原 | 田直政 |
信長の信頼厚き妙向尼の伯父。
●人名
/
原田直政(塙九郎左衛門)・正勝・重友・直正・長俊・備中守
●生没年
/ ?- 天正4年(15676年)5月3日(5月4日の説あり)
●墓所
/ 見性寺(京都府)
※ 信長室の直子は塙九郎左衛門(原田直政)の |
妙向尼の母は塙家の女性だった。森といい、林といい、塙といい、”一文 字名字の会”とか作って親戚どうしになっていたのだろうか。 塙は”はなわ”と読むのか”ばん”と読むのかわからないけど、家紋が”万” の字なので、ダジャレをいれているということで”ばん”と読んでみたい。 『森家先代実録』などの記録によると、妙向尼母は塙右近大夫の子だと いう。その母の兄弟姉妹を見てみると、塙家は織田信長に近しい関係にあ ったことがわかる。『信長公記』にも登場する信長の家臣”原田直政”や、信 長の側室であり、織田信正の母ともなった”直子”、織田信忠の武田攻めに も加わった塙伝三郎がいる。原田直政って、姓が違うジャン、ということに気 づくが、元は塙を名乗り、『信長公記』にも”塙九郎左衛門”という名で登場し のち、彼は朝廷より「原田姓」を下賜され、以降、原田直政を名乗り、『信長 公記』には”原田備中”と書かれるようになる。言われなければ別人と思い続 ける、大変危険な人物なのだ。 天正2年(1574年)3月28日に信長が東大寺の蘭奢待を切り取った時には、 彼が奉行を勤めた。天正3年(1575)年、鉄砲を使って武田方を破ったことで 名高いドキドキの長篠の戦では鉄砲奉行をつとめている。 る。塙が原田に改姓したのは、長篠の戦いの後のことであった。 その翌4年には、姪御・妙向尼の子、森忠政を養子にしようという話が取り決 められたが、これは原田直政の死によって立ち消えてしまう。 これは、石山本願寺のせいだった。天正3年に信長と本願寺は、とりあえず 和睦を結んでいたが、翌4年に本願寺が毛利や足利と呼応して挙兵した。 それで信長は本願寺を攻めた。原田直政は大将となって大阪御坊野田福島 を攻めさせたが、城は落ちず、信長は佐久間甚九郎(盛信の子供)を加勢に 向わせ、城を乗っ取った。その時の信長の「(原田)備中守(直政)は元の塙 九郎左衛門たるべし!」に傷ついた原田直政は「明日一番に死ぬ。」と言い 出し、家老の塙喜三郎、らと共に討死した。 妙向尼にとっては頼りにしていたこの伯父の死がいかに悲しかったことだ ろうか。さらに辛い事に信長は、直政の死後に原田家の遺族を追放してし まう。妙向尼の母の実家に対して信長は冷酷な処置を施したのだ。 |
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■ 塙一族の先祖は常陸国塙村の人で、後に尾張の国に移ったという。 尾張の大野村には彼らの居城、大野木城がある。 ■ 柴田勝家の娘(大野木殿)を後妻としている。晩年に彼女は森忠政の元に引き取られる。 ■ 子に安友があり、宗悦というお医者になって江戸に上った。 ■ 直政の居城のあった場所大野木城跡には、福昌寺が建立された。(現:) ■ 直政の妹の直子は信長の側室となり、織田信正を産んでいる。直政も、直子も、織田信正も、京の見性寺 の墓所に眠る。 |