つかむのも森家
                      

                                                     2008年7月12日 in 兵庫 

ピキーン!!
有岡城・岸の砦跡の番人その1

■ ひがしの麦畑でザワワ〜♪の夢

ナメラ

ナメラ!
兵庫県三木市にある三木城跡ナメラ商店街に登り口があるのだナメラ!
森軍も別所軍もお買い物はぜひナメラ商店街をご利用くださいナメラ!
盃にそそいだお酒を吸うストローもここで買えるのだナメラ!!!

 神戸電鉄「上の丸駅」を下車して今回の森家の旅が始まる。
ナメラ商店街に入ってすぐの登り口の階段を登ると、山の周囲をコンクリ固めにされた硬そうな三木城跡が現れる。城跡として保存されているのは、今ではほんの一角らしいけど、色々な石碑があり、幼稚園があり、神社があり、馬上ゆたかな別所長治の石像がどーんと設置されていた。二年近くに及ぶ籠城と開城の悲劇がパネルで物語仕立てで紹介されている。

 天正6(1578)年に、三木城主・別所長治の謀反で豊臣秀吉が城を包囲する。毛利の援軍を信じつつ籠城をがんばった三木城だけど、秀吉に食糧補給路を断たれて「三木の干殺し」と呼ばれる飢餓状態になり、城主の長治は城兵の命と引き換えに切腹している。
 『森家先代実録』によれば天正8(1580)年には森長可も軍を出して、三木城の近くに附城を築こうとしていたところ、三木城から兵が出てきて「東の麦畑」で戦闘に及んでいる。
 この「東の麦畑」はどこなのか、ぜひ現地へ行って麦の稲穂の海に溺れてみたいと森長可ファンなら誰しも思うことであろう。現在もこの場所で麦を作り続けていないとも限らない。と、いうわけで張り切って地元の教育委員会に「東の麦畑」の場所をお尋ねしたけど回答をいただけずに、どこだか分らない。ナメラ商店街で聞きこみしてでも行きたかった。いや、判ればまた来よう。

この悲劇の城跡に幼稚園の職員方がやって来始めた頃に場を後にする。

三木城跡
三木城・本丸跡
コンクリ固めの上に鉄柵が張り巡らされる戦国
ロマン。
「三木の干殺し」という悲劇が起こった。
かんかん井戸
三木城に残る唯一の井戸。深さ25mにも及ぶ
が、ご覧の通りの「夏草ボ〜ボボボ」な状態。
石を投げこむとカンカンと音がするらしい(投げ
てないよ!)。
色白な馬に乗る色白な城主・別所長治と
本丸跡

騎馬像のすぐ背後にあるのが天守跡。
切腹する別所長治(23)と弟・友之(21)
長治辞世:「今はただ うらみもあらじ
諸人の いのちにかはる我身とおもへば」


 三木城跡から歩いて別所夫妻の首塚のある雲龍寺へ。
そこから東へゆく。森軍の戦った「東の麦畑」はどこか判らないけれど、東へ行ってみる。
 途中、正入寺というお寺があった。元は「勝入寺」と言って池田(勝入)恒興を供養したお寺だ。いきなり三木で長可の岳父の池田恒興の登場!
実は、後世、三木城主になった池田家の家老・伊木忠次の建立したお寺で、伊木家の菩提寺ともなり、池田恒興や伊木忠次のご位牌もあるらしい。
伊木忠次といえば、長久手の合戦の時に敵の鉄砲隊の銃弾の雨の中を突き進もうとする森長可の袖を捉えて「やっきになりすぎでござる!」と、注意した事で私の中では有名である。『森家先代実録』原文は「今日の御働あまりやっき過給ふにてぞ」。けれど、羽黒の敗戦を経て討死を望む長可を止める事ができる人などいるはずもない。長可は聞き入れず「敗軍の将は二度と計らず!」と進み出て鮮烈な討死を遂げる。
そんな長可の袖つかみのご縁を三木で拾うとは。

