森蘭丸関係書状                                       現代語訳・解説:管理人


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森蘭丸花押
番号 文書名 機能 年月日 差出人 宛先 形態 所蔵
1 森乱直筆書状 書簡 天正年間5月6日 森乱成利 団平八忠直 横切紙 館山市博物館
2 織田信長黒印状 書簡 天正8、9年6月22日 信長 金剛寺惣中 折紙 大坂・金剛寺
3 織田信長黒印状 書簡 天正8、9年7月29日 信長 金剛寺惣中 折紙 大坂・金剛寺
4 織田信長黒印状 書簡 天正8、9年9月14日 信長 金剛寺三綱中 折紙 大坂・金剛寺
5 蘭丸直筆副状 書簡 天正8、9年4月21日 森乱成利 金剛寺三綱 折紙 大坂・金剛寺

6

大口本正副状 書簡 天正8、9年1月18日 本正 天野山金剛寺   大坂・金剛寺
7 織田信長黒印状 書簡 天正8、9年6月20日 信長 楢原右衛門尉殿   個人蔵
8 森乱法師宛信長知行状 書簡 天正9年4月24日 織田信長 森乱法師   東京・前田尊経閣文庫
9 森乱宛書状 書簡 天正10年3月24日 (吉田)兼和 森乱    
10 吉田兼見宛書状 書簡 天正10年4月20日 信長 吉田兼見   大坂城天守閣
11 織田信忠書状 書簡 天正10年5月27日 信忠 森乱殿 折紙 個人蔵

 1森乱直筆書状(館山市立博物館蔵)

原文

就我等懇之義
態示預畏悦
之至候差儀ニ而
無之候之条可
被御心安候委細者
武右京可為御物
語候之条不能具候
恐々謹言

森乱

五月六日 成利(花押)
団 平八殿

御返報

書下し文

我ら懇ろの儀に就き
態と示し預かり畏悦の至りに候。
差したる儀にて
これ無きの条、
御心安かるべく候。委細は
武右京御物語るべく候の条、
具にあたわず候。
恐々謹言

森乱

五月六日 成利(花押)
団平八殿

御返報

現代語訳

私たちが懇意にしていることを、わざわざ示してお世話くださって、恐悦の至りです。
これといって特別な用事ではないので、ご安心ください。
詳しいことは、武藤右京に述べさせますので、ここには細かく書く必要もございません

管理人コメント

千葉県の館山市立博物館に所蔵してありますが、この館山という場所が蘭丸や団平八と特に関係があってここに所蔵されているわけではありません。

森蘭丸が同じ織田軍団の団平八忠直に認めた書状で、蘭丸が感謝を示している。委細は蘭丸が、いらんこと武藤さんに口頭で告げさせたので、後世の私たちにはわかりかねますが、この団平八とは、かなり仲良しであったようです。
この書状のあて先の人は”団平八忠直”といいます。”団忠直”と実名で呼ぶのは失礼にあたりますので、書状では”団平八”となっています。長可と同じく織田信忠軍団の武将としてともに戦った人物で、よく、蘭丸の知行地とごっちゃになって議論の的となります。彼も本能寺の変のときに二条城にいたので蘭丸と命日を同じくしています。

武右京とは武藤右京さんのこと。苗字が”武”だけになっていますが、こういった省略は昔の人のお手紙には、よくみうけられます。

書状のお話に戻りましょう。蘭丸がこの書状を出したときの状態は用紙横半分の上の方に書いて、書き終わったらそれを横半分に折ってそれからクルクルとたたんでしまいます。目上の人にはそのように紙を使って書状を書きます。しかし、今は巻物の中にべったり貼り付けているので、何も書いていない不要な部分は真中の横の折り目よりやや下半分で切りとられてしまっています。

