クマお祭り紀行≪後編≫                  

                                            2008年10月16日-19日 in 福井→岐阜 

 

お馬の親子は仲良しこよしin岐阜城
≪前編≫はこちらです。

■ 10月18日(土) 森家の足取りかけこみドライブ

刎ね橋跡
今の橋名も「刎ね橋」。橋向こうの車は、私の
レンタカー”ヴィッツ”!

 本日は午前10:30に岐阜駅でレンタカーを返却する予定。お世話になったヴィッツともお別れだ。それまでの時間をできる限り有効に使うために、日の出とともに岐阜県の森家史跡に発進!

 まずは可児市内の土田(どた)にある「刎橋(はねばし)」を目指す。戦国時代は敵の侵入を防ぐために領主は橋をかけるのを嫌がった。でも、それでは自分たちの生活も困るから敵が来たらすぐに燃やしたり、落としたりできる木や綱の橋をかけたり、または河川に渡し場を設けたりしていた。
この「刎橋」もそういう「すぐに落せる」橋だったらしい。天正十二(1584)年4月9日に長久手の合戦で討たれた、森長可。森家の家臣らはその首を守って金山城を目指すものの、「刎橋」には土田城の生駒氏(長可のことが嫌い)の兵士がたむろして森家を待ち構えており、長可の首を守る家臣らは「あの橋が落とされたら終わりだ。」と、帰省を諦めて引き返してしまったという。
私としては、「他の道から帰ればいいじゃん。」という切実な思いがよぎりながらも、当時の道など限られてるし、そうもできない事情があったのだろう。家臣は金山に帰るのを諦めて帷子(かたびら)という場所に住みついたという。そして森長可の首は真禅寺に葬られた。その刎橋は今は頑丈なコンクリ橋と化していた。生駒氏が家臣らとともに「100人乗っても大丈夫!」をやっても落ちないだろう。この橋を崩落させようとするなら、ドリルや削岩機などで地道に頑張るしかない。「刎橋」の下を覗けば川は深い断崖を流れる。

 
 次は父・森可成モードにスイッチを切り換えて関市の関城跡に向かう。今は安桜山公園になっているが斎藤道三の弟(もしくは義弟。もしくは子供。もしくはその他。)の長井隼人道利の居城だ。可成はかつて長井隼人に浪人分として仕えていたと『森家先代実録』には見えるから、私は長井隼人にも興味が芽生えてしまっている。謎多き人物だが、とりあえず、隼人(はやと)という名前はかっこいいというのは、認めざるを得ない。長井隼人は関城を居城に可児辺りまでを支配していたという。後々は織田信長に寝返った森可成に見事にオセロを裏返されてされてしまうのだが。
 安桜山公園の駐車場は広いの何の。第3駐車場まであった。ならば関城もとてつもなく広大なのかと期待して登山すること10分。急勾配の岩盤にキノコ型のコンクリテーブルが設置してある。座ってみても、大変スリルがあって、くつろげない。戦国時代の猛者どもが座るにはよいかもしれない。後世の石仏などを横切り、ひたすら登る。山頂は神様をお祭りする祠があったけど、本丸跡にも見えない狭さ。何より関城跡についての説明が何もないので登る山を間違えたんかと思った。
 山頂からの景色を眺めると眼前に長可が砦を置いたと伝わる十六所山があった。去年チャレンジして登って私が滑り落ちそうになった時にボロボロと崩れていった山肌、忘れるはずもない。

関城より十六所山を眺める
手前に見えるのが、長可が砦を築いたという
十六所(いざしょ)山。こんなに近かったのね。
関城跡の山頂
そこには神様だけが鎮座ましまし、関城につい
ては何の解説も見受けられなかった。
険しい道のり
中央のはキノコではなくてテーブル
と椅子。くつろげない。
   

