野木殿

森忠政のもう一人のお母上。

人名 / 大野木殿 (通称)

生没年 / ?- 寛永4年(1627年)4月14日

法名 / 生光院殿心誉祖栄大姉

墓所 / 誕生寺(岡山県久米郡久米南町)


    

 信長室の直子は塙九郎左衛門(原田直政)の
妹、伝三郎は弟、となっているのですが、妙向尼の
母である女性を含め、兄弟姉妹の順がよくわかりま
せん。情報求む!

 

 慶長16年(1611年)春、森忠政が”御母公さま”と津山に迎え入れた女性がいた。

柴田勝家の娘、”大野木殿”と呼ばれる女性である。

 実は忠政は、7歳の頃、養子にいく約束が交わされたことがあった。

養子先は、妙向尼の母方の家系にあたる塙(ばん)家、山城国真木島(槙島)城主

塙九郎左衛門(原田備中守直政)と大野木どの夫妻の元である。

 詳しく言えば、塙九郎左衛門は、妙向尼の伯父さんにあたる人だった。のち、彼は

朝廷より「原田姓」を下賜され、以降、原田直政を名乗る。彼は山城と大和の守護に

あたっていた信長の有力武将であったが、石山本願寺との戦いで天正4年(1576年

)に討死を遂げる。その時に忠政の養子の話しも立ち消えてしまったようだ。

 その塙九郎左衛門の妻は柴田勝家の娘で、いつからの事かはわからないが”大野

木殿”とよばれていた。塙九郎左衛門が領していた大野木村(現:名古屋市西区大野

木町にちなんだものだろうか。

 夫を石山本願寺との戦いで失い未亡人になった大野木殿は、柴田勝家の家臣・原

元次に再嫁して、男子・長光と女子の二人の子をもうける。

しかし、その夫も、天正11年(1583年)7月1日に賤ヶ岳にて父・柴田勝家とともに討死

してしまう。

 それ以降、大野木殿は、尾張の大野村で細々と暮らしていた。追い討ちをかけるか

の如く、子の長光は「柴田勝家の孫」ということで秀吉に殺されてしまった。

 また別の一説には越前大野木という処で細々と生活していたという。どちらにしろ、

人生踏んだり蹴ったりで細々と暮らしていたのだ。

しかし、運命は彼女にせめてもの慈悲を見せ、慶長シンデレラストーリーが晩年に開

花する。かつて養子の縁が切れてしまった森忠政王子の登場となる。

 慶長16年(1611年)春。森忠政は、名古屋城の普請をしていて、ふと、養母であっ

た・大野木殿の事を思い出したらしい。

彼女の居場所をつきとめると家来を迎えにやり、以降、津山の内山下の屋敷に住ま

わせた。

 苦難の末にこうして再会を果たした忠政と大野木殿。終生家族に縁の薄かった2人

は、血のつながらないながらも、母子としての情を寄せ合いながら日々を過ごしただろ

う。

 大野木殿は遺言によって、法然上人にゆかりの深い久米の誕生寺に葬られた。

 波乱万丈の人生に身をおいた戦国の女性、大野木殿は、忠政の長男・重政と墓石

を並べて今は静かに眠る。


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 忠政は、大野木殿の戒名にちなんだ”生光院御御霊屋”を誕生寺に建立する。現在は観音堂に転用されているが、生前に
  大野木殿が生前信仰した弥陀如来立像と、ご位牌が安置されている。

 

 

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