再び勇気を出して歩きはじめると地図でみた通り遠い旅路
だった。ぎゃふん!
道に迷って偶然見つけた店で古戦場もなかを購入しつつ、家康が戦勝祈願をした教圓寺に行き、長久手の戦
死者を供養した首塚を経由して、首塚をたてた安昌寺へ至る。
自転車がやけに多いと思ったら、レンタルサイクルがあるらしい!!!あああああーーー観光客たちが涼しそ
うに風をきって抜けて行く!みんな爽やか、私汗だらだら!!!足軽は徒歩なのでつらいっす!!
お次の旅はレンタルサイクルで〜!!!Σ(;゚□゚;

そして家康が最初に陣を張っていた金色山(こんじきやま)へ登った。私は結局、御旗山から金色山まで、家
康の進軍ルートを逆走りした形になった。今は、金色山は公園として異常なほどに整備され、スルメを天日干
しするのに便利そうな展望テラスまでできている。長可の最期の地の仏ケ根を一望しつつ、誰もいないテラス
でぐったりしてしばし休息。気づけばスルメになっていた。

長久手の戦いに突入する前、はじめ秀吉と家康の両者は犬山と小牧に陣を張ったが、お互いに実力を知って
いるので両者下手に動けず、にらみあいの緊張状態が続いていた。どちらか先に動いた方が不利になる。
しかし家康なんて死ぬほど疑り深い上にタヌキなので、絶対に動かない。秀吉は一計を案じ自ら馬に乗り、家康
軍の前まで出てお尻ペンペンして挑発したという。まさに猿業。

しかし秀吉は大事な事を忘れていた。
味方の軍にはこの空気を読む気がまったくない人達がいることを!

池田・森隊が家康の本拠地の三河を衝こうと狙い先に動き、にらみ合いの均衡は崩れた。
森長可は先に小牧山を奪おうとして羽黒で大敗を喫しており、さらにその小牧山に家康が陣を張ってしまったの
で、ここで何とか汚名を晴らさねばと気が気じゃなかったのだろう。

この動きが家康にバレて事前に兵をまわされ追撃されてしまい、長久手での激戦にいたる。
ちなみに、池田や森は2万もの大軍でこっそりと三河を奇襲しようとしていたのだけど、そんな民族大移動の
ような進軍が事前にバレないほうがおかしいと思う。
今は研究がすすみ、元来、”池田や森の進言による奇襲作戦を秀吉がしぶしぶ承知して失敗した”と言われ
ていたものが、実は秀吉が自信をもって池田や森にやらせた作戦が大失敗してしまったので、死人にクチな
し、池田と森が言い出しっぺという事にしたと見るむきもある。ともすれば、秀吉ははじめから池田と森が死ぬの
まで見越してやらせたのではないかと思ってしまうのは私の考えすぎか?

バスで移動して常照寺へお参りした。
ここには、池田家と森長可の3将の塚がある。昔は行きづらいとこだと思っていたけど、リニモの「はなみずき道駅」
の目の前だったので、あまりに便利で逆にどういう事かと驚いた。

”君と好きな人が百年続きますように〜♪” BY一青窈「ハナミズキ」

さぁ、もう夕方近い!頑張るぞ!!
次は庄内緑地公園駅まで行って大野木を探索!!大野木は、織田信長の重臣・原田直政(塙九郎左衛門)
の居城・大野木城があった所で、森家関係でみれば、直政は妙向尼の母方のおじさまである。
森忠政の養母(になりかけた)大野木どの(直政妻)や、信長の側室の直子(直政妹)のゆかりの地でもある。
大野木城跡の跡地には福昌寺が建立されているので、行ってみたのだけれど、地図と一致する場所に歩いて
いっても、そこは予想に反して超近代的な何かの建物と、青いビニルシートで覆われた何かの建物。しかも工
事中で多くの職人さんたちが作業中。ダメ押しでこいのぼりまでが横並びに泳いでいる。
下調べした写真とまるで景観が違うので、間違えた?と思って、知人に電話で場所を尋ねながら周辺をぐるぐ
るとまわったけど、ほかにソレらしきものがない。戻って墓地へまわると、塙団右衛門母の墓がある。大阪の陣
では”夜討の団右衛門”と武名を馳せた彼(でも酒グセ悪し。)もその一族なのか・・・。
工事していた人に、尋ねると「ええ。ここは福昌寺ですよ。でも、燃えたので建てなおしています。」ガーン!!
Σ(゚□゚;
せめて昔のお城門だった鐘楼門を・・・
「それも、、、、壊れてしまいました。」 
ヒィイ!!
「の、信長が清洲城に祀っていた金城秋葉三尺房があると聴きましたが、それは・・・」
「ありますよ。でも、今は工事中ですのでちょっと・・・・。」
ガーン!!ガーン!!ガーン!!!