 麓に降りて行けば、草ぼうぼうで、誰も利用していないような小さな敷地があった。これが第3駐車場まで従えた安桜山公園の正体だったのであろうか…。

 再び車上の人となって岐阜県安八郡は森部古戦場跡に行く。
 永録4(1561)年5月11日に美濃の斎藤義龍が亡くなると、その3日後には、はや織田信長は1,500の兵で西美濃の森部まで進軍してきた。まさにその動きは電光石火!!迎える斎藤軍は6,000。信長がこっそり伏兵を隠しているとも知らず、斎藤軍はこれを侮って森部に広がる泥田に入って足をズブズブやりながら信長軍に迫ってきた。もう、この辺でもう「斎藤軍アハハ…(^_^;)」な予感がするが、斎藤軍が田んぼからズブズブ迫ってくると、織田信長は一気に迎撃に移って、真一文字に矢尻を並べて射立て、森可成や柴田勝家、etcの猛将達が突き出してきて斎藤軍を散々に蹴散らした。ただでさえ足場の悪い深田の中で足を取られていた斎藤軍は勝手に「どろんこ祭」状態。結局、この人達は何がしたかったのだろう。たまらず退却すれば、信長が忍ばせていた伏兵に退路を絶たれて大混乱。こうして斎藤軍の主将の長井甲斐守衛安(もりやす)も討ち取られ、織田信長は大勝利をおさめた(でも、実はこの後、斎藤家の援軍がやってきて合戦となったが、信長は大軍に叶わず撤退している。)父・可成も田んぼに入ったのだろうか…。考えると、目頭が熱くなる。
 そんな訳で、現在、「森部古戦場跡の碑」が建っている薬師堂前を目指す。最初は道がわからずに細い路地を車で無理矢理に侵入したりしていたが、着いた!と思ったところが、森部城跡。織田側についた河村久五郎の城だった。その城跡ではご老人たちが戦国さながら、スリル満点のゲートボールをしていたので、薬師堂の場所を教えてもらった。薬師堂の前は信長が首実検をした場所だ。 

利家出世の松
先年、信長に追放されて浪人していた前田利
家だったが、この合戦で手柄を立ててようやく
帰参を許された。某大河ドラマ記念で植樹。
戦死者の供養墓
薬師堂の傍にあった。
この合戦では森可成も獅子奮迅の
戦いをして信長をよく支えた。
森部古戦場跡(薬師堂)
信長が首実検の折に鎧をかけた
「鎧掛けの松」でも(2代目)もある。
 


 続いて幻の一夜城・墨俣キャッスルを横目に見ながら、大浦古戦場跡を目指す。

墨俣城
ああ、どんだけ立派な城を建ててしまったのだ。
誤解される…誤解される…。


大浦にはどうやら古戦場石碑も何も残っていないので、木曽川沿いに車を停めて写真だけパチリ!

大浦古戦場方面
上大浦方面をテキトー撮影。左が木曽川。
森可成は敵の千石又一と戦い、負傷している。


これは先ほどの森部の戦いをさかのぼること5年、弘治2(1556)年4月20日に起こった戦い。
 織田信長は舅の斎藤道三が義龍との長良川でのバトルで苦戦中と知って援軍にかけつけようとしていた所、義龍には信長の援軍はお見通しで配下の兵でもって大浦で待ち伏せされていた。信長は舅救出に急ごうと戦うが、意外と苦戦してしまい、森可成までもが肘を切られる負傷をして退却してしまった。可成でも退却することがあるんだなぁ…と、感心してみる。そのうちに信長は道三の討ち死にの報を受ける。これで援軍の意味も消えて織田軍は清洲に引き返すことになるが、この退却時には大将の信長自身が殿(しんがり)を申し出ている。
 そんな信長の泣き面に蜂、斎藤義龍と内通していた叔父の織田伊勢守信安が信長の留守をいいことに清洲近辺に放火しているという報が飛びこみ、もう信長は「ムキーッ!!!!」。そのまま織田信安の守山城下に向かって彼の知行地に放火して報復している。

 レンタカーの返却時間が迫ってきたので森可成の故郷の蓮台の傍を通って岐阜市内に向かう。レンタカーを返却する前にガソリンスタンドに入ってガソリンを満タンにしてもらった。
ガソリンスタンドの店員さんに「今、サービスで粗品をおつけしております。」とティッシュを2箱ももらった。ラッキー♪

岐阜城信長居館跡発掘現場
ここは推定お庭だったかな?

