豊臣秀吉の二度に渡る朝鮮出兵、文録・慶長の役。
当時、豊臣秀吉に仕えていた森可政(森可成の弟・蘭丸の叔父)は、この朝鮮出兵に際して渡海し朝鮮側の城を攻めた。
以下は、森可政の渡海に関する『森家先代実録』の一文。
一、朝鮮征伐の節は、丹後国田邉の城主木下宰相秀雄の手に加り 朝鮮国におゐて木下判官の城を(一に釜山海の城を乗取る時武功有りと 云々)乗取し時高名有り |
また、『寛政重修諸家譜』によれば、森可政は
『朝鮮の役に、彼國に渡り諸陣の形成を巡視し、且軍功あるにより、采地千八百六十石を與へられ…』
とのこと。
※註):
・丹後国田邉の城主・木下宰相秀雄:誰の事だか捜査中。
・木下判官:晋州城を防衛していた朝鮮側の将軍・金時敏(キムシミン)。
・釜山海の城:釜山鎮城
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■ 晋州邑城(晋州城):晋州市南城洞、本城洞
日本軍は文禄元年(1592年)10月と、文禄2年(1593年)6月の二度にわたって この晋州城(チンジュソン)を攻めた。 城は一度目には落とせず、二度目にしてこの城を陥落させた(森可政が参加し たのはこの二度目の晋州城攻めの戦いと思われる)。 この城を守っていた将軍・金時敏の晋州牧使(モクソ)という肩書から、日本側 はこの城のことを木曽城(モクソジョウ)と呼んだ。 《 みどころ 》 城と言っても、邑(むら)を城壁で囲むというもので、日本の城と |
■ 釜山鎮城跡(鄭公壇):釜山広域市
文禄元(1592)年4月13日に日本軍が朝鮮に入って最初に総攻撃をしかけた のが釜山鎮城で、城は4時間ほどの戦いで日本軍が落城させた。 当時の釜山鎮城は海に隣接していたので日本の記録には「釜山海の城」とも 書かれた。 現在は周辺の海も埋め立てられて地形が変わってしまい、釜山鎮城跡も当時 の面影を留めていない。 《 みどころ 》 当時の釜山鎮城南門にあたる場所には、現在、朝鮮方の守将・ |
つづく…
■ 行きたい場所リスト
・ツタノ要害:まだ、どこにあるなんと言う城なのかすらわからないけど、「朝鮮王国の連枝ツタノ要害」。
文録の役の時に日本軍がツタノ要害の城主・長尾(チャウヒ)春進の妹達を人質として日本へ
連れ帰り、そのうちの一人(「長尾局」と呼ばれた)を森忠政が預かった(『森家先代実録』)。
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