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手筒山城登山口
こうなったら、熊対策に鉄砲隊で
三段構えで入山。 |
15日の夜、夜行バスで博多を出発。16日の朝、京都駅に着く。
そこから再びJR琵琶湖線っぽいのに乗って車窓から宇佐山城跡(蘭丸の父・森可成が城主だった)や琵琶湖を眺めつつ敦賀駅に着けば、ようやく第一目的地だ。
まずは情報収集で敦賀駅の観光案内所に行って地図などをもらう。
「今から木ノ芽峠を越えようと思うのですが、入口が判らなくて。」と尋ねると、案内所の方は『福井敦賀歴史浪漫街道 信長・道元・芭蕉:偉人が通った木ノ芽峠を歩こう』マップをくださった。
そして、その後、「何か、クマ対策はなさってますか?」と思いがけない事を言い出された。
クマ?!徹夜明けに目の下にできる、あのクマか??!クマと縁のない九州人の私には「クマ対策」と言われても何のことだか分らずに動揺してしまうだけである。Σ(゜□゜;)
「クマ避けの鈴とか、ラジカセとか音の鳴るものをお持ちではないですか?」
こんな時代にいきなりラジカセ、であるか?「ないです。」と言うと、首を振られてしまった。
「クマ対策なしで登ることはオススメできません。女性が一人で入るような道ではありませんし…。」
でも、森長可だってラジカセ持たずに問題なく木ノ芽峠を越えたよ!!!それでも、首をふられるのであるから、やはり、この場は素直に諦めるべきだろう。フリだけど。
「じゃ、クマが冬眠したころに登りますわ。」
と言うと、「雪深くて無理ですよ〜。」と言われた。
では、とりあえず今日はこれからレンタカーを借りて、手筒山城跡に登ることに。
「手筒山にもクマが出ますよ。」と、またしても言われてしまう。麓には住宅もあるのに出るのかクマ!!
Σ(゜□゜;
しかし、山中にクマが出ようがインコが出ようが、手筒山城跡だけは譲れない。でも、ここは諦めるフリだ。「では、麓の金崎宮にだけお参りします。」と挨拶すれば「いや、そこもクマが…。」Σ(゜□゜;
金崎宮には宮司さんもいらっしゃるのに!えええ!!!
ともかく、レンタカー屋さんで車を借りた。私と共に越前を旅してくれるヴィッツで出発!
でも5分後には手筒山に到着。車は麓に駐車して、足で手筒山に登る。登山口には「熊が出ました。」とのチラシが貼ってある。本当に出たんだ…(汗)。
でも、ありがたい事に私の他にも登山者がいたので、山に登る勇気が持てた。手筒山城本丸のあった山頂へ行く。この城に攻め込んで戦死した若き森可隆(蘭丸長兄)、その埋葬地は知れず。だから、私にとってはこの手筒山そのものが森可隆の墓なのだ。
山頂には展望台がある。見晴らしのいい山頂にさらに展望台なんて、かなり不必要なのだが、本日はその展望台を改装工事していた。あんだけ工事の音があれば、クマさんなど本丸跡に寄ってくるはずもない。人間の私すら近寄りがたいのであるから。
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手筒山城跡より金ヶ崎を望む(地続き)。
あと3秒で、信長の大ダッシュ逃亡劇がスタート。 |
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金ヶ崎宮ご朱印 |
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手筒山城本丸跡
展望台タワーが本日は謎のベール
に包まれております。 |
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山中、東と南の尾根にある手筒山城跡の遺構(さりげなく古代遺跡が混在)の数々が見学できる。夢中になって遺構の中を突き進んでいると知らない間に深入りしすぎて、再び「クマがでます」という脅し看板に出会ってしまった。辺りを見渡せば、私は完全に山の中に一人で孤立状態。「テヘ!」としか言いようがない。
山を下りて近隣の金ヶ崎城跡にある金崎宮に行く。織田信長が義弟の浅井長政の裏切りを知ったのがこの金ヶ崎の地。金崎宮の入口には手作りのチラシが貼ってあった。
『金ヶ崎の山にはカモシカ(1〜2頭)が生息しています。発見できたらラッキーかな…』
語尾の余韻の「…」は何なのだろう。「クマが発見できたら、アンラッキーかな!テヘ!」という意味合いがこめられているのか?お参りをして、ご朱印もいただいてこの地を後にする。
さぁ、いよいよ木ノ芽峠の入口に移動するのだ。ここは車が入れないので歩いて登るしかない。森長可も織田信長とともに越前に攻め込む時にはこの峠を越えた。その跡を慕って私も峠を越えるのだ。
しかし、入口からしばらく歩くと、本当にクマが出そうな所だった。やっぱり一人では怖いかも。「もし、他にも峠越えを目論む人がいれば、私もついて行けばいいのだ。」と思い、待ってみるけど誰も来ない。出会ったのは農家のご夫婦。どこへ行く気だと尋ねられて、木ノ芽峠を越えるのだと言えば「クマが出るぞ。」と言われる。
なんか、よくわからないけど、みなが口を揃えて「クマ」。人気者なんだね、クマ(泣)!!!山にはクマ、海にはエチゼングラゲ、どこにも逃げ場がないじゃないか福井県!!!!
