お次は能勢電車一の鳥居駅で下車。この駅名の由来は、と、いうとそんなのどうでもよく、むしろ三木のナメラ商店街の名前の由来のほうが気がかりであり、ともかく駅を降りるとでっかいプラモ天守閣が目の前に飛び込んでくる。大阪青山歴史文学博物館である。遠目には正門が閉まって入れないんじゃないかと心配したが、通用門が開いていて入る事ができた。天守閣前(博物館)の丘の上には王子様ズ!
塩川(または塩河。伯耆守)国満と織田信長と森蘭丸の三像だ。信長は天正7(1579)年、「多田の谷」というところで鷹狩りを楽しんでおり、塩川家の塩川勘十郎という人が信長に一献進上している。その数週間後4月8日に信長が池田の地で小姓や馬廻衆と「御狂」という野外スポーツに興じているのが妙に気になるけど多田は関係ないのでここでは飛ばし、とにかくさらに数日後の4月18日には森蘭丸が使者、中西権兵衛が副使として(当時の慣例では絶対に単独で使者を任されることはなく、必ず副使が付き添うことになっている。)織田信長より塩川伯耆守に銀子百枚を与えている。『信長公記』ではその理由が書いてないので、『織田軍記』の説明を借りると、信長は鷹狩りの時、道服姿で民家に入って政道を訪ねたところ、百姓らの証言で塩川伯耆守が仁政を行っていることを知り褒美として銀子を与えたものだという。
さて、この丘の上の王子様ズの写真を撮ろうと繭さんと丘にあがる。歩を進めてだんだんと蘭丸像の表情がはっきりするにつれ、こっちの表情は険しくなってくる。なんかモコモコしている。速水もこみちさんに似ていると言っているのではない。モコモコしているのだ。しかも、竹棒を持っている(像の説明では竹で獲物を追いやっている)、兵庫県まで赴いて何をしてるんだ、絶世の美男子の蘭丸。まぁ、顔は作者の感性だからな。
しかし、「この角度にしよう。」「この角度では!」と2人でいちいち感想を述べつつ写真撮影会。
銅像撮影会が終わって再び車上の人となる。次は山下駅。塩川伯耆守の拠点であった山下城がある。しかし、この山下城は山上にあるらしく、どういうことなんだ。
そして城跡がどういう状況かも私にはよく判らず、「とりあえず資料館に行って尋ねてから登るかどうか決めよう。」ということにした。焼けたアスファルトの上を歩き、川西市郷土館へたどり着く。よそから歩いてきたおじさまと郷土館入口で鉢合わせになったので軽く会釈をしつつ館内に入った。受付で入館料を支払いながら、「山下城跡に登りたいんですけど。」と館長さんに尋ねる側から横にいたさっきのおじさまが「じゃあ儂が連れていかんないけんな。」とコメント。
話を伺えば、山下城跡の地図を作るために毎日城跡に登ってらっしゃるといい、実際に山中を歩きまわった足取りをGPSシステムで残した地図を見せてくださった。何か谷底でさまよった線までリアルにグニョグニョと素直に記録されており、しかもその谷底でマムシと闘ったらしいが、館長さんにも信頼を得ているこの方に連れていってもらえることになった。私たちって運がいい。繭さんが「この方は宇宙人だそうです。」と教えてくれたので、以後、宇宙人さんと称す。
宇宙人さんに郷土館の中も案内してもらった後(館内のものは塩川氏とは関係なかったけど勉強になった)、塩川氏の居城・山下城跡へ向かう。蘭丸もこの山下の地へ来たのだろうか、お金を持って。塩川氏の城下のお屋敷はどこかと尋ねると、住所にして「下財町」が昔の武士たちの居住区だったらしいからその辺だろうとの予想。
道路拡張で大手門の場所は山と離れていたけど、大手門側の登り口には、かつて秀吉軍に首を切られた塩川家の家臣らを弔う首斬り地蔵が鎮座していた。
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山下城跡麓の供養地蔵
山下城落城の時に
首を切られた者たちを供養する。 |
そうなのだ。かつて森蘭丸が使者として対面し、また娘・寿々を織田信忠に嫁がせたとされ、信忠の子・三法師の義父であったというこの塩川伯耆守は、秀吉軍に攻め滅ぼされるのだ。(余談ながら、伯耆守の娘の寿々の方のお墓は、森可成と同じ滋賀県の来迎寺にある。)
天正14(1586)年、塩川氏の近所の能勢頼次は秀吉に帰順して所領を安堵されていたが、能勢頼次が秀吉の命で九州の島津征伐に従軍させられていた留守中に塩川伯耆守は能勢氏の所領を襲ってしまった。これに激怒した秀吉が塩川氏を討伐する軍勢を送り込んだ。そして塩川伯耆守は自害し、その首は山下城外の東大手口に葬られた。
その時、塩川家の姫が身を投げた姫ケ淵という場所もあるらしい。
山下城跡 |
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川西市郷土館から眺める山下城跡
背後の山がそれ。
郷土館のみなさま、お世話になりました。 |
!!
