一、 森蘭丸の名称について このサイトでは、定着した「森蘭丸」を使用しているが、実際に彼が名乗っていた名前で
一番確実なのは、「森乱法師成利」。
@ 乱 / 乱法師
通称・仮名(けみょう)。
他人が呼ぶ時に使う名前。
本人や、彼の上司、蘭丸を知る周囲の人はすべて「乱」の字を使っており、当時の書状には
”乱””乱法師”で登場する。
人によっては「乱」という字に悪いイメージを持つかも知れないが、子供の死亡率が極端に
低かった昔は、可愛い子を連れ去る神の目を欺く意味で、子供にわざと悪いイメージの名を
つける習慣があった。私自身は、たくましく育ってほしいという親の深い愛情から「乱」と名づ
けられたと解釈している。
A 蘭丸
通称・仮名(けみょう)。
後世につくられた名前で、本人が使用した形跡がない。唯一、蘭丸と同時代の一級資料で「
蘭」の字が見うけられるのは、本願寺祐筆の宇野主水の手による『鷺森日記』で、「森蘭」と
記述してある。これが唯一。(詳細は「蘭丸HYPER」)
しかし、これを記した宇野主水は本能寺の変を書き留めるのに彼の名を出しているだけであ
るので、生前、2人に直接の面識があったかどうかまではここから読み取ることはできない。
『鷺森日記』の言う「森蘭丸」が正しくて、張本人を含む残りの全員が「蘭」を「乱」と勘違いして
いたというのは…ムリ?
だが、『寛政重修諸家譜』、これは1799(寛政11)年に幕府が編纂した大名旗本諸士の系譜
で、諸家に提出させた系図を基にしているものだが、ここには「蘭丸」という字が宛てられている。
B 成利
実名(じつみょう)。本人から名乗るべき名。他人が呼ぶことは失礼にあたるので、本人以外
は親兄弟くらいしかこの名を発声しない。成利の読みは不明。「しげとし」か「なりとし」か。
一般的に実名は文字に書いて目で見ただけでことたりる。
C 長定
諱(いみな)と思われる。徳川政権下で作られた『寛政重修諸家譜』などの系図に見うけられる
名前。
逸話では、信長が「信」の字をくださると言っても固辞し、下の字「長」をもらって「長定」と名乗っ
たというが、現在のところ、本人が生前に使用した形跡がないので、死後に追贈られたと見受け
られる。
D 長康
後世に作られたもので、本人が使用した形跡がない。
歌舞伎などでは長定をもじってこの名で登場する。
E 成和
現在、館山市博物館に現存する書状にある、直筆の実名が「成和」とも読めることからこの名
前が登場した。でも、管理人にはこの書状の自署も「成利」と読める。
【参考】:彼を含め、彼と接点のあった人々・同時代の人が残した史料を書き上げるとこうなる。
◆ 書状 (内容の詳細は「書状データ集」)
書中の名称 |
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文書名 |
年月日 |
差出人 |
宛先 |
所蔵 |
「森乱成利」 |
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森乱直筆書状 |
天正年間5月6日 |
森乱成利 |
団平八忠直 |
館山市博物館 |
「森乱法師」 |
|
織田信長黒印状 |
天正8、9年6月22日 |
信長 |
金剛寺惣中 |
大坂・金剛寺 |
「森乱法師」 |
|
織田信長黒印状 |
天正8、9年7月29日 |
信長 |
金剛寺惣中 |
大坂・金剛寺 |
「乱法師」 |
|
織田信長黒印状 |
天正8、9年9月14日 |
信長 |
金剛寺三綱中 |
大坂・金剛寺 |
「森乱成利」 |
|
蘭丸直筆副状 |
天正8、9年4月21日 |
森乱成利 |
金剛寺三綱 |
大坂・金剛寺 |
「乱かた」 |
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大口本正副状 |
天正8、9年1月18日 |
本正 |
天野山金剛寺 |
大坂・金剛寺 |
「森乱法師」 |
|
織田信長黒印状 |
天正8、9年6月20日 |
信長 |
楢原右衛門尉殿 |
個人蔵 |
「森乱法師殿」 |
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森乱法師宛信長知行状 |
天正9年4月24日 |
織田信長 |
森乱法師 |
東京・前田尊経閣文庫 |
「森乱殿」 |
|
森乱宛書状 |
天正10年3月24日 |
(吉田)兼和
|
森乱 |
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「乱法師」 |
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吉田兼見宛書状 |
天正10年4月20日 |
信長 |
吉田兼見 |
大坂城天守閣 |
「森乱殿」 |
|
織田信忠書状 |
天正10年5月27日 |
信忠 |
森乱殿 |
個人蔵 |
◆ 記録
(内容の詳細は「蘭丸HYPER」)
文中の名称 |
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書名 |
筆者 |
「森乱」 |
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『信長公記』 |
太田牛一 |
「森御乱」「森乱殿」 |
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『兼見卿記』 |
吉田兼見(兼和) |
「御らん」 |
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『 晴豊記
』 |
勧修寺晴豊 |
「森お蘭」 |
|
『石山本願寺日記』 |
石山本願寺の祐筆・宇野主水 |
「森御らん」 |
|
『阿弥陀寺過去帳』 |
阿弥陀寺の住職・清玉上人 |
「森之お覧」 |
|
『三河物語』 |
大久保彦左衛門忠教 |
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