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木ノ芽峠古道入口
織田信長も、森長可も通ったこの峠を
クマが通れて私が通れないというジェラシー。 |
ハートブレイクで木ノ芽峠を去る。しかし、私は諦めたわけではない。森長可が越えた峠だ。必ず私もここを越える。クマが私を食べる前に、私がクマを食べるくらいに強い女になって再びこの地を踏もう。
車を走らせて武生市に入る。戦国の世においては一向一揆と戦うためにここに森長可も攻め入り、平成の世においては、森忠政のミュージカル「石の記憶」も催された由緒正しき森家ゆかりの地である。
私の目的地は龍門寺城跡だ。
天正元(1573)年の朝倉攻めの時に織田信長が本陣としたのがこの城だ。朝倉氏滅亡後は、寝返ってきた朝倉の旧臣に越前を任せて帰国したものの、一向一揆の勢力のほうがすごすぎて、一揆軍の大将・三宅権之丞らが龍門寺城に立て籠ってしまうのだった。その一向一揆を平定するために天正三(1575)年、森長可を含む織田軍は、木ノ芽峠越え(ラジカセ無し)、もしくは海路で越前に入った。その時、森長可が攻め込んだのが、龍門寺城。
うーん。この辺に来ると「利家とまつ」色が濃厚になってきて、放送年度に作られた前田家専用の説明看板が立っている。いつか、森家専用の看板も立ててほしい。
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龍門寺城跡
一向一揆軍が籠っていたのを、
森長可が攻め込んだ。 |
龍門寺境内の段差(低いほうが推定・堀跡)
堀跡と考えられている場所は、現在墓地になっ
ている。 |
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龍門寺城跡
寺にささっていた石碑が城跡を示す。
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卍が辻の桝形(龍門寺城そば)
伝承では、織田軍が兵士をムギュっと
詰めて数を計ったというオドロキの人間用計量
プレース。 |
福井県に来たからには首都である織田(地名)に行かなくてはならない。武生市街から20-30分ほど。織田へ来ると「織田信長の一族発祥の地へようこそ」の看板があって「はい!まいりました!」と言いたくなる。信号の看板にも「織田」なんてついていて、パラダイス。
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織田北信号
「織田北」と書いて「オタ・ン」。
しかも、信号は赤である。 |
織田家のルーツは織田(地名)にある剣神社に求めることができるという。織田信長のご先祖さまは、この神社で神官をしていたと言われている。森家と縁戚関係にある関家といい、神聖な場所からトラバーユ。気づけば斯波氏の引き抜きで尾張で守護代やってたのだ、織田一族。
この地へ来て初めて知ることに、「織田(地名)」とは「おた」と発音するらしい。
伝承では、織田一族が、土地の神様に遠慮して自分の苗字は「おだ」と濁って読むことにしたとか。
織田町歴史資料館はまるで、今日の私の来訪を知っていたかのように休館。でも、図録だけは買った。『織田一族の肖像画展』、『信長戦記 越前激闘編』。福井県ではさりげなく、こんないい企画やってたんだねぇ。
念願の剣神社に足を入れれば、清浄な杜の空気が漂う。念願の剣神社にて、大きく深呼吸。
宝物殿には織田信長の安堵状もあるというので、社務所にお願いして鍵を開けていただくことに。
「安堵状は今、貸出中で、コピーしかございません。」とのことだけど、複製でもよいのでお願いした。
宝物殿に入れていただくと、コピー機でコピーしただろう白黒の織田信長安堵状がガラスケースの向こうにあった。
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ご朱印 |
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剣神社鳥居
信長の氏神 |
剣神社拝殿
きっと、ご神体には剣がお祀りされているの
でしょうね。 |
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小松建勲神社
平重盛(小松)と織田信長(建勲)を祀る。
出世開運、勝運隆昌の神さま。 |
戦国武将・織田一族発祥地石碑
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さすがは剣神社、織田信長の家紋にもなった木瓜紋があらゆるところにあって、ドキドキする。
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参集殿にも木瓜紋! |
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灯篭にも木瓜紋! |
拝殿にも木瓜紋! |
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馬の腹にも木瓜紋! |
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おみくじにも木瓜紋! |
なぜかナス! |
そして織田信長像もあった。
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剣神社参道の織田信長像
車道から撮影しなきゃいけないデン
ジャラスゾーン。 |
織田(地名)の近くには有名な観光地の東尋坊があったので、海に出てエチゼンクラゲをかぶるのもよかったが、今回は時間の都合ですぐに福井市内に向かう。
福井市郷土歴史博物館に到着するが、なんだか、まだ4時頃というのに既に屋外は薄暗い。もしかして、九州よりも日没が早いのか?と気づいて焦り始める。じっくり見たかった博物館の展示もテキトーに流して、早く福井城跡までダッシュだ!