…って、もらってどうすんだよ!
 岐阜駅前のレンタカー店舗で”ヴィッツ”を返却して、私はとうとう裸一貫(?)に戻ってしまい、リュックしょって歩きの人になる。「む!ティッシュ2箱どうするんだ!」
私はティッシュ2箱を小脇に抱えて岐阜城に行って、登城口に一枚一枚並べてくるべきだろうか。風がティッシュを吹き飛ばしても、私は決して負けない!!
…なんか、それも面倒なのでティッシュはレンタカー屋さんに岐阜土産として献上し、私はバスに乗って岐阜城を目指す。

 もう10年近く入っていない岐阜城下の岐阜市立博物館を久々に見学する事にした。展示を見ていると、知らない人が近づいてきて「どちらからおいでになりましたか。」と尋ねてくるので、「福岡です。」と答えると、「そんな遠くから?」と、滔々と話しを始めた。次の展示に移って解説を読んでると、また知らない人が寄ってきて「どちらからお越しですか?」と尋ねてくる。「福岡です。」と返事しつつも解説を読むのに集中していると「私は案内ボランティアです。」と横から話しかけてこられて解説を読ませてくれない。次の展示に行って、解説を読んでいると、知らない人が寄ってきて声をかけてくる。「どちらからお越しですか。」
ムキーーーッ!!!
私がこの博物館の中にいる限り延々とこのドラクエが続くのかと思うと…もうしんどくなって途中で見学を諦めて博物館を出た。

 せっかく私は信長の史跡のど真ん中・岐阜城にいるんだ、「幸せな気持ちに戻ろう。」とアイスクリームを立ち食いしながら信長居館跡の発掘現場を見に行った。休日のせいか発掘現場にはほとんど青いビニールがかけてあったが、まぁぐるっと一回りしようと歩いていると、私に向かって人が寄ってきたので今度はすかさず心の中でベギラマの呪文を唱えてみる。が、無駄だった。「ほんま、すごいなぁ!ねぇ!」とおばちゃん大興奮で私に声をかけてくる。
だけど彼女は案内ボランティアではなく、本当に信長が好きで岐阜城にやってこられて、発掘現場にあまりに感動してこの感動を誰かと分かち合おうと近づいてきたものだった。結局、発掘現場の青いビニルシートを一緒に見て回った。
「こんな無知の年寄りが変と思われるかも知れんけど、こうやって史跡をみてまわるのって、本当に好きなんやわぁ。」と、話しかけられる。私も史跡を見て回るの大好き。いくつになっても彼女のように森家史跡をめぐっている私でありたい。