山下城跡登り口へ向かう道で遭遇。
車にはねられる気満々の飛び出し坊や。 |
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山下城本丸跡
土塁などの遺構が残っていた。
尾根続きの向山のほうにも山下城の遺構があ
るという(今回は行ってない)。 |
山下城本丸跡
説明の看板も、石碑もないこの山下城跡の
唯一の城っぽい名前プレート! |
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「え?ここから登るんですか?」というような場所から山中に入る。城跡への道しるべなんて何も無いので、私たちだけでは絶対に分からなかっただろう。宇宙人さんにお会いできて本当に良かった。マムシに襲われないように宇宙人さんは草むらにビシビシと木の枝を叩きつけて先頭を切る。山頂にいたる道は思っていたよりも分かりやすかった。登りながら、山頂に向かって段々になった曲輪(くるわ)の遺構がはっきり確認できる。岐阜の久々利城跡の構造によく似ている。途中で分かれ道などあり、下手すれば迷うかもしれない。途中には吉秀大神の社(秀吉じゃなく吉秀)や愛宕社があった。
宇宙人さんはカラスを呼び寄せる事ができるらしく、いきなり山中で大声で「カァ!カァアアアアア!!」と叫び始める。しかし、カラスはまる無視。寄ってこない。…もしかしたら、私たちがいたせいかもしれないね。
マムシやカラスに遭うこともなくたどりついた本丸跡の山頂は広々としていた。ただ、看板も何も無いし、どうデジカメ撮影してよいものか判らない。
宇宙人さんのおかげで無事に登る事ができて本当に良かった。
山を降りてからは塩川氏の墓所めぐり。途中、宇宙人さんがいきなり道路で天を仰いで「カァ!カァァアアア!!!」と叫びつつお参りした大昌寺は石ドアつきの廟所。続く善源寺には伯耆守と奥方などのものと伝承される供養塔などがひっそりと建っていた。…いや、全然ひっそりとしてなかった。隣の敷地で沢山のアブの群れがたかってブンブンというものすごい羽音を立てて、ステレオ放送に耳がおかしくなりそうだったのだ。
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大昌寺の塩川氏の墓 |
善源寺の塩川氏の墓
奥の上段には、塩川氏の新しい供養墓も造られ
ていた(アブのせいで写真撮れず)。 |
塩川伯耆守の墓。貴方は蘭丸に会うことができたんだ。しかも、蘭丸が大金を持って会いに来てくれたのだ。それだけでこの御仁は勝ち組のような気がする。
宇宙人さんのガイドで、細い線の張りめぐらされたお寺の裏道を抜ける。「その線、イノシシ避けの高圧電流が走っているので、触れたらイカンよ。」って、途中で教わる。そこは足場の悪い道で道幅も狭くて、高圧電流に触れるなと言われても転んだらどうなるかわからない。びびっていると宇宙人さん「やっぱこの道はよそう。」
民家のある場所に抜け出る。閉店のカフェを宇宙人さんがこじ開けてくださったおかげで、冷たい飲み物にありつくことができた。行き当たりばったりで出会ったこの方におごっていただき、お見送りまでしていただいて山下駅を跡にする。
そして繭さんと伊丹駅に舞い戻る。まだ有岡城跡の惣構えを見回る事ができていなかったので、繭さんのお父君が車で乗せて回ってくださった。有岡城見学・第2部のスタートだ。
地元の教育委員会にあらかじめ送ってもらった地図を見ながら、まずは鵯砦跡(私有地)を捜す。地図の”丘の上にほこらがあります。”という説明書きを受けて、「これじゃないんでしょうか。」と繭さまが普通の家の庭の中を指差し、そこにミニ神社があったので私も「おおっ!」と褒めたたえていたら、実際の砦は全然違う場所にあった。今はコンクリートに囲まれて行く手を阻まれ、さらに私有地で入れずにその砦の全貌は見えやしない。
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有岡城砦跡・鵯塚(私有地)
有岡城南端の要所。
鵯(ひよどり)塚(奥の杜)。
今も要所らしく入れない(涙)。 |
有岡城・岸の砦の番人その2
力尽きた風味だけど、生きていたので安心。
暑い一日だったナメラ…。 |
次は上臈塚砦があった場所に行ったものの、伊丹シティホテルな砦と化して跡形もない。近くの墨染寺(ぼくせんじ)の境内には、有岡城落城の時に処刑された婦女子を悼む「女郎塚」がひっそりとあり、お参りしてから、次のきしの砦へ。今はこの地は稲名野神社の境内となり、参道の石灯篭の中心部は猫がセットされており、塀にも猫が片足落として寝ており、そうね、今日は暑いよね、猫としてもだらけるよね。
夕暮れになり、稲名野神社本殿に灯る灯の美しさに、今日のよい旅をありがとうございました。
最後に、伊丹の有岡城跡の惣構えを離れて織田軍が布陣した塚口周辺を散策しつつ、塚口砦を見学。
晩御飯にはスパゲッチーとピッツアを食べすぎながら繭さんとのおしゃべりがとまらない。繭さん、ホントに歴史がお好きなんだなぁ♪と、しみじみ感動させられた。
素敵な出会いも、旅の喜びも、情熱もみんなみんな森一族がくれた。
今日は、念願だった森蘭丸使者の地にもついに行くことができ(銅像はオプション)、幸せをかみしめながら帰国。
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