別所長治公夫妻首塚
 三木城跡近くの雲龍寺にある。
長治の自害の席に呼ばれたのも雲龍寺の
住職。
正入寺(勝入寺)
森長可とも面識のある池田(勝入)恒興の家臣・
伊木忠次が勝入追善のために建立した寺院で
伊木家の菩提寺ともなっている。

 そこからバスに乗って、三ノ宮へ移動。三木市を去る道筋で麦畑があれば超★ロマンチックであるが、やがて田園風景が見え始めた。
『山田錦 日本一の里へようこそ!』と書いてある。えっ!!米?!米ですか?しかも、ナンバーワンですか??!
麦の稲穂に溺れる代わりに、水を張った田んぼに飛び込むべき?Σ(゜□゜;


 三ノ宮からJRで伊丹駅に移動。さぁ、次は有岡城跡だ!今日は計らずも謀反キャッスルのはしごだ♪
伊丹駅で待ち合わせした兵庫県民の繭さま[URL]が現地をご案内くださった。伊丹駅そのものが本丸跡だという画期的な造りの城跡で、駅の高架と城の遺構がドッキングする姿は全体的に痛々しい。
 有岡城は信長に謀叛した荒木村重の城だ。信長に逆らうと伊丹駅にされてしまうといういい見せしめであるかもしれない。
この時、森長可も出陣して池田軍とともにどこかに川端砦を築いている(『森家先代実録』『織田軍記』『信長記(池田家文庫本)』)。…にしても、森家はまた池田家と一緒なのか。
 私としても、この川端砦の場所がわかっていれば張り付きたいけど、地元の教育委員会の方に懇切丁寧に諸事情を教わったところ、残念ながら現在、この場所がどこであったか判らないらしいので、今は亡き川端砦の分まで有岡城跡に張り付くことにする。
 梅雨の時期に雨が降らなかったことはありがたいけど、お天気が良すぎる。日焼け止めを何層にも塗りこめて塗り壁女になってみたが、この激しい陽射しの強さには敵わない。

有岡城跡

有岡城跡
伊丹駅が本丸跡。
なんだろう、このえも言えぬ脱力感。
有岡城跡 その2
 荒木村重ボンバー時代は土塁だった
けど、今や現代の石垣が…。
井戸跡
これは黒田官兵衛(孝高)が幽閉された穴で
はなく、フツーに井戸。
礎石建物跡
建物礎石跡。身元が怪しげな石も混じっていた。

 次の目的地を目指して川西能勢口駅前へ。陸橋の下にでっかい騎馬武者像があった。階段を降りて 見れば多田源治の祖・多田満仲さんであった。別名「まんじゅう」さんであり、「ただのまんじゅう」とか呼ばれたりもして、恐らくは粒あん(ばきっ!!)
 しかし、この銅像は本人の厳めしい生前の性格とは裏腹に、子供と一緒にカブトムシを取りに行ってくれそうな優しい顔。

多田源氏の祖・多田満仲
満仲には「美女丸」という子供がいた
という雑学。

 ここでチョコレートカラーのかわいい能勢電車に乗りこむ。多田駅で降りて、また炎天下を歩く。15分ほどで源氏ゆかりの多田神社にたどり着いた。駅からの道のりには参道らしい参道はなかったけど、以前に多田神社のお祭りで鎧に身を包む元木大介さんに遭遇した繭さんに現地を案内してもらえるので、道に迷う心配もなく、ただついてゆく。
 明治以前はこの神社は多田院という寺院で、信長は各地で課した矢銭(軍事費)を多田院に対しては免除しており、それを証明する書類には奉行として森可成も連署している。その奉行連署状は今もなお「多田神社文書」として現存するのだ。
ただ、至極残念なことに、宝物館が現在休館中で、森可成のサインも入っているこの連署状を見ること叶わず。泣く泣く宝物館に爪を立てるのみ(嘘。そこまでやってない)。
 この多田神社は、源氏を先祖とするらしい徳川家がスポンサーになっていろいろ建ててあげているので、そのせいか目につく神紋は源氏の笹竜胆紋に徳川の葵紋が融合している。
お腹が空いたのでお昼ご飯には帰り道にお蕎麦を食べた。

