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(゚-゚)バスに乗って行く場合は、観光案内所で一日乗車券を買うと便利です。各寺でご朱印をいただく(有料)のも楽しい。



■ 本能寺跡

 天正10年(1582年)6月2日未明、明智光秀の襲撃により、この寺を宿にしてた織田信長および
森蘭丸ら家臣が討死した歴史的場所。今は更地になっているが、立て札等で説明書きがある。
また、出土品は伏見城に保管されている。

《 みどころ 》 目印は「此付近 本能寺跡」。
         
近年の調査で、本来の本能寺はもう少しずれた場所にあったことが判明。   
         
近所には宣教師達がいた「南蛮寺跡」もある。

《 交通 》中京区蛸薬師油小寺下ル

《 他画像 》 此付近 本能寺跡(2009.7.11撮影)  ■昔の此付近 本能寺跡画像 ■実際の本能寺跡方面

 


 本能寺

言わずと知れた本能寺だが、これは別の場所に再建されたもの。
余りに火事の回数が多くて、火(ヒ)の含まれる”能”の字は改められ、現在違う字が使われ
ている。信長公廟には本能寺戦死者が奉られている。

《 みどころ 》 本能寺宝物館には蘭丸の物といわれる背負太刀が。
信長関係のグッズや書籍も販売されているんので要チェック!!

《 交通 》市バス205番乗車 市役所前下車



■ 阿弥陀寺

信長と蘭丸三兄弟をはじめとする、本能寺犠牲者の眠る寺。
寺伝では、本能寺の変の折、信長の首をどう隠すべきかと家臣たちが悩んでいたところ、当時の
住職が首を隠し持って阿弥陀寺へテイクアウト。光秀討伐後、秀吉がその首を所望したが住職は
秀吉の供養PR行動の対象になることを恐れ、頑として渡さず、やむなく秀吉は信長の木像をこし
らえ信長の遺体にみたて、大徳寺で盛大なる葬儀を執り行ったとの事。後に秀吉により、現在地
に移され、八分の一の規模に縮小されてしまった。
信長公像、信長の遺品や森可成書状を所蔵。(非公開)(上京区寺町通今出川上ル)

《 みどころ 》 境内には、織田信長・信忠、森三兄弟や蘭丸の義兄弟の青木次郎左衛門その他討
死した家臣たちの墓がある。また、信長の墓の横に立つ石灯篭は、森家家臣の青木家寄進のもの。

《 交通 》市バス205番乗車 葵橋西詰下車



■ 阿弥陀寺跡

いつかここに祠の画像 阿弥陀寺が豊臣秀吉によって天正15年に現在の場所に移される前は、上京区上立売通芝薬師町
にあり、多いに繁栄をみせていた。信長や森蘭丸らの遺体はこの地に葬られたという。

《 みどころ 》 最近まで存在した阿弥陀寺町という地名もなくなり、現在はそれを忍ぶものは
          ほとんど何もない。(祠があるという噂だけど、見つけ出せてない!)

《 交通 》 

 


■ 織田稲荷神社

大徳寺の隣の今宮神社には織田稲荷神社が合祀されてある。ややこしいけど、阿弥陀寺が移転
した跡地に織田稲荷神社が建てられ、後にその織田稲荷神社が今宮神社に合祀された。

《 みどころ 》 今宮神社へ訪れる人も、知らなければ見逃してしまうサイズのミニ神社。

《 交通 》
市バス今宮神社前



■ 大徳寺三玄院

大徳寺は秀吉が信長の葬儀をしたことで知られる寺院。総見院に信長公木像がある。
同じ大徳寺三玄院は森忠政の菩提寺であり、忠政や”うめ(宝泉院)”の墓がある。
森一族の位牌もまつられている。
関係者以外立ち入り禁止なので一般ピープルは院の外から見守るのみ。

《 みどころ 》 拝観謝絶だけど、入り口には説明書きの札がある。

《 交通 》市バス205番乗車 大徳寺下車



■ 大徳寺真珠庵

森家の記録によると、この真珠庵にも森可成以前の森家の位牌がまつられているという。
(非公開)

