韓国
行ってまでして森家旅 1ページめ
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※ご注意:今回の旅はケーブルや倭城など、森家には直接関係ないものも多く登場します。と、いうか、今回の旅の森家関係史跡は晋州邑城くらいなもんです。あ、倭城というのは日本軍が朝鮮に築いた城のことです。
 ちなみに、朝鮮出兵の時には、時の森家当主の森忠政は肥前の名護屋城でお留守番していたので、渡海しておりません。でも、叔父さんの森可政が渡海しています。今回は、その叔父上を追っかけてきた旅です。
 あと、豊臣秀吉の朝鮮出兵の関係の城をゆくということもあるので先にお断りしておきますが、この旅行記の中で私がどんなに張り切って倭城に登っていようが、それはあくまで近世城郭の遺構を当時のままの形で見ることができるという貴重な体験を喜んでいるもので、慶長・文録の役を肯定している訳ではありません。m(_ _)m

                2009年5月2日-6日 in 韓国 

晋州邑城のカササギ
日本ではカチドリとも呼ぶ。「カチカチ(勝ち、勝ち)」
と鳴くのが縁起がよいと日本軍が日本に持ち帰っ
たらしい。私には「カチ」に聞こえないのだけど…。

■ 5月2日(土) 

 
 旅程:博多-(ビートル)→釜山港-(模範タクシー)→金海空港-(大型タクシー)→蔚山倭城→西生浦倭城→パラダイスモーテル泊

 森蘭丸の叔父さん・森可政が、豊臣秀吉による朝鮮出兵で海を渡っている。そしてどうやら晋州邑城攻めに参加しているのだ。去年の12月に津山で「私もいつか晋州邑城に行きたい。」とボヤいたところ、その数ヶ月後にお誘いがかかって、あっさりとドリームカムトゥルー!!!

 博多港からビートルで約3時間、釜山港へたどり着く。
実は私は海外は2回目なので、海外旅行もビギナーに等しく、ただ、ひたすら海外には怖い人たちがたくさんいるので騙されないようにしようという思いにかられ、お金もパスポートも、リュックの谷底奥深くに入れて容易には取り出せないようにし、自らにも気合いを入れて出国ゲートに降りた。
 そしてものの10秒後に韓国の人達に囲まれて、思わぬ方向に誘導された。TVカメラを向けられ、チマチョゴリを着た美人ニュースキャスターにマイクを向けられて、気づけばTV(韓国KBC)に出演していたのだった。Σ(゜□゜;ええええ!!!でも、インタビューには素直に答えられない。釜山へ来た理由とて
「豊臣秀吉による朝鮮出兵に加わった森可政(蘭丸の叔父さん)をはるばる追ってここまで来ました。日本軍の築城した倭城なんかもたくさん巡りますッ!!」
…とは、言えずにTPOを考えて「…観光です。」と控え目にやり過ごした。これも、日韓友好のためである。
 本日よりお世話になるメンバーが出迎えてくださっていた。中には津山の知人もいたけど、彼は、今から日本へ帰るのであった。
 全員、タクシーで金海空港に移動して他のメンバーをお迎えし、同時に津山の知人ともここでお別れした。空港内のハンバーガーショップでいきなり後ろから韓国の方にトントンとされてビビっていたら、「あなた、釜山港でTVに出てたでしょ。」(と、たぶん、そう言っていた)と声をかけられた。おお、ようわからんけど、30分もたたんうちに有名人になってしまった…と思ったら、その人達は観光協会の方で、さっきまで釜山港にいたらしいのだった。でも、朝鮮出兵史跡めぐりについてはトップシークレットである。
 空港内の観光案内所に行くと、先ほどハンバーガーショップで私に声をかけてくれたアガシが出てきて、お互いに笑った。