ダッシュをして福井城に到着したところで、デジカメを紛失したことに気づく。まさか、博物館に忘れてきた?!Σ(゜□゜;
泣きそうになりながら博物館にダッシュして戻ると、デジカメは無事発見。また、ダッシュして福井城跡へ。スポーツの秋!
現在の福井城内は福井県庁と福井県警に占拠されてしまっていた。公務員がウロウロしている中、私は城内、息を切らして走る。
この福井城は江戸初期には結城松平家が城主として入り、寛永元(1624)年に至ると、福井城(当時はまだ”北ノ庄城”と呼んだらしい)城主・松平忠直の乱心につき、森忠政(55)にも出陣の命が出たらしい。出陣に際して、忠政は自国津山の沼・上河原という場所に白・赤・黄の三色の柄を馬上に差させて、それを津山城の北櫓から眺めてチェック。その結果、赤がお気に召したらしく、昇(のぼり)に赤字に白の十字紋を入れることにしたのに、結局、出陣したのかどうか記録が書いてない。そのご乱心の松平忠直が素直に豊後へ配流されたので行く必要が無くなったのだろうか…。
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福井城天守台跡
敷地内には
県庁舎と県警があるミラクルキャッスル。 |
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福井城舎人門
福井市郷土歴史博物館に隣接の門。
月が出ていて風情があった。 |
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福井城内の結城秀康像
近くで見ると森忠政銅像と張り合えるイケメン像だった。 |
福井城跡から商店街を抜けて、戦国時代に柴田勝家の居城だった北ノ庄城跡に行く。ちなみに柴田勝家は森可成とは仲良しだったし、後年、森忠政は、柴田勝家の娘(大野木どの)を津山に招いて津山城内に屋敷を与えている。
まだ5時過ぎだったけど、すっかり夜になってしまっていたので、北ノ庄城跡はよく判らない世界だった。
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越前北ノ庄城址
日没後の撮影で景色はどうせわからないので
石碑の平山郁夫文字でお楽しみください。 |
柴田神社の「ア・ウン」ご神紋
あら、上の小鳥さんのおクチが
ピヨッとひらいちゃっている。 |
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お市の方像
さすが織田家の姫。品がある銅像です。 |
柴田勝家銅像
酸性雨にでもやられたの?! |
もはや日没ですることがなくなったので、柴田勝家像の設置されている小高い場所に登って色々な角度の撮影に挑んでみた。勝家像とともに、私まで激しくライトアップされてしまうので恥ずかしいながら、旅の恥はかき捨ててみる。
勝家の築いた北の庄城の天守は九層だったと伝わっているらしい。木造なのに、やりすぎじゃないのか?!
今宵の宿は、越前朝倉氏のお膝元・一乗谷にある民宿。越前ガニ付きの夕食をこの民宿でいただけるよう予約を入れていた。お恥ずかしながら、これが私の人生初の越前ガニ・デーである。エチゼンクラゲも食べたことのない私が、いきなり贅沢に越前ガニである。きっと、柴田勝家も、越前ガニを食べたり、ハサミをマゲに刺して遊んだに違いない。
入浴後に食堂へ行くと私のための食卓には、越前ガニの細い足が一本置いてあった。Σ(゜□゜;
…いえ、他のおかずはボリュームたっぷりだったけんで、よいんですけど、越前ガニの味がよく…わからなかったな。
いつもは果てしなく眠つきの悪い私なのだけど、疲れていたせいか布団にもぐると、あっという間に眠りについてしまった。
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