多田神社

階段
心なしか傾いている石段…。由緒あるね!
仁王門
昔は寺院であったことがわかる。仁王さまは
不在。
拝殿
立派な檜皮葺屋根。
源氏であったという徳川家からも保護された
神社なので、徳川家の出資建造物多し。
宝物館
こ、この中に森可成が多田院に宛て連署した
書状があると予想!!!
現在休館中の悲劇!!!!父よ!!!



■ 森蘭丸が塩川伯耆守の元へ使者として赴くのを追跡する。
 お次は能勢電車一の鳥居駅で下車。この駅名の由来は、と、いうとそんなのどうでもよく、むしろ三木のナメラ商店街の名前の由来のほうが気がかりであり、ともかく駅を降りるとでっかいプラモ天守閣が目の前に飛び込んでくる。大阪青山歴史文学博物館である。遠目には正門が閉まって入れないんじゃないかと心配したが、通用門が開いていて入る事ができた。天守閣前(博物館)の丘の上には王子様ズ!
 
 塩川(または塩河。伯耆守)国満と織田信長と森蘭丸の三像だ。信長は天正7(1579)年、「多田の谷」というところで鷹狩りを楽しんでおり、塩川家の塩川勘十郎という人が信長に一献進上している。その数週間後4月8日に信長が池田の地で小姓や馬廻衆と「御狂」という野外スポーツに興じているのが妙に気になるけど多田は関係ないのでここでは飛ばし、とにかくさらに数日後の4月18日には森蘭丸が使者、中西権兵衛が副使として(当時の慣例では絶対に単独で使者を任されることはなく、必ず副使が付き添うことになっている。)織田信長より塩川伯耆守に銀子百枚を与えている。『信長公記』ではその理由が書いてないので、『織田軍記』の説明を借りると、信長は鷹狩りの時、道服姿で民家に入って政道を訪ねたところ、百姓らの証言で塩川伯耆守が仁政を行っていることを知り褒美として銀子を与えたものだという。

 さて、この丘の上の王子様ズの写真を撮ろうと繭さんと丘にあがる。歩を進めてだんだんと蘭丸像の表情がはっきりするにつれ、こっちの表情は険しくなってくる。なんかモコモコしている。速水もこみちさんに似ていると言っているのではない。モコモコしているのだ。しかも、竹棒を持っている(像の説明では竹で獲物を追いやっている)、兵庫県まで赴いて何をしてるんだ、絶世の美男子の蘭丸。まぁ、顔は作者の感性だからな。
しかし、「この角度にしよう。」「この角度では!」と2人でいちいち感想を述べつつ写真撮影会。

三将の像(大阪青山歴史文学博物館)

塩川伯耆守(左)&織田信長・白鷹の吉法師くん(右)
三将の像(塩川伯耆守・織田信長・森蘭丸)
森蘭丸像一回転
この表情を見れば、少なくとも、鷹狩りのお供というものは楽しいものではないらしい。