 いよいよ倭城めぐりが始まる。ちょっと不思議な匂いのする大型タクシーを借りて、まずは蔚山(ウルサン)に向かった。高速道路に乗ると、怖いことに道路上に人がいて走る車に近づいてきてお菓子を売るのだった。なんて命がけのミッションなのだ。
蔚山の繁華街にいきなり公園があって、そこが蔚山城跡だった。
 倭城というのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本軍が築いた城を指す、と、去年の冬あたりまで倭城の存在も知らなかった私がエラソーに言ってみる。
 日本軍は日本国内に劣らぬ石垣の城を朝鮮にたくさん築いていたりするのだった。倭城という名称は日本軍の城を朝鮮の城と区別するための用語だそうで、韓国語では「ウエソン」というそうだ。「倭」はあんまりいい響きしないけど、そういうことなのでしょうがない。
 で、蔚山倭城の山頂に登って、ふと振り向けばメンバーが誰もいらっしゃらんので、「はや生き別れか、忘れられて置いてかれたか!!」と、大いに焦る。
 恐る恐るに公園のガケを見下ろせばみなさん、各所に散り散りになってガケに張りついたり草を抱きかかえたりして石垣や遺構を探していらした。
 この後もどこの城においても、気づけば皆、無言で解散していることがよくあって、一緒に過ごさせてもらう内に、そういうもんなのだとだんだん理解していった。

蔚山城跡(蔚山広域市)・ウルサン ウエソン
築城:慶長2年 築城者:浅野幸長・太田一吉・宍戸元続ら 在番:加藤清正
蔚山倭城にあった看板の日本語の説明文(そのまま書き出し)
 蔚山倭城の別名を「島山城」又は「甑城」という。丁酉再乱(慶長の役)の時、倭軍の将帥加藤清正が、
正が、とがっていた山を50m位の高さにして、蔚山邑城と兵営城の石を用いて築いた。「甑城」とは、
の規模がこしき(甑)に似ていることから
付けられた名である。
 頂上には本丸が置かれ、北側の下に二ノ丸と三ノ丸が配された。この三つの城壁の全長は合わせて
1300mであり、高さは10-15mであった。地形に沿って切り立ったように城壁を立て、その上と下に穴を作
って
銃を打て銃を打てるようにした。倭軍1万6千名を率い、40日余ぶりに築いた日本式の城である。
 当時、倭軍は北上していたところ、稷山で合戦となり敗れ、その後、南海岸に駐屯していた。清正は西生
浦に城を築いた後、出城としてこの蔚山倭城を築いて籠城していた。城を築造してから三日目の宣祖30年
(1597)12月23日に朝鮮・明連合軍が城を包囲して、13日間にかけて倭軍を攻撃した。戦闘は激しく展開さ
れ、両方とも数多くの死傷者を出した。朝鮮軍の死亡者は約1,000人、負傷者は3,000人で、明軍の死亡者
は4,800人、負傷者は約6,000人ぐらいであった。倭軍は6,000人ぐらいが死亡したと推定される。
蔚山倭城説明看板
日本語の説明看板を作る時に、日本語が正しい
のかプロにチェックさせたりしないのだろうか。
ここに限らず変な日本語・英語がしばしば見受け
られた。
蔚山倭城山頂部分
今は公園となって遊具も設置されて市民の憩い
の場になっている。
蔚山広域市庁のサイトで仮想旅行ができます。
パノラマで目を回さないようご注意!
蔚山倭城の石垣
公園化しているものの、壁面には結構、石垣が
残っていた。縄張りは加藤清正によるもの。
蔚山倭城の石垣
明・朝鮮の連合軍に取り囲まれて籠城半月。
日本軍は馬や土壁すら食べて飢えをしのぎ、
尿を飲んで渇きをしのいだ。

 続いては、鎮下(チナ)に移動。海水浴場があるこの地区は、夏は涼を求めに来る人々で壮絶らしいけど、今は閑散としていた。宿泊宿は「パラダイスモーテル」。

パラダイスモーテル

パラダイスモーテル
パラダイス・モーテル!!!どぉぉぉぉぉんん!Σ(*゜□゜*

その名に愕然としていたら、韓国では、普通のホテルでも「モーテル」という言葉をカッコ良さげに使うのだとういうことを教わった。

 荷物を置いて、早速、西生浦倭城へ登る。整備が行き届いていることもあって、見どころ満載だった。

西生浦倭城(蔚山広域市)ソセンポ ウエソン
築城:慶長2年 築城者:加藤清正 在番:加藤清正のち、黒田長政
登り石垣 
 日本ではお目にかかれない形式の石垣。麓
から山上にまでめぐらしてある。
山頂に城跡メイン部分がある。
主郭部大手口
傍に水場があるので、絶対に死守せねばなら
ぬ場所の為に守りが固い。

曲輪から出たろころの虎口
付近にも2つの虎口があり、合わせて3つの
虎口が入り組んでいた。
山頂本丸部分
私の陳腐な写真では、規模のすごさが
伝わらないけど、すごい規模なのだ!

