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長岡                                           ホーム  史跡INDEX


■ 勝龍寺城跡

 元は、南北朝時代に細川氏によって築かれた城である。しかし、戦国期になるとこの城は三好三人衆の一人・岩成友通に
横領されてしまっていた。
 『信長公記』によれば、足利義昭を擁して上洛した信長は、永禄11(1568)年9月28日に柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井
右近政尚の四名に先陣を命じてこの城へ攻め込ませた。可成らは桂川を越えて勝龍寺城へ攻め込みこれを落城させ、討
ち取った五十あまりの首を東福寺にて信長に献じた。岩成は翌日には降参することとなった。
 その後、信長がこの城を細川藤孝(細川幽斎)に与えて、勝龍寺城は再び、細川家のものとなる。
ちなみに、明智光秀の娘
玉(ガラシャ)は細川家が勝龍寺城を居城としていた時代に、この城に嫁いできた。本能寺の変の後、山崎の戦いで豊臣秀
吉に敗れた明智光秀が退去したのもこの勝龍寺城だった。

《 みどころ 》 北門跡などの遺構が残るが、その門は光秀が居城の坂本城に逃れるために出て行った場所という。さいなら。
本丸跡と沼田丸跡の整備に加え、他にも、細川忠興と細川ガラシャの銅像があったり、地下水がわき出ていたりする(飲用可)。
画像に見える建物の2階には、入館無料の発掘品などの展示室もあるが、織田信長の名はあっても、攻め込んだ森可成の名は
見えなかった。

《 交通 》 JR長岡京駅下車徒歩


伏見 地図】                                               ホーム  史跡INDEX


■ 伏見城跡

 現在は桃山御陵なので入れません。
地図の航空写真をご堪能ください。
 豊臣秀吉が指月に築いた伏見城が慶長元(1596)年に地震で崩壊した翌年、聚楽第の
遺構を移築して木幡山に新たな伏見城を築く。
 慶長5(1600)年の関ケ原の合戦の時は、
鳥居元忠と共にこの城を守っていた木下勝俊が
戦線離脱して、うめとの離婚に至っている。
 関ケ原で伏見城が落城し、翌年に徳川家康によって再建され、徳川三代まで利用される。
森忠政は、
慶長8(1603)年2月6日に、この伏見城にて、美作国を拝領する。

《 みどころ 》
 現在本丸跡は、明治天皇陵になってしまっているので、どうあがいても入れない。
そばにある伏見桃山キャッスルランドは、長束正家の屋敷跡に造られた再建天守閣だけど、
これも(倒産して)現在非公開。
 伏見城の遺構と伝えられるものに、御香宮神社の表門、醍醐寺三宝院書院、西本願寺唐門、
豊国神社唐門、養源院天上などがある。

《 交通 》 JR桃山駅/近鉄桃山御陵前下車徒歩


■ 御香宮神社

 豊臣秀吉が指月に伏見築城に際した時に、城の鬼門除けとして伏見城内に移したが、
慶長10(1605)年に徳川家康が再び元の地に本殿を造営した。

《 みどころ 》 表門は、伏見城大手門。境内には伏見城の石垣も転がっている。

《 交通 》 京阪伏見桃山駅/近鉄桃山御陵前/JR桃山駅下車後徒歩


■ 森忠政伏見屋敷跡

普通の民家なので撮影画像を

掲載できません。【地図でご確認
ください。

 森忠政の伏見屋敷があったと推定されるところは、現在の住所的には「長岡越中」。向いにひとまわり
大きな細川(長岡)越中守忠興の屋敷があったせいだろう。
 森忠政の伏見屋敷は慶長4(1599)年4月8日に火災で燃えている。
燃えて、延焼して徳川秀忠屋敷まで焼いてしまったという記録も残る(でも、秀忠邸がどこか私にはよく
わからない)。


《 みどころ 》
 京都教育大付属桃山中学校と道路を隔てた場所にあたるが、森忠政屋敷のあった敷地は
現在、住宅地になっている。お隣さんは伊達政宗(下屋敷)、加藤貞泰。お向かいは細川忠興など。

《 交通 》 京阪電車本線・丹波橋下車後徒歩


■ 向島城跡

   もともとは、豊臣秀吉の出城として築かれていたが、秀吉の死後、徳川家康の居城となった。
石田三成が家康を殺そうと画策していた頃、森忠政は細川忠興と一緒に、具足やご飯を
挟箱(はさみばこ)につめて、向島城を訪れて警備を申し出、3日間待機して家康を感心さ
せたという。

《 みどころ 》 向島城は、一国一城令により破却されている。
どれだけ遺構があるかは管理人未確認(まだ行ってない)。
 

《 交通 》 京阪電車宇治線・観月橋下車後徒歩


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