肥 | 田玄蕃助軌休 |
金山城と木曽川を隔てた米田(福島)城の城主
●人名
/
肥田玄蕃助軌休(ひた げんばのすけ ききゅう)
●出身 / 美濃国
●生没年
/ 未確認
●法名
/ 未確認
●墓所
/ 竜洞寺(岐阜県)
天正10年春。米田城主の肥田の元に森長可の使者がやってきた。長可曰く、「貴公領内の馬串山、至極景山ゆえ この方欲しく候。」 無茶苦茶である。肥田玄蕃は長可の余りの傍若無人の言葉にあきれながらも、「そこは息子・長壽丸の住居です。そして私は来年こ の息子に家督を譲ってそこへ隠居するつもりでございますから。」と慇懃に断った。米田城は、森家の拠点であった金山城とは川向こ うに位置する。米田城主・肥田玄蕃は加茂山に来て以来、米田庄一帯を支配していた。 さて、使者の報を受けた長可は大層立腹した。「折りを見て討ち取ってやる!!!」 その折りというのが、本能寺の変で戦死した弟達の葬式の日であろうとは・・・。天正10年7月2日、蘭丸・坊丸・力丸3名の葬儀を終え ると、森軍は喪服を脱ぎ捨て、鎧姿になった。この日の出陣は長可の策略だった。「玄蕃め、わが方が葬儀とて油断しておるだろう!」 本能寺の変の後に長可が川中島を撤退して金山に帰る時、玄蕃は諸将と謀って恵那千旦林で待ち構えて長可を討たんと画策してい たが失敗に終っていた。この一件で、長可は怒り心頭に達していた。 金山勢は川を渡ると、対岸の諏訪の段に登り全軍を集結させた。兵士に2対ずつ松明を持たせたので、数百の軍勢が倍の数に見えた という。どっかで聞いたような話だ。 その頃、米田城内は玄蕃の新しい男子(朝日麿)誕生で、お祝いムード一色だった。そこへ怪しい物音が響き渡る。諏訪明神から米田 城を睨む森長可。何の準備もなく、病気をしていた玄蕃はショックの余りもはやなす術なく城を捨て、妻と、生まれたばかりの子と数名の 家臣をつれ落ち延びるしかなかった。 馬串山にいた嫡男の長壽丸は、父の大事を聞きつけ馬串山の全軍を引き連れ城へ急いだ。長壽丸は背後から兼山勢を切り崩し、な んとか城に入ったが、そこはもはやもぬけの殻。城内から、父母らが落ち延び行く姿が見えた。「ならば私も父母のお供をしよう。」両親 を慕って城を捨てた長壽丸が西の大手より出たとき、森軍に取り囲まれた。なんとか脱出口をつかんだものの、背後より敵の鉄砲がう なった。長壽丸は左わき腹の鉄砲傷に苦しみつつ、「父の顔をも一目見て死にたし。」と致命傷の身体を引きずって父を追った。玄蕃は 生まれたばかりの子を百姓に預け、妻と友に船に乗ったところだった。長壽丸は馬上より、父母の姿を認めると大声で叫んだ。やがて 父母が気づくと、「父上、母上、こちらでございましたか・・・。」 そう言って長壽丸は息絶え馬より落ちた。玄蕃は子の首を敵にとらせまいと長寿丸の亡骸を船に乗せ、天子野という場所に子を葬った。 余りの悲しみに衰弱した妻を船番に預け、家臣とともに加治田城へ入った。 「長可をこのままにしておいては、傍若無人のあいつは我らを”クズ”とも思わず、奴婢雑人の扱いをするだろう。」 城主の斎藤氏も玄蕃に同心し、力をあわせ長可に一泡吹かせて玄蕃に本懐を遂げさせてやろうとした。しかし、 森軍の勢いはとどまる事をしらず、牛ケ鼻で対峙した玄蕃ではあったが、いまいましくも馬串山に本陣を置いた長可にこれまた敗北し、 更には家臣の伊藤忠助と多田角右衛門を生け捕られてしまった。玄蕃は、身を潜め、後に徳川家へ仕え、大名にはなれぬまま紀伊・ 尾張徳川家へご奉公したという。 |
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■ 肥田玄蕃より4代前は木曽義仲に仕え、本当の姓は諏訪氏であった。諏訪大明神に仕える家柄だった。 義仲没落後、美濃国肥田瀬村に居住し、さらに米田庄福島に移り肥田と改姓した。 ■ 森長可ご一行は敵の祀る諏訪大明神に戦勝祈願した。甚だ嫌味である。 ■ 玄蕃は森家の葬儀の日をねらって7月2日に金山を攻めるつもりが、長可に専制攻撃をしかけられたという話もある。 ■ 森軍が進軍で渡河したのは可成寺の下からだった。それにより”今渡”という地名ができた。(現在は下渡というらしい。) ■ 見事に名前に逆らって人生を閉じた長壽丸。彼が葬られた天子野は、建仁初頭の二階堂山城守の城址であった。 ■ 生け捕られた伊藤忠助と多田角右衛門はそのまま長可に仕え、両名長久手の合戦で討死した。 ■ 森家の文献では玄蕃は加治田城で自刀したことになっている。 ■ 肥田玄蕃の事を記す『肥田軍記』には、長可の悪口羅列。 |