 銅像撮影会が終わって再び車上の人となる。次は山下駅。塩川伯耆守の拠点であった山下城がある。しかし、この山下城は山上にあるらしく、どういうことなんだ。
そして城跡がどういう状況かも私にはよく判らず、「とりあえず資料館に行って尋ねてから登るかどうか決めよう。」ということにした。焼けたアスファルトの上を歩き、川西市郷土館へたどり着く。よそから歩いてきたおじさまと郷土館入口で鉢合わせになったので軽く会釈をしつつ館内に入った。受付で入館料を支払いながら、「山下城跡に登りたいんですけど。」と館長さんに尋ねる側から横にいたさっきのおじさまが「じゃあ儂が連れていかんないけんな。」とコメント。
 話を伺えば、山下城跡の地図を作るために毎日城跡に登ってらっしゃるといい、実際に山中を歩きまわった足取りをGPSシステムで残した地図を見せてくださった。何か谷底でさまよった線までリアルにグニョグニョと素直に記録されており、しかもその谷底でマムシと闘ったらしいが、館長さんにも信頼を得ているこの方に連れていってもらえることになった。私たちって運がいい。繭さんが「この方は宇宙人だそうです。」と教えてくれたので、以後、宇宙人さんと称す。
 宇宙人さんに郷土館の中も案内してもらった後(館内のものは塩川氏とは関係なかったけど勉強になった)、塩川氏の居城・山下城跡へ向かう。蘭丸もこの山下の地へ来たのだろうか、お金を持って。塩川氏の城下のお屋敷はどこかと尋ねると、住所にして「下財町」が昔の武士たちの居住区だったらしいからその辺だろうとの予想。
 道路拡張で大手門の場所は山と離れていたけど、大手門側の登り口には、かつて秀吉軍に首を切られた塩川家の家臣らを弔う首斬り地蔵が鎮座していた。

山下城跡麓の供養地蔵
山下城落城の時に
首を切られた者たちを供養する。


 そうなのだ。かつて森蘭丸が使者として対面し、また娘・寿々を織田信忠に嫁がせたとされ、信忠の子・三法師の義父であったというこの塩川伯耆守は、秀吉軍に攻め滅ぼされるのだ。(余談ながら、伯耆守の娘の寿々の方のお墓は、森可成と同じ滋賀県の来迎寺にある。)
天正14(1586)年、塩川氏の近所の能勢頼次は秀吉に帰順して所領を安堵されていたが、能勢頼次が秀吉の命で九州の島津征伐に従軍させられていた留守中に塩川伯耆守は能勢氏の所領を襲ってしまった。これに激怒した秀吉が塩川氏を討伐する軍勢を送り込んだ。そして塩川伯耆守は自害し、その首は山下城外の東大手口に葬られた。
その時、塩川家の姫が身を投げた姫ケ淵という場所もあるらしい。

山下城跡
川西市郷土館から眺める山下城跡
背後の山がそれ。
郷土館のみなさま、お世話になりました。
!!
山下城跡登り口へ向かう道で遭遇。
車にはねられる気満々の飛び出し坊や。
山下城本丸跡
土塁などの遺構が残っていた。
尾根続きの向山のほうにも山下城の遺構があ
るという(今回は行ってない)。
山下城本丸跡
説明の看板も、石碑もないこの山下城跡の
唯一の城っぽい名前プレート!

 「え?ここから登るんですか?」というような場所から山中に入る。城跡への道しるべなんて何も無いので、私たちだけでは絶対に分からなかっただろう。宇宙人さんにお会いできて本当に良かった。マムシに襲われないように宇宙人さんは草むらにビシビシと木の枝を叩きつけて先頭を切る。山頂にいたる道は思っていたよりも分かりやすかった。登りながら、山頂に向かって段々になった曲輪(くるわ)の遺構がはっきり確認できる。岐阜の久々利城跡の構造によく似ている。途中で分かれ道などあり、下手すれば迷うかもしれない。途中には吉秀大神の社(秀吉じゃなく吉秀)や愛宕社があった。
 宇宙人さんはカラスを呼び寄せる事ができるらしく、いきなり山中で大声で「カァ!カァアアアアア!!」と叫び始める。しかし、カラスはまる無視。寄ってこない。…もしかしたら、私たちがいたせいかもしれないね。
 マムシやカラスに遭うこともなくたどりついた本丸跡の山頂は広々としていた。ただ、看板も何も無いし、どうデジカメ撮影してよいものか判らない。
宇宙人さんのおかげで無事に登る事ができて本当に良かった。