 岐阜市内を離れて、いよいよ愛する森家の故郷・兼山に突入。まずは、森家菩提寺の可成寺にお参りして、森家の墓前に兼山入りのご挨拶と、また兼山に来させてもらえた事への感謝を伝える。可成寺には山門のところで参拝者の記帳ができるノートがあるので、そこに私の名前を書いていた。この事により数時間後に宇宙人襲来をうけることになろうとは、まだ我は知る由もなかった…。
次は森蘭丸の母の家系の菩提寺・常照寺にお参りをする。
そして、わが古文書の師匠に会いに行くも、師匠はまだ忙しく接客をしていたので、じっと待つのも根気がいるので明日の武者行列のお祭り準備の現場にちょっかいを出しに行ったが、なんか、やっぱり忙しそうなので、菓子処・梅園さん(「蘭丸もなか」は美味!)のところに居座ってお菓子を食べまくっていた。
 師匠から、仕事が終わったとの連絡をもらって生き生きプラザで再会!数分後には森家の文献をテーブルに広げたくって、一緒に解読していた。そこへ、突如として、恐るべき男性の訪問者あり。
首にデジカメを3台もかけた訪問者は生き生きプラザに飛び込んでくるなり、「あなた、うききさんでしょ!!!!」
私はしばらくどなたか思い出せずに、「…。」
 なんと、それは宇宙人(自称)だったのだ。宇宙人さんとは、私が7月12日に兵庫県川西市の山下城跡に森蘭丸のストーカーをしに行ったその時にたまたま現地でバッタリ出会って山下城跡を案内くださった地元の方だったのだ。(※参照:「袖つかむのも森家の縁な旅」)
思いがけずも、この兼山の地で再会。
ホントに”袖つかむのも森家の縁”じゃないかっ!
「えええええええええ!!!!!!!」Σ(゜□゜;
もう一回、「ええええええええええええ!!!!!!」Σ(゜□゜;
驚くことしきり。7月に初対面のあの時、宇宙人さんは山下の地で「蘭丸っちゃあ、信長の寵愛をいいことに(ピヨピヨ)な人だったのやろ?」と私に質問してきた。もちろん、言い返した。
 宇宙人さんは、あの日より森蘭丸や森家の事を勉強して「森蘭丸って、こんなにすごくて可哀想な人生だったんやなぁ…。」と、森蘭丸の真実を知り、蘭丸へのお詫びもこめて京都の阿弥陀寺(森三兄弟墓所)経由で兼山に巡礼になったのだそうだ。もはや、すごい蘭丸ファンと化していらして、こっちが面食らった上に、ひたすらびっくりした。人間のみでなく、地球外生命体の心までも動かす森蘭丸はやっぱり全宇宙規模で素晴らしい。
「さっき、可成寺にお参りしたときに、記帳書であんたの名前をみつけて、今日、兼山に来とると知って、町の中を探し回ったんだ〜。やっぱり会えたなぁ。」 
ロマンスの神様の計らいとは、かくもすごいものか。だが、ロマンスの神様はさらに奇跡を用意してくれていたのだった。
 いつも私のサイトにも訪問してくれ、実際に兼山や津山でお会いしている関東の住人・愛平さんからケータイに連絡が来た。今回、体調を崩して兼山行きを断念した愛平さんからのメッセージは「やっぱり旅立っちゃいました。」
Σ(゜□゜;病身で来るんかい!!!
夜、可児市のホテルで合流する。一緒にレストランに行ってご飯を食べた。私はマンゴーとコーラという奇抜な食事ながら、それはどうでもよく、愛平さんと久々に森家話で盛り上がる。

■ 10月19日(日) 兼山の地はいつも麗しく

 「カァアアア!!カァアアアアアアア!!!!クワァアアアアアアアアア!!!!!カァ!」
兼山でカラスの呼びよせが始まる。宇宙人さんである。
宇宙人さんは、実はカラスを呼びよせるのが得意なのだ。ただ、本当に寄ってくるのを見たことがない。私は前回に何度もこの呼びよせ行動を見て、もう慣れてしまっているものの、愛平さんはびっくりした表情。まぁ…そうだよね。
宇宙人さんとお連れのお友達、愛平さんと私は4人で早朝から兼山を散策していたのだ。
兼山湊から臨む木曽川
この美しい風景を見れば、どんな時でも心癒え
ゆく。

 兼山湊で美しい朝を満喫し、金山城跡に登る。今年もすでに7年計画の発掘調査が再開されている。
それから可成寺にお参りする。宇宙人さんが可成寺の入口で芭蕉の墓を見つけてしまった。私は何度となく可成寺にお参りしているのに、その存在にまったく気づいていなかった。なぜ、可成寺に芭蕉の墓があるのだろうか___。しかし、それは私にとっては永遠にどうでもいい謎である。それから常照寺にもお参りをする。
本日の兼山は蘭丸武者行列の開催日であるので、準備の行われている着つけ会場へ顔を出して、一足お先に森蘭丸役をはじめ、各役のみなさんのご尊顔を拝した。しばらくすると、お祭りで森可成、長可、蘭丸役の乗る馬が到着する。愛平さんと一緒に馬を眺めた。 