蛇池 信長も、塙右近も飛び込んだ


悲しみをおさえ近所の蛇池へ走る。『信長公記』にも載っている話だけども、この池(当時はあまが池)で「顔が
鹿のような大蛇」を見たという噂を聴いた清洲城の信長が、発見者を事情聴取のうえ百姓たちに池の水をくみ
出させて、自分も脇差を口にくわえ池に入って探したのだ。でも大蛇は見つからなかった。
そして、伝承ではこの騒動の時、妙向尼の祖父にして蘭丸の曽祖父・塙右近が池に馬を乗りいれたところ、水
が渦になって吸いこまれたという。しばらくして浮かんできたもののぐったりとしていたという、スーパーひいじい
ちゃん伝説。
その近所には信長の家臣・佐々成政の居城・比良城跡もあり、現在敷地は光通寺となっている。
これで今日の旅のくくりとなった。

4月30日(土) ラスト・ディ・オブ・兼山町
兼山の時計店で購入
した蘭丸時計♪

朝から森一族のふる里・兼山町に赴いていた。今日で兼山町は明治22年の以来116年の町の歴史に幕を
閉じる。明日からは可児市に合併する。その歴史的瞬間に立会いにきたのだ。

森家の菩提寺の
可成寺と妙向尼の常照寺にお参り。また兼山へ来させてもらえたことへの感謝の気持ちで
合掌。森家が入城する前にこの地を領していた斎藤大納言ゆかりの
浄音寺の山門を仰いだあと、江戸期の
豪商・
山本藤九郎の墓のある専養寺の前で説明板を読んでいると、麦わら帽子をかぶったおじさんに声をか
けられた。
「ワシは色々な墓を見に来た。ほら、墓だよ墓!見てみなさいよ、この墓石!」・・・・墓地へ誘いこまれた。
また、「墓を見にいこうといったら女房はついてこなかった。」とのこと。普通、ついて来ないだろう。

兼山湊
へも、森立寺へもこのおじさんとご一緒だった。森立寺では、運良くご住職とお話する事ができ貴重な
時間を過ごした。このお寺は森長可の乳母、お立の方に縁の深い日蓮宗のお寺。森立寺の縁起をはじめ、
また、森立寺に残る森一族の日蓮宗のご戒名をはじめ、初耳な話を沢山ご教示いただいたうえ、本堂もお参
りさせていただいた。

ご住職にお礼を申し上げた後、兼山を訪れるたびにお世話になっている兼山町商工会の鶴丸さんの元へご挨
拶に行き歓談。
午後からは私の古文書の先生と再会し、また、古文書を広げたくって歓談。
「そういやぁ、うききさんは米田(福島)城に行きたいって言うとったな。」
「あ、明日にでも、自力で登ります。」
「今はマムシがおるので、地元の人でもよう行かん。」
「じゃあ、馬串(まぐし)山だけでも行きます。」
「そこもマムシがおる。マムシ山。」

馬串山 長可が自分の館をたてると言った 諏訪神社 肥田氏の氏神。
米田城攻めの祭、長可はまずこの神社へ登っ
た。


・・・・・・・・・・車でつれて行ってくれた。
米田城主の菩提寺・竜洞寺にも案内してもらえた。
米田城主の
肥田玄蕃は、森可成とともに宇佐山城を守るほどに良好な関係であったものの、息子の森長可
の時代に入ると肥田家は森家にとってはわずらわしい存在と変わっていったのだろう、肥田の領内の馬串山
が欲しいと長可がいちゃもんをつけはじめ、これをうまく肥田が断ったものの、長可は怒り、そして、弟の蘭丸
たちの葬儀がてら肥田氏の居城の米田城を強奪したのだった。本当に”葬式がてら”なのですごい。

その戦で長可が肥田氏の米田城を攻める前に登った諏訪神社に車で行った。ここは肥田氏が建てた神社で、
肥田氏の先祖代々の守り神。もちろん、肥田氏の領内にある。つくづく嫌がらせなのか。

