韓国行ってまでして森家旅 2ページめ
 
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 旅程:晋州-(タクシー)→泗川倭城-(タクシー)→晋州邑城-(なんか色々あって)→釜山駅

一、朝鮮征伐の節は、丹後国田邉の城主木下宰相秀雄の手に加り
朝鮮国におゐて木下判官の城を(一に釜山海の城を乗取る時武功有りと
云々
)乗取し時高名有り(『森家先代実録』)

 これが「森可政」の渡海に関する記述。この頃の森可政は森家から出て行き秀吉の黄母衣衆となっていた(将来的には、森忠政に乞われて森家に戻り、津山で家老となる)。
 上の記述については
「きのした・はんがんの城ってどこの城よ?」と、チンプンカンプンだったけど、詳しいことを読み説いて教えていただくことができた。

「釜山海の城を乗取る時」…
この文章によれば一番隊に加わって開戦当初、釜山鎮城攻城戦に加わったことになるものの、しかし、この割註は奇妙です。誤解があるように思います、とのこと。

木下判官の城を乗取し時高名有りとは…
これは「モクソ(牧使)の城」と日本側に呼ばれ、憎しみを受けた晋州城(晋州邑城)の話ではないかとのこと。文禄の役の講和に入った文禄2年4月、秀吉は目の上のタンコブの晋州城攻めを命じ、日本から伊達政宗をはじめとする多くの武将が渡海します。その時の渡海ではないでしょうか?とのこと。

 「木下判官」部分の「木下」とは「モクソ」と読むべきものらしい。やっぱり、わかる方が読めばわかるものなのだ。その言葉によって私は海を渡り、確信を得るためにここ晋州邑城にやってきたのだ。リスを捕まえなきゃならないほど、お金がないくせに(円高でよかった)。
 早起きして、一人で城内を散策した。実際には、この日の晋州邑城へは、晋州邑城→朝食→晋州邑城→泗川倭城→晋州邑城と数度に分けて訪問しているものの、判りにくくなるので、先に晋州邑城のほうを一気に紹介。城内にあった英語の案内文をそのまんま訳したので、時代考証的にあっているのかはよく判らない。


晋州邑城
日本軍は文禄元年(1592年)10月と、文禄2年(1593年)6月の二度にわたって
この城を攻めた。一度目には落せず、二度目にしてこの城を陥落させた。
晋州邑城
ぐるりと城壁で取り囲む。
加藤清正は、「亀甲車」という牛のリアル首つき
マシンを使って、城の根元に穴を掘って城の建
て物を崩壊させていったという。
城内マップ
城内はかなり広大だ。慶長文禄の役関係に
まつわる史跡も沢山ある。命を捨てて日本軍
に抵抗した愛国心を讃えるものが多くて日本
人の私は心苦しくなったりもする。
殉義壇
奥に見える場所には、慶長・文禄の役で戦った
城内の人々を讃えて哀悼する文章やレリーフで
囲まれている。
矗石樓
城の南側にある楼閣。戦争の際には司令本
部となった。日本軍もここで宴を開いたとか。
現建物は朝鮮戦争で焼失したものを再建。
義巌(義岩)
日本軍の宴に呼ばれた芸者の論介(ノンゲ)
は、日本軍の武将を抱きかかえてこの南江に
身を投じた。

  義妓祠
論介(ノンゲ)を祀る祠。

 「モクソ(牧使)の城」…その牧使とは役職名で、日本軍との攻防戦において、日本軍2万を相手に戦った朝鮮側の指揮官、晋州牧使・金時敏(キムシミン)に由来するのだった(晋州判官から昇進)。彼を讃える石碑や銅像などが城内にあった。日本軍の攻撃を防いで城を守り切った彼の存在ゆえに、日本ではこの晋州邑城を「木曽(もくそ)城」とも呼んだのだ。
『森家先代実録』にあった「
木下判官の城」が何であるのか、自分の中で完全に氷解した…。
 ああ、勉強すべきことはこれからも山ほどあるのだな。

晋州牧使・金時敏将軍

忠武公金時敏将軍像
第一次晋州城攻防戦において、3800人の軍
勢で2万に及ぶ日本軍の攻撃を防いで晋州
城を守りぬいた。しかし、その時に日本軍か
ら受けた鉄砲傷が悪化して亡くなった。
金時敏戦功碑
隣には、同じように矗忠族忠壇碑が並ぶ。
日本軍との戦いに関係するものばかりだ。

