韓国

 


 豊臣秀吉の二度に渡る朝鮮出兵、文録・慶長の役。
当時、豊臣秀吉に仕えていた森可政(森可成の弟・蘭丸の叔父)は、この朝鮮出兵に際して渡海し朝鮮側の城を攻めた。 

以下は、森可政の渡海に関する『森家先代実録』の一文。

一、朝鮮征伐の節は、丹後国田邉の城主木下宰相秀雄の手に加り
朝鮮国におゐて木下判官の城を(一に釜山海の城を乗取る時武功有りと
云々
)乗取し時高名有り


また、『寛政重修諸家譜』によれば、森可政は
『朝鮮の役に、彼國に渡り諸陣の形成を巡視し、且軍功あるにより、采地千八百六十石を與へられ
…』
とのこと。

註):
・丹後国田邉の城主・木下宰相秀雄:誰の事だか捜査中。
・木下判官:晋州城を防衛していた朝鮮側の将軍・金時敏(キムシミン)。
・釜山海の城:釜山鎮城


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 晋州邑城(晋州城):晋州市南城洞、本城洞

 日本軍は文禄元年(1592年)10月と、文禄2年(1593年)6月の二度にわたって
この晋州城(チンジュソン)を攻めた。
城は一度目には落とせず、二度目にしてこの城を陥落させた(森可政が参加し
たのはこの二度目の晋州城攻めの戦いと思われる)。
 この城を守っていた将軍・金時敏の晋州牧使(モクソ)という肩書から、日本側
はこの城のことを木曽城(モクソジョウ)と呼んだ。

《 みどころ 》 城と言っても、邑(むら)を城壁で囲むというもので、日本の城と
は性質が異なる。ゆえに、日本軍が攻めた時は城内に暮らす一般住民も否応
なしに戦いに巻き込まれた。
 城内には、忠武公金時敏将軍像矗石楼当時の武器展示をはじめ、日本
軍との戦いのを伺うものが多くある。
 同じく城内にある国立晋州博物館には、多くの資料が展示されている。
あ、博物館の中のミニシアターで見ることのできる日本軍の人相の悪さと、卑怯
者ぶりは半端ないです(シアター映像は最初から最後まで、ツッコミ所満載!)。

■購入した本:『国立
晋州博物館 壬辰倭乱』(日本語)
         『宣武功臣 
金時敏教書』(韓国語・英語) 

■よろしければレポートもご覧ください。
  『韓国に行ってまでして森家な旅』(計2ページ)

《 交通 》
 晋州駅より徒歩。または、晋州市外バスターミナルから徒歩10分


 釜山鎮城跡(鄭公壇):釜山広域市

 文禄元(1592)年4月13日に日本軍が朝鮮に入って最初に総攻撃をしかけた
のが釜山鎮城で、城は4時間ほどの戦いで日本軍が落城させた。
 当時の釜山鎮城は海に隣接していたので日本の記録には「釜山海の城」とも
書かれた。
 現在は周辺の海も埋め立てられて地形が変わってしまい、釜山鎮城跡も当時
の面影を留めていない。

《 みどころ 》 当時の釜山鎮城南門にあたる場所には、現在、朝鮮方の守将・
鄭撥(チョンパル)をはじめとする朝鮮方の戦死者を祀る祭壇「
鄭公壇」が築か
れている
(画像はその鄭公壇の入り口)。
なお、『森家先代実録』は森可政の渡海について、「
一に釜山海の城を乗取る時
武功有りと云々
」という割注を入れている。

■よろしければレポートもご覧ください。
  『韓国に行ってまでして森家な旅 もしかしてパート2

《 交通 》
 地下鉄・佐川洞駅より徒歩10分。


つづく…

 行きたい場所リスト

ツタノ要害:まだ、どこにあるなんと言う城なのかすらわからないけど、「朝鮮王国の連枝ツタノ要害」。
        文録の役の時に日本軍がツタノ要害の城主・長尾(チャウヒ)春進の妹達を人質として日本へ
        連れ帰り、そのうちの一人(「長尾局」と呼ばれた)を森忠政が預かった(『森家先代実録』)。

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