 城跡を降りて、韓国で初の夕食となる。焼き肉ワッショイ!ニンニクでも、唐辛子でも、遠慮なくクチにほうりこむ。

焼き肉
チシャ葉で肉を巻いて食べるのが以前からの
夢だった…。

 夜は、鎮下海水浴場の海岸で韓国の恋人たちにさりげなく混じって花火を楽しんだ後、部屋で飲み会になる。お城好きのメンバーの皆さんは本当に熱かった。

韓国式のオンドル部屋で、熱々と就寝。
…って、本当に床が熱くて何度も目が覚めてしまった。

■ 5月3日(日)

★旅程:西生浦倭城-
(大型タクシー)→林浪浦倭城→機張倭城→釜山駅-(地下鉄)→下端駅(バス)→龍院-(徒歩)→安骨浦倭城-(バス)→龍院-バス→下端駅-(地下鉄)→チャガルチ-(地下鉄)→釜山泊

 小雨。早起きして、朝7時から一人で西生浦倭城に登る。登り石垣の外側から山頂まで登ってみたかったのだけど、途中で道が怪しくなっている上に、怪しい獣臭で満ちてきたので、普通の登山口に切り替えて登る。自然にあふれて空気もおいしい。曲輪にあった巨石に腰かけて深呼吸してゆったりとくつろいでいたら、健康のために山を歩いているのだろう韓国のおばちゃんがやってきて声をかけてくる。何を言っているのかわからないのでただ笑って「モルムニダ(わかりません)。」と言っても、私のわかりませんがわかってもらえないのか、ずっと話しかけてくる。「中国(チュングォ)」という単語だけは聞き取れたので「日本(イルボン)」と言ったら、しかと頷いて去って行った。
 私もしばらくして、再び山頂を目指して登る。本丸の石垣を見上げると、さきほどとは別のおばちゃんがいて、シャワーキャップ(お風呂で使うアレ)をかぶって石垣の上を軽快なテンポで歩いていた。韓国の忍者かも知れない。「あのおばちゃんに存在を気づかれるな!」と、私の潜在意識が叫んでいたので、おばちゃんが去るのを待ってから本丸に入る。その時、ガサゴソと物音が…。

ムムッ!怪しい物影!

 数匹いたリスを夢中で追っかけまわして本丸そっちのけ。
しかし、リスは動きが早すぎて捕まえられないことを悟り、また曲輪に戻って休んでいた。雨がちょっと大粒になってきた。メンバーのみなさんも城に登ってきたらしく、「いた!」と私を見つけてくれた。朝ごはんはもう済ませたとのことで、私の分の のり巻き2本を城まで持ってきてくれた。
雨の中、曲輪の巨石に腰かけ、のり巻きをハムハムと食べる。そしてまた、本丸に登る。

 
朝10時に昨日と同じ大型タクシーに迎えにきてもらって、林浪浦倭城を見学する。
 「九州の弱小大名の造った城だから、石垣も大したことない。」とお話しているのを耳にすると、何だか九州大名たちの肩を持ちたくなってしまうのは…そうか、私が彼らと同じ九州の人間だからか。

林浪浦倭城(釜山広域市)・インランポ ウエソン
築城:文禄2年 
築城者:九州の弱小大名(毛利吉成・島津豊久・伊藤祐兵・高橋元種・秋月種長)
林浪浦倭城のあった山
数年前に火事に遭ってハゲ山となっている。
消火のために、虎口も破壊されたそうだ。
でも、石垣はそれなりに遺っていてくれた。
天守台跡
頑張れ九州のモルムニダ大名たち!ガイアが「
君たちよ、もっと輝け」と言っている!土造りの
場所が多くてもそれが何だ!