北将台
北側の将軍指揮所台。額には「鎮南楼」と書い
てあった。日本軍との攻防戦で焼失したので
現在は再建のもの。
登ると、沢山の人達が雑魚寝していて焦った。
彰烈祠
第二次攻防戦で亡くなった金時敏将軍らの愛
国者26名が祀られている。黒い箱に入ってい
るmemoral tabletが並んでいたけど、それが
どういったものか、私にはよく判らなかった。

 城内には、国立晋州博物館がある。ミニシアターが上映されていたので、みんなでそれを見た。
 出だしからいきなり海戦シーン。朝鮮軍の亀甲船がドーン!とぶつかってきて、日本軍の軍船はコッパミジンコ!
 日本軍の武将たちは見るからに人相が悪い。燃えた蛾を握り締めて、悪代官の笑いを浮かべている。
 織田の軍旗をかかげた日本軍が中心になって晋州城に攻め込み、大将から率先して城壁に登ってしまう。日本刀で戦う。そして城内の多くの民が日本軍に無残に殺される!
戦場の焼け跡で人々の死を嘆き悲しむ金時敏将軍。その時、死体の一つかと思われていた日本軍の瀕死の兵士が震える手で鉄砲(弾を込める作業なし)を手にして、背後からやおら金時敏将軍を撃ち抜く。
 晋州城は決起して、日本軍の大将(誰?)を一矢で射ぬいて殺す。とたんに日本軍が腰を回す勢いで、でっかい白旗を振って降伏!城を去ってゆく。


国立晋州博物館
壬辰倭乱(文録の役)をテーマにかかげてい
て、文録・慶長の役関係の展示がされている。
  晋州大捷
ミニシアター紹介のポスターと思わ
れる。なぜか織田家の旗が翻る。

…他にも、いろいろ、あり得なかった。韓国の子供たちはこれで日本にどういう印象を持つのだろうか…。


 タクシーで泗川倭城に向かう。タクシーの運転手さんが、道に迷ってしまい、おばちゃんに道を尋ねている時に「●△×、チョッパリ!」と言っていた。
 「チョッパリって言葉、何か本で読んだ記憶があるんですけど、何ですっけ。」…この言葉にすごく覚えがあるのに、意味が思い出せない。タクシーに乗っているメンバーは全員韓国語が判らない。みんなで何度も「チョッパリ」「チョッパリ」を繰り返しつつ。それは、”ありがとう。”っていう意味じゃないのか、なんて話で終わる。

泗川倭城(泗川市)サチョン ウェソン
築城:慶長2年 築城者:長曽我部元親・毛利吉成 在番:島津義弘・忠恒

復元された門(逆光コレクションより)
 瓦の家紋が揚羽蝶なので「え?」と思ってい
たら、説明には「姫路城のを参照して造った」と
あった。
泗川倭城
 地名が船津里だからだろうか、韓国名は「船
津里城」となっている。
 
天守台(てんしゅく)
復元されたもの。英文解説によれば天守閣は
日本語で「Tenshuku」と言うそうだ。
泗川海戦解説
 李舜臣(イスンシン)と日本軍との海戦。
李舜臣のgreat great victoryなのだそうだ。

コプクソン(亀甲船)!
口から大砲が出るらしいよ、かっこいいね、コ
プクソン!そのまま訳すと「亀船」だって、コプ
クソン!英文ではturtleshipになっていた。
トイレがコプクソン
男子トイレにいたる穴がおケツ部分に開いて
いるぞ、コプクソン!李舜臣もビックリだよ、コ
プクソン!

 続いて、泗川朝明軍塚に寄ってもらう。慶長3(1598)年、明・朝鮮連合軍が泗川倭城を攻撃し、島津軍がこれを撃退している。その時に、島津軍は戦勝報告のために討ち取った敵の耳や鼻をそいで日本に送ったけれど、首のほうは城の傍に塚を造って葬ったそうだ。

泗川朝明軍塚
 英語の説明看板によれば、当時に築かれた塚は泗川倭城のすぐ傍にあったらしいけれど、"
because of the bad energy”(英文の意味がよく判らない…風水的に問題ありだったの?)な
理由で現在の場所に改葬されたそう。

 ここで、韓国語の分かるメンバーに「チョッパリって何ですか?」と尋ねたところ、”豚の足”という意味。これは、日本人のことらしい。日本人は足袋をはいて足先が二つになるので豚のヒヅメと一緒…なので日本人はチョッパリ!。
ギャフ!!Σ(゜□゜;
もう一人のタクシー運転手さんが「チョッパリなんて気にするな〜。」と日本語で励まして(?)くれた。
 この後、また晋州に戻って、お昼ごはんには中華料理店に入る。私はそこで韓国式冷麺を食べた。あとは望晋倭城に行く組と晋州邑城組に分かれて行動。私はもちろん晋州邑城をまわり、夕方に、ようやく城内一周を果たす。

 時間があれば、晋州邑城から見おろせる南江の貸しボート(というのか?)にも乗りたかったけど、人気爆発のようで順番待ちせねばならず、断念。

コプクソン
アヒルちゃんよりも、コレに乗りたかった!

