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宇治市


■ 宇治川

 『平家物語』の宇治川の先陣争いに名高い宇治川。
元亀4年、足利義昭の立て篭もった宇治の槙島城攻めの時には五ケ庄(萬福寺あたり)を中心に布陣していた織田軍の者たちも、夜明けを待って(待てない人もいた)先陣争いを繰り広げこの河を渡った。


《 みどころ 》
 卯の刻に渡河するとの評定があったが、梶川弥三郎は味方の陣を抜けて宇治川の
          傍で夜を明かして、池田秀雄と一二を争って先陣したという。また長可
          も「御若手の身にして老功のものを欺き乗り渡し給ふ(『森家先代実録』)
          とある。

《 交通 》 JR宇治駅下車徒歩


■ 萬福(万福)寺

 黄檗宗の総本山。ご開山の隠元禅師とも交流のあった二代目津山藩主・森長継は、津山に黄檗宗千年禅寺を創建するとともに、この萬福寺にも森一門の墓を建立しており、森長可や忠政の墓もある。

左は一門の墓画像:右より森長可/(本源院)忠政/(知勝院)忠政室/(渓花院)長継母/(光徳院)長継父/
            (晃昌院)忠政娘
また別所に2基の森家縁者の墓:長継の弟の関長政夫人(松仙院)墓/長継娘お鍋(本光院)墓

《 みどころ 》 長可らの墓(画像)は境内の外にある。「北向き地蔵」の場所を尋ねていけば、麓に大きく特徴的な森一門が並んでいるのが判る。ここより伏見桃山城も望める。
・長継の弟の関長政夫人(松仙院)墓:境内の中には関長政夫人寄進の「松隠堂」があり、そこに彼女の墓
                     が1基。(2006年8月現在は松隠堂が工事中なので、柵がしてあり、その
                     中にある。)
・長継娘お鍋(本光院墓):長可らの墓6基の傍にある巨大な供養塔。
また、この萬福寺の住所は五ケ庄といい、信長がかつて槙島城攻めで陣を張ったのもこの周辺。

《 交通 》 JR黄檗駅下車


亀岡市 旅行記(2009.7.11)


■ 亀山城跡

 天正7(1579)年に明智光秀が丹波の拠点として築城した。天正10(1582)年の本能寺の変にいたる出陣も、この亀山
城から出発したものだった。
 慶長14(1509)-15(1610)年、徳川家は西国支配強化のために丹波篠山城を築くとともに亀山城を改修する。
美作国主の森忠政もこの両城の天下普請に(というか改修)に駆り出された。
 近代に入って、石垣は解体されて鉄道の線路敷設に持ち出され(明治11年ごろ)、更に大本事件によりダイナマイトで
爆破された為、石垣の積み直しは行われたものの、昔の姿をとどめていない。

《 みどころ 》 現在は宗教法人「大本」亀岡本部となっているので、受付をして、お祓いを受けてから城跡に入る。
なお、本丸跡・天守跡は宗教的な禁足地として立ち入り禁止で入れない。
万祥殿(お祓いを受ける場所)にあがる石垣には、天下普請の名残の刻印「□」や「◎」や「卍」が見受けられる。

《 交通 》 JR嵯峨野線「亀岡駅」

《 その他 》 亀山城古写真


■ 明智戻り岩

 摂津と丹後を結ぶ峠道にある。天正10(1582)年6月1日、明智光秀が亀山城を出発して備中へ向かう道、先鋒がこの
「屏風岩」と呼ばれる大岩に達したところで急所、馬首を返して京・本能寺へと矛先を変えたために「明智戻り岩」と呼ば
れるようになったと言われる。
 また一説には光秀が丹波攻めに際してこの岩まで進軍して馬を止めて斥候を出したところ、この先に討つべき敵はい
ないとの報告を受けたので引き返したことによるとも言われている(現地看板説明)。

 

《 みどころ 》 車で峠を登って行くと「明智戻り岩」の看板が現れ、アスファルト道を外れて山道を降りてゆくと、その巨石
がある。
この岩には享徳3(1454)年に「南無妙法蓮華経 南無法主日蓮大聖人」の題目が刻まれている。

《 交通 》 423号線を車で走り、法貴峠

《 その他 》 戻り岩アップ


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