 続いて、機張倭城タクシーを降りる前から、山上に大規模な石垣が続いているのが見えた。さらには登り石垣も存在した。
 

機張倭城(釜山広域市)・キジャン ウエソン
築城:文禄2年 築城者:黒田長政 在番:黒田長政(加藤清正)
機張倭城の石垣
四角くめぐらした石垣の三隅に櫓を置いて、一
番大きな隅に天守台を置く、秀吉好みの設計。
  機張倭城の石垣
今だ崩れる感じを見せない石垣。
(もしや整備後?)

 機張倭城の敷地は広大な領域に及んでいて、言われねば気づかぬほどの遠くの山にも機張倭城の石垣がめぐらしてあった。東京ディズニーランドに行ったことはないけど、東京ディズニーランドよりも遥かに広大な領域を持つ城だった。ここにはネズミ耳のミッキーはいないけど、大水牛(だいすいぎゅう)形のツノを頭につけた男がいたのだゼ!

 釜山で大型タクシーから降り、モーテルに荷物を置いて、倭城めぐり再開! 

龍院行きのバスチケット
数字しかわからない…。

 安骨浦倭城というのは、何と天守が3つもあるというお徳用なのだった。築城者の皆さんは、みんなそれぞれ自分用の天守を作ってみたようだ。家庭内別居というような感じか(違う)。
 それにしても、驚くことには、城内の平坦地には土まんじゅうが到るところにある。
その土まんじゅうとは、現代韓国人が眠る墓だったりするのだ。聴くところによると、韓国では好きなところに墓を造ってよいらしく、この倭城は永遠の眠りにつくのに超・イイ感じであるのか、土まんじゅう(墓)がいくつもある。
 韓国は土葬にするそうだ。埋葬した棺桶が空洞になって地面に穴があくのを避ける工夫が土まんじゅうなのだそうだ。土まんじゅう、土まんじゅう、あっちもこっちも土まんじゅう。なるべく写真に写らないように撮影するのが難しい。

安骨浦倭城(鎮海市)・アンゴルポ ウエソン
築城:文禄2年 築城者:脇坂安治・加藤高明・九鬼義隆
在番:脇坂安治・加藤高明・九鬼義隆のち、藤堂高虎・脇坂安治
石垣
土まんじゅうのおかげなのか、城内はキレイに
草刈りされていて、遺構も見やすかった。
虎口
自分でこの写真がなんか一番気にいってしまい
PCの壁紙にもしてしまった。
石垣
実はここから見下ろす風景は現在、埋め立て工
事大開発中で非常に現代的なのだった。
日本軍が目にしたきらめきの海はもうない。
旗竿石?
軍旗を差していた石かも知れない。穴は本当
に綺麗で正確な丸穴だった。
そして、その隣にも土まんじゅうが並ぶ。

 夕食はチャガルチに出た。入って行った建物の1階は鮮魚市場になっていて、2階で海鮮料理を食べることができる。

一緒にでてきた食べ物

ナクチ
タコをぶった斬りにして味付けしたもので、ウニ
ョウニョと動いているものが皿に盛られて出てく
る。食べると口の中で吸盤が吸いついて気持ち
いい。
ケーブル(手前)
楳図かずおの描くような巨大ナメクジ(貝類と
信じたい)を切ったもの。まだ動いていた。意
外と美味しい。
奥にあるのはアワビをぶった斬ったもの。
ヒラメをまるごと刺身盛り
大きかった…刺身の下には、大好きな海藻(歯
ごたえがプチプチしてる麺みたいなのヤツ)が
テンコ盛りだったのでそっちばっかり箸に巻いて
食べてしまった小市民。

そして、釜山の宿に戻り、食後はまた部屋で飲み会。
 

■ 5月4日(月)

★旅程:釜山駅
-(地下鉄)→老圃洞駅-(優等バス)→順天バスターミナル-(タクシー)→順天倭城-(タクシー)→順天バスターミナル-(バス)→南海バスターミナル-(タクシー)→「東征詩」石碑・南海倭城-(タクシー)→南海バスターミナル-(バス)→晋州-(徒歩)→晋州邑城→晋州泊

 
5時起床で6時に宿を出発。長距離バスに乗って順天を目指す。途中、バスがサービスエリアで休憩を入れてくれたので、ホットドッグ(ホットドッグといっても●の肉ではないよ)を食べながら、CDショップ売り場のカウンターで一人踊りまくる店員の姿に唖然として過ごした。