肥田玄蕃は長可に城を奪われた後は転落の人生を歩むのだが、そのお墓がきちんとあるのだ。しかし、竜
洞寺の墓所には案内板がない。小さな五輪の塔が並んでいたので、きっとこれだということでご冥福をお祈り
した。
本来の供養塔は、地獄の餓鬼が墓石にまく水を飲みにはいあがってこれないようにと、わざと小さく作るそうな。
(餓鬼は3尺以上は地上に上がってこれないとな。)
では、江戸時代に見る巨大な供養塔は、それを無視してやりすぎなのか。
そして供養塔は普通、地・水・火・風・空を表す五輪塔。
これが可成寺の森可成の墓となると、台石を後からいくつも足していったのか、初めから設定無視のチャレン
ジャーだったのか、どういうことか七輪塔くらいになってしまっている。逆に森力丸の墓は、どこかで破損したの
か五輪よりも石の数が足りない。

それから米田城跡を車で走ってもらい、馬串山へ行ってもらった。そして登りたいという気持ちを押さえ、馬串山
を眺めていると、なんと先方につがいのキジが舞い降りてきた!!初めて見る野生のキジ!!国鳥だぁ!!

その後、兼山に戻り、先生ご夫妻が寿司を食べに連れていってくれた。
先生は、奥さんに雌キジの模様を「スズメがでかくなったような感じ」と説明なすっていた。

夜、車でホテルに送ってもらう時に兼山町にある大木がイルミネーションで飾られているのを見た。
さようなら兼山町!!!今までありがとう!!!!(涙)
感極まってきた。
師匠が「長可が羽黒の敗戦で逃げてきたルートはおそらくこの道だ。」とその道を走ってくれたので、もっと
感極まった。

5月1日(日) ああ〜誰かがこの道を〜♪

昔の日本人は、ナンバ歩きをしていた。右手を出す時には、右足、左足を出す時には左足を前に出して歩く。
今は佐川急便のひきゃく君のイラストがナンバ歩き(走ってる?)をしているくらいだ。
織田信長も、森蘭丸も、右手右足、左手左足、とくり出してペンギンのように歩いていたのだなぁ。
想像してみると、とても楽しい。
そして彼らはいつも左腰に刀を差して生活していたため、武士は刀がないと身体のバランスがとれず、まっす
ぐ歩けなかったらしい。
腰のものを取り上げると、さしもの森兄弟も、みんなでヨロけてあげくの果てにダンゴ状に固まって信長を巻き
込み琵琶湖にボッチャン!なのだろうか・・・。こわい、こわい。(いきすぎた想像。)
そして、刀を帯びるせいで常に身体の左側に負担がかかるため、足のサイズも左右で違っていたという。

可成寺で早朝お墓参りをすませた後、ナンバ歩きで金山城跡に登った。今日は1人なので、いつもは行けない
場所を探検してみようと思い、手始めに出丸跡の遺構を見るために、出丸跡の駐車場からガケへくだった。
その後、ガードレール下から駐車場によじ登ると人がいたので、照れ隠しの愛想笑いすると向こうもにこやかに
挨拶してくれた。でも、その場を立ち去りつつ振りかえると、その人が怪訝そうにガードレール下を覗きこんでい
た。

気になっていた古城山の南側の斜面にも登ってみた。石垣やら土砂がかなり崩落していて、昔の遺構が見え
にくいけど、道らしき跡があるのできっとここにも何かあったに違いない。探検♪探検♪・・そして深入りするう
ちに、引き返せない断崖絶壁にいる自分に気づいた。蘭丸を追うものは山を見ず!
箱根の山は天下の剣〜♪いや、違う、ここは兼山だ。
ボヘミアの河よモルダウよ〜♪いや、兼山だ。
どうしよう!ここで落ちて大怪我でもしようものなら、お母さんに、いつまでもそんな事ばかりしてないで、さっさと
嫁に行けと言われる〜!!
お、落ちつけ!まだ落ちたワケではないんだ・・・・・次の足場を探そう。
と足を伸ばして乗っかった石が安定してなくて、石とともにそのまま草スキー。あわててつかんだ雑草の束がト
ゲトゲの野いばら!腕にトゲがささったまま、それでも必死に木をつかむと、頭にでかいクモがポトリ。
              
