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刎ね橋跡
今の橋名も「刎ね橋」。橋向こうの車は、私の
レンタカー”ヴィッツ”! |
本日は午前10:30に岐阜駅でレンタカーを返却する予定。お世話になったヴィッツともお別れだ。それまでの時間をできる限り有効に使うために、日の出とともに岐阜県の森家史跡に発進!
まずは可児市内の土田(どた)にある「刎橋(はねばし)」を目指す。戦国時代は敵の侵入を防ぐために領主は橋をかけるのを嫌がった。でも、それでは自分たちの生活も困るから敵が来たらすぐに燃やしたり、落としたりできる木や綱の橋をかけたり、または河川に渡し場を設けたりしていた。
この「刎橋」もそういう「すぐに落せる」橋だったらしい。天正十二(1584)年4月9日に長久手の合戦で討たれた、森長可。森家の家臣らはその首を守って金山城を目指すものの、「刎橋」には土田城の生駒氏(長可のことが嫌い)の兵士がたむろして森家を待ち構えており、長可の首を守る家臣らは「あの橋が落とされたら終わりだ。」と、帰省を諦めて引き返してしまったという。
私としては、「他の道から帰ればいいじゃん。」という切実な思いがよぎりながらも、当時の道など限られてるし、そうもできない事情があったのだろう。家臣は金山に帰るのを諦めて帷子(かたびら)という場所に住みついたという。そして森長可の首は真禅寺に葬られた。その刎橋は今は頑丈なコンクリ橋と化していた。生駒氏が家臣らとともに「100人乗っても大丈夫!」をやっても落ちないだろう。この橋を崩落させようとするなら、ドリルや削岩機などで地道に頑張るしかない。「刎橋」の下を覗けば川は深い断崖を流れる。
次は父・森可成モードにスイッチを切り換えて関市の関城跡に向かう。今は安桜山公園になっているが斎藤道三の弟(もしくは義弟。もしくは子供。もしくはその他。)の長井隼人道利の居城だ。可成はかつて長井隼人に浪人分として仕えていたと『森家先代実録』には見えるから、私は長井隼人にも興味が芽生えてしまっている。謎多き人物だが、とりあえず、隼人(はやと)という名前はかっこいいというのは、認めざるを得ない。長井隼人は関城を居城に可児辺りまでを支配していたという。後々は織田信長に寝返った森可成に見事にオセロを裏返されてされてしまうのだが。
安桜山公園の駐車場は広いの何の。第3駐車場まであった。ならば関城もとてつもなく広大なのかと期待して登山すること10分。急勾配の岩盤にキノコ型のコンクリテーブルが設置してある。座ってみても、大変スリルがあって、くつろげない。戦国時代の猛者どもが座るにはよいかもしれない。後世の石仏などを横切り、ひたすら登る。山頂は神様をお祭りする祠があったけど、本丸跡にも見えない狭さ。何より関城跡についての説明が何もないので登る山を間違えたんかと思った。
山頂からの景色を眺めると眼前に長可が砦を置いたと伝わる十六所山があった。去年チャレンジして登って私が滑り落ちそうになった時にボロボロと崩れていった山肌、忘れるはずもない。
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関城より十六所山を眺める
手前に見えるのが、長可が砦を築いたという
十六所(いざしょ)山。こんなに近かったのね。 |
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関城跡の山頂
そこには神様だけが鎮座ましまし、関城につい
ては何の解説も見受けられなかった。 |
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険しい道のり
中央のはキノコではなくてテーブル
と椅子。くつろげない。 |
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麓に降りて行けば、草ぼうぼうで、誰も利用していないような小さな敷地があった。これが第3駐車場まで従えた安桜山公園の正体だったのであろうか…。
再び車上の人となって岐阜県安八郡は森部古戦場跡に行く。
永録4(1561)年5月11日に美濃の斎藤義龍が亡くなると、その3日後には、はや織田信長は1,500の兵で西美濃の森部まで進軍してきた。まさにその動きは電光石火!!迎える斎藤軍は6,000。信長がこっそり伏兵を隠しているとも知らず、斎藤軍はこれを侮って森部に広がる泥田に入って足をズブズブやりながら信長軍に迫ってきた。もう、この辺でもう「斎藤軍アハハ…(^_^;)」な予感がするが、斎藤軍が田んぼからズブズブ迫ってくると、織田信長は一気に迎撃に移って、真一文字に矢尻を並べて射立て、森可成や柴田勝家、etcの猛将達が突き出してきて斎藤軍を散々に蹴散らした。ただでさえ足場の悪い深田の中で足を取られていた斎藤軍は勝手に「どろんこ祭」状態。結局、この人達は何がしたかったのだろう。たまらず退却すれば、信長が忍ばせていた伏兵に退路を絶たれて大混乱。こうして斎藤軍の主将の長井甲斐守衛安(もりやす)も討ち取られ、織田信長は大勝利をおさめた(でも、実はこの後、斎藤家の援軍がやってきて合戦となったが、信長は大軍に叶わず撤退している。)父・可成も田んぼに入ったのだろうか…。考えると、目頭が熱くなる。