 山を降りてからは塩川氏の墓所めぐり。途中、宇宙人さんがいきなり道路で天を仰いで「カァ!カァァアアア!!!」と叫びつつお参りした大昌寺は石ドアつきの廟所。続く善源寺には伯耆守と奥方などのものと伝承される供養塔などがひっそりと建っていた。…いや、全然ひっそりとしてなかった。隣の敷地で沢山のアブの群れがたかってブンブンというものすごい羽音を立てて、ステレオ放送に耳がおかしくなりそうだったのだ。

大昌寺の塩川氏の墓 善源寺の塩川氏の墓
奥の上段には、塩川氏の新しい供養墓も造られ
ていた(アブのせいで写真撮れず)。


 塩川伯耆守の墓。貴方は蘭丸に会うことができたんだ。しかも、蘭丸が大金を持って会いに来てくれたのだ。それだけでこの御仁は勝ち組のような気がする。
宇宙人さんのガイドで、細い線の張りめぐらされたお寺の裏道を抜ける。「その線、イノシシ避けの高圧電流が走っているので、触れたらイカンよ。」って、途中で教わる。そこは足場の悪い道で道幅も狭くて、高圧電流に触れるなと言われても転んだらどうなるかわからない。びびっていると宇宙人さん「やっぱこの道はよそう。」
 民家のある場所に抜け出る。閉店のカフェを宇宙人さんがこじ開けてくださったおかげで、冷たい飲み物にありつくことができた。行き当たりばったりで出会ったこの方におごっていただき、お見送りまでしていただいて山下駅を跡にする。

 そして繭さんと伊丹駅に舞い戻る。まだ有岡城跡の惣構えを見回る事ができていなかったので、繭さんのお父君が車で乗せて回ってくださった。有岡城見学・第2部のスタートだ。
地元の教育委員会にあらかじめ送ってもらった地図を見ながら、まずは鵯砦跡(私有地)を捜す。地図の”丘の上にほこらがあります。”という説明書きを受けて、「これじゃないんでしょうか。」と繭さまが普通の家の庭の中を指差し、そこにミニ神社があったので私も「おおっ!」と褒めたたえていたら、実際の砦は全然違う場所にあった。今はコンクリートに囲まれて行く手を阻まれ、さらに私有地で入れずにその砦の全貌は見えやしない。

有岡城砦跡・鵯塚(私有地)
有岡城南端の要所。
鵯(ひよどり)塚(奥の杜)。
今も要所らしく入れない(涙)。
有岡城・岸の砦の番人その2
力尽きた風味だけど、生きていたので安心。
暑い一日だったナメラ…。

 次は上臈塚砦があった場所に行ったものの、伊丹シティホテルな砦と化して跡形もない。近くの墨染寺(ぼくせんじ)の境内には、有岡城落城の時に処刑された婦女子を悼む「女郎塚」がひっそりとあり、お参りしてから、次のきしの砦へ。今はこの地は稲名野神社の境内となり、参道の石灯篭の中心部は猫がセットされており、塀にも猫が片足落として寝ており、そうね、今日は暑いよね、猫としてもだらけるよね。
 夕暮れになり、稲名野神社本殿に灯る灯の美しさに、今日のよい旅をありがとうございました。

 最後に、伊丹の有岡城跡の惣構えを離れて織田軍が布陣した塚口周辺を散策しつつ、塚口砦を見学。
 晩御飯にはスパゲッチーとピッツアを食べすぎながら繭さんとのおしゃべりがとまらない。繭さん、ホントに歴史がお好きなんだなぁ♪と、しみじみ感動させられた。
 素敵な出会いも、旅の喜びも、情熱もみんなみんな森一族がくれた。

今日は、念願だった森蘭丸使者の地にもついに行くことができ(銅像はオプション)、幸せをかみしめながら帰国。