金山城南側斜面 石垣の石も崩落状態。


草にくるまれつつ、ようやくはいのぼって正規のルートで戻っていくと、「何してるん?」と、キノコ狩りをしている
スーパーマリオおじさんに声をかけられた。そして、話が終ると、マリオは、ざかざかざか〜と草の上をすべり、
ガケ下に消えていった。実のところ、私は忍者を見たのかもしれない。

師匠と山のふもとの兼山窯で待ち合わせしていたけど、見事に遅れた。しかも、手にはマリオにもらったキノコ。
非常に珍しいのぼり窯などを見せてもらった。作品を売っているのでよかったらご購入ください、との事だった
のでルンルンで売り場を見ると、私の小遣いでは買えない値段のものが並んでいた。
ゴメンなさい、老人クラブでつくったものを200円とかでセールしていると思っていたら!プロがやっていた窯場
だったとは!
失礼しました!!!

武並神社 蘭丸の氏神だったという。


師匠の運転で大井の武並神社に連れていってもらった。道すがら、長可が武田攻めに使ったルートを教えて
くれた。
どうやら中山道は使ってない、と色々な状況説明を交えつつルートを示してくれる。
古文書なんかで地名を見てもピンとこない九州人の私には、
実際にこうした場所を通って距離感を体験できるのは嬉しいことだった。

武並神社
。岩村城主となった森蘭丸が氏神にしていた神社だと『森家先代実録』にある。
ついでに、宝物だった太刀を織田信長の奉納している。のちの森忠政の時代には、秀吉の朝鮮出兵の修羅船
(石積みの船?)造営にともない、森家の家臣・各務兵庫が神社の杉を切らせたところ、木から血がでてキコリ
がびびったので、伐採中止した。
神社側には森家のこうした記録はいっさいはなく、またその時の杉も、もうないものの言い伝えは残っているそ
うだ。
結局、岩村城跡にまで登ってしまい、本丸跡でオニギリを食べた。もう、持ってるのにまたしても買ってしまった
『史談 信長(ほぼ森蘭丸本)』。

外は雨になったけど、せっかくだからと中山道を走って、江戸時代の各宿場やその道沿いの史跡を説明してく
れた。
ああ、森一族もこの道を使っていたのだ〜!!!!!!
江戸時代にはゾウさんもこの道を〜!!皇女和宮もこの道を〜!!!

5月2日(月) 旅は尾張でおわり

兼山湊木曽川を眺め、可成寺・常照寺へ朝の墓参り。
今日で旅も終わりなので、墓から離れ難い。私は人生であと何度この地を踏むことができるのだろうかと、い
い様のない寂しさに襲われていた。来年も、再来年も、10年後も、私はずっと森一族を追っていたい。
それが、できますように。

それから金山城跡に登った。5時間くらいかけて、昨日回れなかった部分をまわった。生きているうちに、段々
と城に対する知識も増えてきたので、これはこうだ、あれはどうだ、と想像をめぐらしながらまわれるのが楽し
い。金山城の解説ページも作ろうと張りきり、画像を撮ったり、メモしたり。

そしてみんながよく道に迷う可成寺跡信長休み石へ。私は何度も行って道を知っているので、信長休み石
までは問題なかった。その先に、「60m下方、座禅石」というヨレヨレの看板を初めて見つけてしまった・・・・・。
なんだろう?と草をかき分け人足遠のき荒れ果てた道を進んだ。座禅石〜♪座禅石〜♪最初は陽気に進ん
でいた。しかし、絶対に60mは下りているのに見つからないので、だんだんと不安になってきた。
あ?キノコの秘密の栽培所を発見!!!
結局、すすめどすすめど座禅石なるものは見つからず、道もなくなってきたので山を下りたら御嵩町だった。
町が違う!Σ(゚□゚;
やっと下山できたと思えば下天は眩しすぎる太陽の光がふりそそぐ。うわぁぁぁぁ!!焼けるぅぅうう!!ボロ
ゾウキンの様になって兼山へ帰った。
そして、誰に聞いても「座禅石」の事を知らなかった・・・・・。

兼山の人々に別れを告げ、途中、犬山で小牧線に乗り換えて羽黒駅へ。
秀吉方として小牧を奪取しようとした森長可が、家康に大敗を喫した羽黒の戦い、長可にとってはこの羽黒は
思い出したくもない屈辱の地であっただろう。忘れる間もなく帰らぬ人となってしまったけど。
その戦いの激戦地であった八幡林へ行った。
今でもプチ林が残っており、その近くには壮絶な最期を飾った長可の家臣・野呂助左衛門の碑が建っている。
横には子孫の建てた一枚岩の巨大な顕彰碑。10年前初めてこの石碑を見た時も
「でかっ!」と
思ったけど、10年後の今日も
「でかっ!」
野呂塚碑文 1枚岩の碑 『平家物語』伝説の名馬・摺墨!!