そんな訳で、現在、「森部古戦場跡の碑」が建っている薬師堂前を目指す。最初は道がわからずに細い路地を車で無理矢理に侵入したりしていたが、着いた!と思ったところが、森部城跡。織田側についた河村久五郎の城だった。その城跡ではご老人たちが戦国さながら、スリル満点のゲートボールをしていたので、薬師堂の場所を教えてもらった。薬師堂の前は信長が首実検をした場所だ。
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利家出世の松
先年、信長に追放されて浪人していた前田利
家だったが、この合戦で手柄を立ててようやく
帰参を許された。某大河ドラマ記念で植樹。 |
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戦死者の供養墓
薬師堂の傍にあった。
この合戦では森可成も獅子奮迅の
戦いをして信長をよく支えた。 |
森部古戦場跡(薬師堂)
信長が首実検の折に鎧をかけた
「鎧掛けの松」でも(2代目)もある。 |
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続いて幻の一夜城・墨俣キャッスルを横目に見ながら、大浦古戦場跡を目指す。
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墨俣城
ああ、どんだけ立派な城を建ててしまったのだ。
誤解される…誤解される…。 |
大浦にはどうやら古戦場石碑も何も残っていないので、木曽川沿いに車を停めて写真だけパチリ!
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大浦古戦場方面
上大浦方面をテキトー撮影。左が木曽川。
森可成は敵の千石又一と戦い、負傷している。 |
これは先ほどの森部の戦いをさかのぼること5年、弘治2(1556)年4月20日に起こった戦い。
織田信長は舅の斎藤道三が義龍との長良川でのバトルで苦戦中と知って援軍にかけつけようとしていた所、義龍には信長の援軍はお見通しで配下の兵でもって大浦で待ち伏せされていた。信長は舅救出に急ごうと戦うが、意外と苦戦してしまい、森可成までもが肘を切られる負傷をして退却してしまった。可成でも退却することがあるんだなぁ…と、感心してみる。そのうちに信長は道三の討ち死にの報を受ける。これで援軍の意味も消えて織田軍は清洲に引き返すことになるが、この退却時には大将の信長自身が殿(しんがり)を申し出ている。
そんな信長の泣き面に蜂、斎藤義龍と内通していた叔父の織田伊勢守信安が信長の留守をいいことに清洲近辺に放火しているという報が飛びこみ、もう信長は「ムキーッ!!!!」。そのまま織田信安の守山城下に向かって彼の知行地に放火して報復している。
レンタカーの返却時間が迫ってきたので森可成の故郷の蓮台の傍を通って岐阜市内に向かう。レンタカーを返却する前にガソリンスタンドに入ってガソリンを満タンにしてもらった。
ガソリンスタンドの店員さんに「今、サービスで粗品をおつけしております。」とティッシュを2箱ももらった。ラッキー♪
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岐阜城信長居館跡発掘現場
ここは推定お庭だったかな? |
…って、もらってどうすんだよ!
岐阜駅前のレンタカー店舗で”ヴィッツ”を返却して、私はとうとう裸一貫(?)に戻ってしまい、リュックしょって歩きの人になる。「む!ティッシュ2箱どうするんだ!」
私はティッシュ2箱を小脇に抱えて岐阜城に行って、登城口に一枚一枚並べてくるべきだろうか。風がティッシュを吹き飛ばしても、私は決して負けない!!
…なんか、それも面倒なのでティッシュはレンタカー屋さんに岐阜土産として献上し、私はバスに乗って岐阜城を目指す。
もう10年近く入っていない岐阜城下の岐阜市立博物館を久々に見学する事にした。展示を見ていると、知らない人が近づいてきて「どちらからおいでになりましたか。」と尋ねてくるので、「福岡です。」と答えると、「そんな遠くから?」と、滔々と話しを始めた。次の展示に移って解説を読んでると、また知らない人が寄ってきて「どちらからお越しですか?」と尋ねてくる。「福岡です。」と返事しつつも解説を読むのに集中していると「私は案内ボランティアです。」と横から話しかけてこられて解説を読ませてくれない。次の展示に行って、解説を読んでいると、知らない人が寄ってきて声をかけてくる。「どちらからお越しですか。」
ムキーーーッ!!!