順天バスターミナル(の画像と思う。)
ハングルばかりなので、訳がわからなくなる。

 コインロッカーよりもキャリーバッグが大きくて荷物を預けられなかった方達は、キャリーバッグを引いて順天倭城に行くこととなった(私のキャリーバッグは幸い、コインロッカーに納まった)。 
 タクシー2台で現地へ向かう。
順天倭城に到着すると、キャリーバッグは小高い曲輪の上に隠した。

順天倭城(順天市)・スンチョンン ウエソン
築城:慶長2年 築城者:宇喜多秀家・藤堂高虎 在番:小西行長
順天倭城遠景
左奥に天守台が見える。最近まで田んぼだっ
たらしい城まわりも、当時の様子を再現すべく
水を引きこんでいる。
『征倭紀功図絵』の模写
順天倭城は、海上の要塞だった。
この城は、明・朝鮮連合軍に攻められることと
なる。
 
あ!!
天守台
復元のもの。一旦、朝鮮式の復元(石垣の一
番下に横長い石を置くらしい。)をしてしまった
のをやり直したそうだ。
復元石垣
食い違い門の間には城に入る土橋がある。
『征倭紀功図絵』にも描かれている城へ入る
ため海にかかる大きな土橋部分。

 慶長3(1598)年8月18日、海の向こう日本では、豊臣秀吉が死んでしまった。それに伴い、朝鮮に渡っていた多くの日本軍も(秀吉の死は知らされぬまま)撤退することになる。
 しかし、明・朝鮮連合軍は、この機に日本軍を破らんとする。で、「小西行長生け捕り大作戦」を展開して、嘘の和議を小西行長に提案したけれど、計画がバレてしまって行長に逃げられ、結局、順天倭城での攻防戦となった(日本軍の勝ち)。

お昼ごはんの冷麺
麺をハサミで切って食べるものなのだと初めて
知った。

 次はバスで南海島まで行く。タクシーで島内を走ってもらう。

「東征詩」が刻まれた巨石
明軍の張良相が巨石に刻んだ勝利記念の詩
が遺っている。実際には、明軍がやってきた時
にはすでに日本軍はいなかったので戦っては
いないらしい。

 南海倭城は、畑と同化していた…。畑の中の細い道を伝って城跡を見学する。海外に来て、なんでよそんちの畑に侵入して苗を踏まないように気をつけながら歩いているんだろう、私。
朝鮮の役も末の露梁海戦(ロシアとの戦いじゃないよ。)で船が座礁してこの南海島に遭難してしまっていた島津軍500名は、対馬の漁民が操る小舟を借りて、4、5人ずつ乗せて対岸の昌善島に何往復もしてこの島から全員脱出したそうだ。すさまじい往復劇だ。果たして何往復したのか、私の弱い頭では考えも及ばない。   

南海倭城 韓国語で何というかわかりません。
築城:慶長2年 築城者:脇坂安治 在番:宗義智
遺構
石垣もちょっとは遺っていたけど、城内のメイン
部分はほぼ畑となっていた。
天守台跡
天守台の上はブッシュになっていて登れなか
った。

 南海より、晋州へ行く。宿に荷物を置いてから、晋州邑城を見学する。

何を隠そう、ここが私のメイン城なのだ!

晋州邑城は朝鮮側の城だ。日本軍は二度にわたってこの晋州を攻め、一度目では落せず二度目にしてようやく陥落させた。この攻防戦(二度目)に森蘭丸の叔父さん・森可政が加わっていたっぽいのだ(詳細は次ページで)。
※日本軍がこの城を陥落させたことを喜んで行くのではないです、念のため。

 

晋州邑城
晋州邑城
朝鮮式の城は村ごと城壁で取り囲んでいる形
式なので、攻められると住民も否応なしに巻
きこまれて戦わなくてはならなくなる。
銃筒3種類
かつて、この城壁の向こうにすさまじい数の
日本軍が押し寄せたのだ。
お互いに見たことのない武器炸裂!

 食事は焼き肉。食後には再び晋州邑城に行く。城内の建築物の多くがライトアップされていて、とても美しかった。

晋州邑城の門(北側にあった)
門の名前はわかりません…。

そして宿に戻ると飲み会が始まる…。

2ページめへつづく