馬のオケツ
この長い尻尾で器用にペンペンと
虫を追い払うのだそうだ。
馬の顔
おっとりとしているけど、時には興奮していななく。

 宇宙人さんとお連れさんは、現在予約制の食事処「蘭丸亭」でお昼ごはんとのことで、
「お世話になりました。」「お元気で。」「お祭り、楽しんでくださいね。」と、お別れをする。しんみりしたところで、お祭りでどうせまた会うじゃないかと、宇宙人のお連れが気づく。何で両者、疑問に思わずに別れの挨拶を交わしてしまったのだ(苦笑)。
 兼山歴史民俗資料館にて色々と調べ物をしていると、関西方面の旅でもお世話になった兵庫県民の繭さん[URL]が到着。無理矢理に日帰り作戦だ。「袖つかむのも森家の縁な旅」でもご一緒した繭さまがサプライズするのは、もう間もなくである。

 愛平さんと3人で、武者行列出発地の蘭丸亭に向かう。常連のkijokazuさん[URL]ともここで再会。そこに宇宙人さん登場。で、繭さんも私と同様、宇宙人さんとの思いもよらぬ再会に驚くのだった。

 正午になり、森可成の「えいえいおぅ…。」という、ゆるい号令で、武者行列、いざ!出発!!
…と思ったところが馬が興奮していななき、馬の落ち着き待ちである。数分後に無事、整列。馬がウコンをする。ウコン係の方がお掃除をして、武者行列の行進が始まった。
 もちろん私たちも武者行列についていきつつ、道なりに出ている出店に寄って、愛平さんと繭さんと3人で、蘭丸五平だんごを食べる。清酒「蘭丸」を飲む。盃をテイクアウトする。かき氷を食べる。
 今日もお天気が良くて真夏のごとくに暑い。かき氷のカップを捨てに師匠の職場を訪問した(無礼者)時に、師匠から「お祭の行列の先頭には森忠政の刀剣が出ている。」と聞かされ、それを初めて知った私は猛ダッシュ!!!いつもは資料館に展示されている森忠政の刀剣も、今日は神官の手に守られて、神輿より前方、行列の先頭にあった。
 ちなみに、本来この日は、森家も氏神とした貴船神社の大祭であり、その日に会わせて蘭丸の武者行列が行われている。なんと言うのか、コラボなのだ。森忠政の刀剣は貴船神社に寄進されたもので、貴船神社のお祭りのほうで出されていたのだった。

出陣前の父子の団欒
長可(左)・蘭丸(中央)・可成(右)。
蘭丸、なんか可愛いVv
馬上の森蘭丸
森一族集合写真
トンガリ効果でどこにいてもわかる親父。

  行列を追う途中に森家の菩提寺・可成寺へ寄って再びお参りをする。
恒例のMY甲冑軍団による寸劇は「本能寺の変」と「手筒山の合戦」。手筒山の合戦では、森可隆が熱そうなアスファルトに倒れていた。先日、リアル手筒山に登った私よりアドバイスさせてもらうと熊が出るので討ち死には大変に危険な行為である。熊には死んだフリは通用しないと、現地で教わった。
 Kijokazuさんが「犬がものすごく震えている。」と言うので見てみると、兼山のおうちの飼い犬が、すさまじく腰を抜かして可哀想なほどにブルブル震えていた。犬的には、かつてない人だかりと、馬と、マイクの大きな声に「一体、何が起こっているの〜ぉ!!!!」と怖くて仕方がないのね、きっと(汗)。犬も認めるこの武者行列のクオリティーの高さ。
 寸劇会場では常連の団地猫さんとも再会。可隆の討ち死にの背後で、我ら、土産の物々交換を始めた。