《 みどころ 》 拝観謝絶だけど、境内は特別公開があることも。でも、位牌は非公開。

《 交通 》 市バス205番乗車 大徳寺下車



■ 船岡山

  森忠政は、寛永11年(1634年)7月7日京都で逝去した。
食した桃があたったことが原因という。
遺体は船岡山ふもとで火葬にされ、大徳寺三玄院に葬られた。大徳寺とは目と鼻の先。

《 みどころ 》 ところで船岡山には織田信長をまつる建勲神社が鎮座する。

《 交通 》 市バス205番乗車 大徳寺下車



■ 建勲神社

「たけいさおじんじゃ」。または「けんくんじんじゃ。」船岡山に建つ。
明治天皇の宣下で建立された。信長親子とその三十六功臣が奉られる神社。

《 みどころ 》 蘭丸の画像複製が境内にあるけれど、色褪せてよく判らない。
この画像の写しをご覧になりたい方は新人物往来社刊『織田信長公三十六功臣』浅野
清編4600円をご覧のこと。森可成と、森蘭丸の画像が掲載されている。

《 交通 》 市バス205番乗車 大徳寺下車



■ 北野天満宮(北野大茶湯之址)

 北野天満宮は菅原道真公をお祀りする全国の神社の宗祀。
 天正(1587)15年10月1日には、北野天満宮の松原で豊臣秀吉が北野大茶会を催した。
このイベントに限っては、身分・国籍を問わずに参加でき、1500もの茶席が出た。
 森忠政は、金山の「小関の清水」を取り寄せて茶坊主・鳥屋尾不省(とやのおふせい)に
茶を立てさせた(『金山記』。)

《 みどころ 》 天満宮の駐車場となっている辺りが北野大茶会会場。「北野大茶湯之碑」が
         建っている(夜間撮影につき、どす暗い画像ですみません)。
          その茶会で茶の湯を汲んだと伝わる「太閤井戸」「三斎(細川忠興)井戸」が
         境内に現存する。
         また、宝物殿(開館期間限定)には、『北野大茶湯図』などが収蔵されている。          

《 交通 》
 京都駅より市バス50・101 北野天満宮下車


■ 右近の馬場

北野天満宮の東外堀はかつての右近衛府の馬場の跡。

《 みどころ 》 天満宮の東に延びる馬場(暗くて写真に収められず。不甲斐なくてすみません)。
          『森家先代実録』によれば、天正9(1581)年9月18日に大名らは織田信長から
          北野右近馬場で馬揃えを申しつけられた。森長可は、この馬場に向かう途中、
          毛利秀頼の屋敷を通りかかり、かつて自分がクビにした中間(ちゅうげん)の久
          兵衛が毛利の元で働いているのを
見つけて切り殺し、毛利との間でいさかいを
          起こしたらしい。

         
 (※織田信長が天皇の御前で開催した有名な馬揃えはこの年の2月、3月。
          9月に京都(右近馬場)で馬揃えをした記録は『信長公記』には無いのですが、9月に
          もやったのでしょうか??
情報求ム

《 交通 》
 京都駅より市バス50・101 北野天満宮下車


■ 建仁寺常光院

  慶長九年(1604年)木下家定が三江紹益に帰依し、堂宇を再興した境外塔頭。
森可成の弟、森可政の墓がある。
森家と木下家は縁戚関係にあった。
木下家定の息子の勝俊(長嘯子)の妻が蘭丸の姉妹”うめ(宝泉院)”である。でも後、離婚。

《 みどころ 》 

《 交通 》 市バス東山安井下車



■ 京都井伊美術館 (旧:中村甲刀修史館)

  甲冑・刀剣研究家の井伊達夫(中村達夫)氏が開いた武具専門の資料館。外観は武家屋敷ふう。
その展示品、収蔵品の多さには圧倒される。

《 みどころ 》 季節ごとにテーマを決めて展示品を替えている。うまくいけば森家関係の
          武具も見ることができる。

《 交通 》 市バス東山安井下車



■ 盛丘院

  森長可の死後、中村一氏へ再嫁した長可の妻(池田恒興の娘)のご位牌が有る。
長可の妻の位牌があるといわれている。

追記:寄せられた情報では、盛岳院は、彼女の祖母である養徳院が織田信長の冥福を祈って
妙心寺に建立したそうですが明治初期あたりに廃寺になったそうです。 。また、養徳院の位牌は同じ妙心寺の慈雲院に移されたそうですが長可の奥方の位牌
が今どこにあるかは不明。情報求む!


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