【丹波亀山城の歴史ダイジェスト】
天正3(1575)年、織田信長の天下統一事業の元、丹波を攻略した明智光秀は、丹波に入国。軍事拠点として亀山城を築く。
その7年後の天正10(1582)年6月1日、明智光秀は亀山城より備中へ向けて出陣するが、途中でキュッと馬首を返して本能寺を襲撃した。ちょっと道を間違えました、討ちどころが悪かった、ではすまされない事態である。
明智光秀が豊臣秀吉に敗死した後の亀山城は堀尾吉晴に接収され、信長四男の羽柴秀勝(秀吉の養子)などが城主になったりしながら点々と城の主を変えていった。
(ここから森家):徳川家の世に至り、徳川家は西国支配強化のために丹波篠山城と亀山城を築く(というか、亀山城は改修ね)。可哀想に美作国主の森忠政はこの両城の天下普請に(というか改修)に駆り出されたのだった(もちろん費用は自己負担)。
現在、その普請割りは残っていない。しかし亀山城跡に行って石垣に刻まれた刻印をチェックして津山城にあるのと同じ刻印を見いだせれば、森忠政の普請割りがある程度特定できるかも知れない!(^O^)
、 と、私は前回の篠山城訪問と同じことを考えていた。
…しかし亀山城は篠山城と同じようにお気軽に出かけられないのだ。
現在、亀山城跡は宗教法人「大本」の根本聖地「天恩郷」となっている。
以前、韓国倭城めぐりにご一緒した介さんは亀山城経験者。「連れてってください(むしろ懇願)。」とお願いしたところ、その願いが叶って案内していただけることになった。そればかりか、同じく韓国倭城めぐりでご一緒した しん様さんも車を出してくださることに!
私と同じく森家好きの繭さん[URL]もお誘いして、ともどもお世話になった。
朝・京都駅で待ち合わせて、しん様さんの車で新老ノ坂を越えて亀岡市に向かう。
まずは予習すべきこともあろうかと、亀岡市文化資料館に入った。
するとどうだろう、
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亀岡市文化資料館
森家の「も」の字も出てこなかった…。
『亀岡の城下町』と『明智光秀と丹波・亀山』
を購入。 |
資料館入口には「光秀を大河ドラマに!」という署名箱とか、「かめおか光秀ものがたりききょうの里」のポスターとか、光秀関係の書籍とか、ありとあらゆる光秀があった。
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「ききょうの里」ポスター
時は今なり桔梗の旗揚げ・かめお
か光秀ものがたりききょうの里。
森家好きには胸が痛む花。 |
Σ(゜□゜; …お、恐れていた以上の事態!!
いや、私は森忠政の事だけ考えていればいいのだ。
亀山城の普請割りについて学芸員さんにお尋ねして判った事をまとめると
■亀山城の天下普請に関する資料はほとんど残っていない。
■亀山城跡は明治に入って払い下げられて、石垣の石は鉄道(トロッコ列車とか)の敷設に利用されちゃったので原型をとどめていない。
■亀山城跡は、その後、宗教法人「大本」の所有となったが昭和10年の第二次大本事件(宗教弾圧)の際にダイナマイトで爆破された。
…と、いうことで、現在の石垣は大本が組み直したものなので当時とは状態が全く変わっています。 |
とのことだ。
「石垣に残った刻印を見れば、森忠政の普請割りが特定できるかも!」
という私の夢と希望がダイナマイトレベルで根幹からコッパミジンコ。
そういう訳で諸行無常を悟ってからの亀山城跡訪問となった。
大本教の大本会館の受付でお城見学の許可をいただく。受付の方が、城が破壊された経緯を詳しく教えてくださった。さらに天守にある「明智光秀手植えの大イチョウ」と伝わる樹木についても、光秀が手植えした本物は落雷を受けてしてしまって、今の大イチョウとは異なることを伺う。
なお、天守や本丸は聖域なので立ち入り禁止で結界が張ってあるそうなのだ。
Σ(゜□゜;けけけ、結界?!!!