お知らせ:武者行列の楽しい詳細は鶴丸さまの「蘭丸の戦国武者行列」をご覧ください。(^O^) 

 武者行列が終わって、みんなで生き生きプラザのソファーにかけて歓談した。持ち寄れる話題も豊富で、話しても話しても、偏った楽しい話は尽きない。私がありのままの私でいても、変な人扱いせずに受け入れてくれる素敵な方たち。
そのうちに、宇宙人さんも飛来してくる。
兼山の地をあとにするKijokazuさんとお別れして、残りのメンバーで金山城跡へ登った。

金山城跡
本丸ゾーンに入る手前の桝形だけど、キレイな
形もこの写真じゃ判りづらいカモ。
金山城本丸の礎石
金山城の柱を支えていた大事な礎石。

 前回、山下城跡(山城)に一緒に登った後で、「史跡めぐりするための靴を買うことにしたんです。」と言ってた繭さん、今日は、おしゃれな革のオンナノコ靴を履いて、くるぶしあたりで革製リボンを巻いてキュッ★と結んでいる。Σ(゜□゜;おいっ!
 それでもみんなで登った金山城跡の山頂。落ち葉に包まれた地面より、往時の本丸の礎石がチラリと覗く。
この後に、繭さまと宇宙人さんご一行とは金山城跡で現地解散し、これより団地猫さんと愛平さんと、私で3人の行動となる。
 団地猫さんが車に乗っけてくれて、長久手の戦い関係の史跡、白山林(名古屋市守山区)に連れて行ってくれることになった。三河を奇襲しようという豊臣方特別部隊の総大将だった三好秀次の軍が白山林でまったりと休憩していたばかりに、こっそりと跡をつけてきた徳川軍に急襲されて敗退した地だ。果てはこの敗退した三好軍を助けるために森長可と池田父子が引き返してきてあげて、そのせいで彼らは長久手に散るハメになったのだ(涙)。
ちなみに、三好秀次軍が白山林でまったりすることなった理由は、三河への進軍中、前方にいた池田軍と森軍が予定にない岩崎城攻めを初めて、城兵を皆殺しにしたり、首実検をしたりして全然三河に進もうとしなかったせいで前に進めなくなったためである。

 団地猫さん車で3人、色々と語りながら白山林へ向かうも、行く道はことごとくに渋滞が続いて、興味の方向が団地猫さんの車のカーナビに移ってしまう。
「さっきから何か所もカーナビに出てるランボール場って何?!」
愛平さん:「調べたら、ランボールってゴルフとビリヤードをミックスしたスポーツみたいです。」
「なんじゃそりゃあ!!!!」
「ランボール場が何ケ所もできるほど流行ってるのか、ランボール!」
「蘭ボール!!!」


 完全に夜になって白山林古戦場跡地に到着。どこぞの学校の前に車を停車してもらい窓から外を見る。真っ暗だけど、林なるものがまったく無いのは確かだ。あるのは住宅地だけだ。
「この辺。」
「はい。」
≪終了≫
 
 今も白山林の一部が残ってるみたいだけど、探す時間がないので終了。団地猫さんが地図を広げてくれて、長久手古戦場との位置関係を教えてくれた。
 大曽根駅まで車で送ってもらい、そこで団地猫さんとお別れして、愛平さんと名古屋駅に向かう。旅の終わりに2人で一緒に、味噌カツ定食を食べた。味噌カツの量が多いし、疲れが出て来たのか、だんだんと無言になってゆき、2人とも黙々と味噌カツを食べる。その後、ドトールでまた元気におしゃべりして、愛平さんと駅で解散した。
私は今回は、行きも帰りも夜行バス。バスに乗るなり、墜落睡眠。

 今回も、森家ストーキングの旅は楽しくて幸せで、何より嬉しいサプライズに満ち満ちていた。
森家があって、そこに集う人々がいて、私のこの愛しき日々がある。

みなさま、今回もお世話になりました。どうもありがとうございます。m(_ _)m