羽黒駅線路の反対方面へまわると、摺墨(するすみ)塚なるものがあった。時代は遡り『平家物語』は宇治川
の戦いで梶原景季と佐々木高綱が先陣争いを競った時の梶原景季のまたがる名馬が摺墨。
頼朝の死後、追放の憂き目に遭った梶原一族の生き残りが隠れ住んだのがこの羽黒の地で、摺墨もこの地
で死んだと解説されていた。塚の横に、トロイの木馬のような摺墨すべり台があった。

梶原景時の菩提寺の興禅寺へお参り後、羽黒城跡を探したのだけど、なかなか見つからない。竹林があっ
て、この中が城跡に違いないとは思うのだけど、暗くて竹がザワめいているし、案内板もないし、入り口もわか
らないし、クモがいそうだし、ツチノコもいそうだし、私有地の看板が建っていて怖いのでどうしよう。
ぐるぐる回っても判らなくて、地元の人に尋ねたら、庭の裏から城跡へ入らせてくれた。この羽黒城は梶原一
族の子孫の代々の住みかであったが、織田信長に仕えていた梶原景義が本能寺の変で滅び、梶原家は断
絶(ここにも本能寺の被害者が!!)、そして廃城となり、後には小牧の陣において、秀吉の砦になった。

見学を終え、私は再び車上の人となる。そして、ふと小牧線の駅の案内を見ていると、「田県神社前駅」という
駅があった。
んん?なんだろう、この聴いたことのあるような懐かしい響き・・・・。なんだか思い出せないけど、羽黒の沿線
というと、きっと森長可に関係のある神社ではないだとうか。うう!!逸話にある、長可がヘビを食べたところ
の神社だろうか?!思い出せない!!兼山の鶴丸さんに電話して私のサイトを見てもらったけど、私が心当
たりに思ったのは、田県神社とは関係なかった。なんだかひどく心残りに思いつつ、名古屋駅へ向った。

車窓を眺めていると、驚いたことに、縁が美しくいろどられた雲が浮かんでいたので、ガッカリしていたのも忘
れ、その神秘に目が離せなかった。(※彩雲という縁起のよい雲だったらしい。)

名古屋駅に着いたけど、日はまだ沈んでいない。もう一つ史跡にまわれる!!と思い、JRに乗って若き日の
信長のいた清洲へ。
清洲城や信長を祀るお社などを見たけど、私が一番みたいものがない!織田信長の銅像!銅像ったら銅
像!!体躯をちょっとねじった美しき信長像!!
前回の記憶では城とちょっと離れたところにあったのだけど、どこだったか正確な場所を思い出せない!!!
看板の地図を見ると、地図の向きが実際の方向と逆に設置してあるので、逆立ちして見ないと把握できない
ようになっている。右が左で上が下で・・・・!!日没前で、こんなに焦っているのに!!
で、ようやく見つけた時にはもう夜のとばりがおりていた。薄暗い中で信長と2人きり。きゃ。

旅は尾張でおわり。

清洲の織田信長像 シルエット


そのすぐ側に本屋があるので入ってみた。
「信長関係の郷土本はないですか?」「あー、置いてないですねー。」
信長の本はあきらめ、『水滸伝5巻』を買って再び名古屋へ、オムレツ味噌カツを食べて夜行バスに乗った。
名残を惜しんで車窓から名古屋の夜景を見ていると、ライトアップされた小牧城が見えた!
森長可が欲しくてやまなかった小牧山だ!!わぁぁぁああ!(涙)

翌朝、家で早速、『田県神社』を検索して、愕然とした。どうして愕然としたかは、私の口からはとても言えない。
ムキになって行こうとして変な女と思われなくてよかった。_| ̄|○
どうやら、知人の話でこの神社の名前を記憶していたようだ。
長可の関係ある神社は、どうやら田県神社ではなく、大県神社と判明!
次回、長可、生ヘビごっくんツアー決行!!