…その結界を破るとどうなるかと言ったら…普通にセンサーが鳴るそうだ。
天守や本丸に入る前に神主さんからお祓いを受けて、さらに大本の信仰や教祖に関するレクチャーがあった。
繭さんがそんな緊張の場でいきなり「森蘭丸」を発見してしまったけど…それが何だったのか、ここには書かないことにしておく。
…気になる方は教祖さまの全集・第1巻をお読みください。
積み直しの石垣は、それらしくは見えても、詳細を見ていけば不自然な積み方。石垣の下二段ほどはあくまでも当時のままということではあったけど…。
ああ、森家の積み上げた石はもしかしてトロッコ列車の元で第二の石生を送っているのだろうか。あるいは1500発以上も使われたというダイナマイトの犠牲になったのか。
城外へ出て、散策マップを頼りに「薬研堀」の痕跡を探すも、よく判らなかった。他の住宅地より一段低いところの住宅地があったので、そこが昔のお堀そのものだったのかも知れない。そのまま道なりに歩けば、外堀・南郷池・南郷公園に到る。
お城を離れて城下町へ。
城下町をぐるりと囲む総堀沿いに位置する聖隣寺をお参りする。
全国各地にあるという織田信長の墓の一つがこのお寺にある。
男性陣が「御土居。御土居。」と土盛りに目を輝かせるので、聖隣寺(境内も御土居の一部でした)だけでなく隣の坂部公園にまで御土居跡を見に行った。
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御土居跡(坂部公園)
御土居とはぶっちゃけ土塁(という認識でOKな
んだろうか?)。
お堀を掘った土を利用して造られた防御線。 |
ついでに坂部のタマちゃん(坂部公園内)。
白目をむいたつぶらな眼球は、なんとゴルフボ
ールでせきてるんだヨ!
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続いて福知山城主の小野木重勝(島左近の娘婿)の墓がある寿仙院
へお参り。
それからお昼ご飯を食べ、亀山城の大手門跡に建つ形腹神社とかを鳥居の外から撮影。その後には中心地からちょっと離れた千代川小学校へ。ここには亀山城の「新御門」が移築されている。
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亀山移築門とピチュウ(千代川小学校)
説明書きには天正5(1577)年明智光秀により
御殿門として建てられたとある。
総欅造りで乗馬のまま通れる大きさ。 |
再び車で数十分走って明智光秀首塚のある谷性寺(こくしょうじ)へ向かう。
目指す寺が目の前に見えて、そのまま道路を走ってゆく途中、道路にいた人から「無料駐車場」と書かれたスペースにナチュラルに誘導された。
その場所よりもっと先にある谷性寺にお参りする旨を告げても、手前の「ききょうの里」を経由していくように言われ、で、「ききょうの里」入園料500円。4人分で2000円…。
森家ストーカーの私に、これは一体何の試練なのだろうか。
こ…ここは!今朝、資料館のポスターで見たあの「キキョウの里」!!!Σ(゜□゜;
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「ききょうの里」のぼり
時は今なり桔梗の旗揚げ・かめお
か光秀ものがたりききょうの里。
森家好きには胸が痛む花。 |
光秀号
こ…これに乗るとどうなるのだろう。
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うわぁあああああああ!!!
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ききょう畑
500円の眺め!
桔梗の花言葉:「やさしい愛情・誠実・従順・
変わらぬ愛・優しい温かさ!」 |
ききょう畑を出て、谷性寺の境内に入る。光秀の首塚に手を合わせ、境内奥にあった幸せを呼ぶ谷性寺の鐘をつく。
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明智光秀首塚
幕末の志士「栄」なる人が、安政
2(1855)年にこの「光秀公首塚」の
碑を建てた。 |
お寺の方が光秀公尊像(昭和56年作)を拝観させてくださったけど、その像の前で織田信長がいかに残忍で極悪非道な人物かを説明され、一方、身分分け隔てなく領民や家臣を愛して善政を敷き、心を痛めつつ信長を退治した明智光秀の人徳を説明された(典拠:司馬遼太郎の小説)。
森家好きなの私は、精神パラメーターをとことん低下させられてしまった…。
磨けば玉にもならん明智光秀の才能を見出してあそこまで引き揚げてあげてくれたのもまた、同じ織田信長なのに…。
心が折れたところで回復の呪文を唱える。
■「彼(光秀)は信長の治世の始めには一貴族の家来であったが、その努力と知恵によって大いに用いられるに至った。彼(光秀)は諸人に喜ばれず、反逆を好み、残酷な処罰を行い、戦争に巧妙で策略に富み、心勇猛で築城技術に達していた。」ルイス・フロイス |
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(仕切り直し)亀山城の移築門は他にも市内桂林寺や延福寺にあるそうで、しん様さんが案内してくださった♪
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桂林寺にある亀山城移築門 |
延福寺にある亀山城移築門 |
亀岡市内の史跡めぐりのラストは「明智戻り岩」。423号線を走り、法貴峠を車でクネクネと登ってゆけばそれがある。
天正10(1582)年6月1日、羽柴秀吉の援軍として備中へ兵を向けていた明智光秀は、この岩のある場所で馬首を返して信長のいる京・本能寺へ向かったという。
これで、亀岡市内の旅は終了。
しん様さんは私たちを京都まで送ってくださるとのことで私は事前に
「本能寺跡で降ろしてください。」
とお願いしていたのだけど、しん様さんが亀岡市内の旅程に明智戻り岩を最後に持ってこられたことから偶然にも私たちは光秀と同じようにこの明智戻り岩でUターンして京・本能寺へ向かうことになった。
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