私がこの博物館の中にいる限り延々とこのドラクエが続くのかと思うと…もうしんどくなって途中で見学を諦めて博物館を出た。
せっかく私は信長の史跡のど真ん中・岐阜城にいるんだ、「幸せな気持ちに戻ろう。」とアイスクリームを立ち食いしながら信長居館跡の発掘現場を見に行った。休日のせいか発掘現場にはほとんど青いビニールがかけてあったが、まぁぐるっと一回りしようと歩いていると、私に向かって人が寄ってきたので今度はすかさず心の中でベギラマの呪文を唱えてみる。が、無駄だった。「ほんま、すごいなぁ!ねぇ!」とおばちゃん大興奮で私に声をかけてくる。
だけど彼女は案内ボランティアではなく、本当に信長が好きで岐阜城にやってこられて、発掘現場にあまりに感動してこの感動を誰かと分かち合おうと近づいてきたものだった。結局、発掘現場の青いビニルシートを一緒に見て回った。
「こんな無知の年寄りが変と思われるかも知れんけど、こうやって史跡をみてまわるのって、本当に好きなんやわぁ。」と、話しかけられる。私も史跡を見て回るの大好き。いくつになっても彼女のように森家史跡をめぐっている私でありたい。
岐阜市内を離れて、いよいよ愛する森家の故郷・兼山に突入。まずは、森家菩提寺の可成寺にお参りして、森家の墓前に兼山入りのご挨拶と、また兼山に来させてもらえた事への感謝を伝える。可成寺には山門のところで参拝者の記帳ができるノートがあるので、そこに私の名前を書いていた。この事により数時間後に宇宙人襲来をうけることになろうとは、まだ我は知る由もなかった…。
次は森蘭丸の母の家系の菩提寺・常照寺にお参りをする。
そして、わが古文書の師匠に会いに行くも、師匠はまだ忙しく接客をしていたので、じっと待つのも根気がいるので明日の武者行列のお祭り準備の現場にちょっかいを出しに行ったが、なんか、やっぱり忙しそうなので、菓子処・梅園さん(「蘭丸もなか」は美味!)のところに居座ってお菓子を食べまくっていた。
師匠から、仕事が終わったとの連絡をもらって生き生きプラザで再会!数分後には森家の文献をテーブルに広げたくって、一緒に解読していた。そこへ、突如として、恐るべき男性の訪問者あり。
首にデジカメを3台もかけた訪問者は生き生きプラザに飛び込んでくるなり、「あなた、うききさんでしょ!!!!」
私はしばらくどなたか思い出せずに、「…。」
なんと、それは宇宙人(自称)だったのだ。宇宙人さんとは、私が7月12日に兵庫県川西市の山下城跡に森蘭丸のストーカーをしに行ったその時にたまたま現地でバッタリ出会って山下城跡を案内くださった地元の方だったのだ。(※参照:「袖つかむのも森家の縁な旅」)
思いがけずも、この兼山の地で再会。
ホントに”袖つかむのも森家の縁”じゃないかっ!
「えええええええええ!!!!!!!」Σ(゜□゜;
もう一回、「ええええええええええええ!!!!!!」Σ(゜□゜;
驚くことしきり。7月に初対面のあの時、宇宙人さんは山下の地で「蘭丸っちゃあ、信長の寵愛をいいことに(ピヨピヨ)な人だったのやろ?」と私に質問してきた。もちろん、言い返した。
宇宙人さんは、あの日より森蘭丸や森家の事を勉強して「森蘭丸って、こんなにすごくて可哀想な人生だったんやなぁ…。」と、森蘭丸の真実を知り、蘭丸へのお詫びもこめて京都の阿弥陀寺(森三兄弟墓所)経由で兼山に巡礼になったのだそうだ。もはや、すごい蘭丸ファンと化していらして、こっちが面食らった上に、ひたすらびっくりした。人間のみでなく、地球外生命体の心までも動かす森蘭丸はやっぱり全宇宙規模で素晴らしい。
「さっき、可成寺にお参りしたときに、記帳書であんたの名前をみつけて、今日、兼山に来とると知って、町の中を探し回ったんだ〜。やっぱり会えたなぁ。」
ロマンスの神様の計らいとは、かくもすごいものか。だが、ロマンスの神様はさらに奇跡を用意してくれていたのだった。
いつも私のサイトにも訪問してくれ、実際に兼山や津山でお会いしている関東の住人・愛平さんからケータイに連絡が来た。今回、体調を崩して兼山行きを断念した愛平さんからのメッセージは「やっぱり旅立っちゃいました。」
Σ(゜□゜;病身で来るんかい!!!
夜、可児市のホテルで合流する。一緒にレストランに行ってご飯を食べた。私はマンゴーとコーラという奇抜な食事ながら、それはどうでもよく、愛平さんと久々に森家話で盛り上がる。
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