 夕食には「参鶏湯サムゲタン」を食べた。もち米や朝鮮人参が鶏一羽に詰めこまれたスープ。今まで刺激物ばかりが多かったので、今日のご飯は胃に優しくて嬉しかった。

参鶏湯サムゲタン
あっさりとした味で美味しかった〜。

で、今日も部屋で飲み会。
NHK海外放送で「風林火山」やってた。ははは。

■ 5月6日(水)

 とうとう最終日。楽しい時間はあっと言う間に過ぎてゆくのだった。
 午前中のうちに亀浦倭城を見るために徳川駅に向かうことになる。地下鉄に乗らんと釜山駅に行けば、切符売場で別のお城サークル団体(日本)さんに出くわした。どうやらメンバーのお知り合いのようだ。彼らも今から亀浦倭城にお出かけするとのこと。世の中が狭いのか、倭城が人気なのか…。

 徳川駅で、みなさんコインロッカーに荷物を詰めようとしたものの(私は釜山駅のコインロッカーに預けた。)、荷物が大きすぎて入らないうえに、そもそも壊れてたりしないか、という罠。その時、駅員さんがやってきて、総がかりで荷物を入れたけど、どうしても入らないものは別の場所で預かってくれることになった。また、城の曲輪に荷物を投げこまねばならぬところだったので良かった(*^_^*)♪

そして朝食には、石焼鍋ご飯とビール(最後まで飲むらしい!)。
 
 城跡は、亀龍寺という寺内に存在する。ついでに居館跡はスケート場になっていた。
ここは立花宗茂も携わった城。
 そういえば、森蘭丸を討ち取った安田作兵衛も立花家に従って渡海してきていたなぁ。と思い出す。彼は、『立花朝鮮記』も記しているのだ。どんな事が書いてあるのやら私は読んでないけど。

亀浦倭城(釜山広域市)・クポ ウェソン
築城:文録2年 築城者:小早川隆景・立花宗茂 在番:小早川隆景・立花宗茂
石垣
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の際、日本軍が金
海と梁山間の連絡を取るために築いた城で、金
海の竹島城の出城である。→
(日本語解説看板のまんま。文章の続きは右
側へ)
本丸跡
→甘
浦城とも呼ばれるこの城は洛東江に臨
んでいるので船舶の停泊が可能な上に金海の
竹島城と向かい合っている戦略上の要衝地で
あった。
(日本語解説看板のまんま。
別名は「甘筒浦城」が正しいようです。)
石垣
石垣とともに、虎口や、空堀などもキレイに遺っ
ている。
崩壊した石垣の中身拝見
ちょうど角の部分が崩壊して断面図のようにな
っていた。
栗石(ぐり石)が詰まっているのが見える。

 そして、私は飛行機帰国組のみなさんと別れて、ただ一人で「釜山港へ帰れ(トラワヨ プサンハンへ)」ということになる。

♪愛をつぐなえば 別れになるけど
こんな女でも 忘れないでね〜♪(曲、ちがう)

 果たして私は、無事に釜山港へたどり着くことができるのか!
…って、あっさり釜山駅まで戻れた。ここから、日本語でも「国際ターミナル行き」と書いたバスに乗ればいいので楽勝である。余裕をかまして
「李舜臣像を見に行こう(どこにあるのかよく判ってないくせに)!」
と思って、とりあえずは先にお土産を買って、抹茶アイスを食べて、本屋に寄っているとなぜか時間がなくなり、大慌てでバスに乗り、釜山港へ向かった。

 釜山港よりコビーに乗りこめば、そのまま爆睡すること3時間。気づけば日本だった。
無事、インフルエンジャにかかることもなく、森家のいる日本に帰ってきた!
 その足で天神の本屋に行って『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦』を購入。
 普通の海外旅行では絶対にできない経験を沢山させてもらえて、本当に充実した日々だった。朝からビールを飲むのも、貴重な体験だった。今度、韓国へ行く時は、もっと韓国語を理解して行きたい!

《終》


 なお様、しん様様、なかつ様、介様masa様、三ッチー様(誰?)、そしてみんなのカルガモ母の摂津守様、本当にお世話になりました!この場を借りて改めてお礼申し上げます。m(__)m

蘭。