問題の蘭丸のお名前ですが、ご自分ではっきり”乱”の字を使用していますので、やはり”蘭丸”でなく”乱丸”だったのでしょう。それからいろいろな本では彼の実名が”成和”となっていますが、私が実際に原本を見たときに、文字の運びから「うーん、”成利”じゃないのかなぁ。」と感じました。
思うに、花押を書く余白がなくなりそうなので、無理矢理「利」の字の縦を縮めたのでは・・・。
花押はなんかやたら点点が多いですが、何の字かいまだ謎です。どうも名前とは関係無いものを使っている気もするのですが、あいつのことだから信長さまにアドバイスされた文字を使ったり、あるいはお母さんの影響で仏教と関係のある文字を使っているのかもしれない。
これが分かれば蘭丸の信条や思想が分かるかもしれないので、誰か解読して。


   2 織田信長黒印状

原文

両種一荷到来候、細々懇志悦入候

猶森乱法師申可候也

     六月廿ニ日 信長(天下布武黒印)
   金剛寺惣中

書下し文

両種一荷到来候、細々懇志(こんし)悦び入り候、

猶(なお)、森乱法師申すべく候也。

      六月二十ニ日 信長(天下布武黒印)
   金剛寺惣中

現代語訳: 贈り物の荷物が届いた。細かいところまで行き届いた志を嬉しく思う。それ以上のことは、森乱法師が申し述べるだろう。

解説:贈り物をくれた金剛寺へのお礼状です。「種」とは肴の単位で、一種とは「肴一式」。「荷」は酒樽の単位で一荷は「酒樽一樽」のこと。蘭丸がこの信長の礼状を携え、返礼に赴いています。


 3 織田信長黒印状

原文

樽一荷到来、懇情喜入候

猶森乱法師可申候也

     七月廿九日 信長(天下布武黒印)
    金剛寺惣中
 

書下し文

樽一荷到来、懇情(こんじょう)喜び入り候、

猶、森乱法師申すべく候也。

七月二十九日 信長(天下布武黒印)
    金剛寺惣中

現代語訳: 贈り物の樽が届いた。気持ちを嬉しく思う。それ以上のことは、森乱法師が申し述べるだろう。

解説:贈り物をくれた金剛寺へのお礼状です。おお、No.2とは微妙に言いまわしが違う。さすが上様。蘭丸がこの信長の礼状を携え、返礼に赴いています。金剛寺担当なのか、蘭丸。


 4 織田信長黒印状

原文

為音信樽到来、懇情喜入候、

猶乱法師可申候也

     九月十四日 信長(天下布武黒印)
    金剛寺三綱中

書下し文

音信として樽到来、懇情喜び入り候、

猶乱法師申すべく候也

九月十四日 信長(天下布武黒印)
    金剛寺三綱中

現代語訳: 便りの樽が届いた。気持ちを嬉しく思う。それ以上のことは、森乱法師が申し述べるであろう。

解説:贈り物をくれた金剛寺へのお礼状です。また樽が来たか。おお、No.2とNo.3とはさらに微妙に言いまわしが違う。さすが上様。
    三綱とは、寺に置かれた三種類の僧侶、上座(長老)・寺主(事務)・都維那(執行係)のことです。


5 蘭丸直筆副状    

原文

御折帋之趣、令披見候、仍上様江二種貮荷御進上候、

則令披露候之處、被成御書候、并私へ二種壱荷被懸

御意、畏悦之至候、猶被仰越之通、懇御使僧へ申含候之条、
不能具候、恐々謹言
      卯月廿一日 森乱
             成利(花押)
     金剛三綱
        御返報

書下し文

御折紙の趣、披見せしめ候、仍(よ)って上様へ二種ニ荷御進上候、

則ち披露せしめ候の処、御書を成され候、并(ならび)に私へ二種

壱荷御意に懸(かけ)られ、畏悦の至りに候、猶、仰し越さるゝの通、

懇ろに御使僧へ申し含め候の条、具(つぶさ)に能ず候、恐々謹言
      卯月廿一日 森乱
             成利(花押)
     金剛三綱
        御返報

現代語訳:お手紙の内容については読みました。従って上様へ二種・一荷の贈り物を御進上しました。ご披露したところ、金剛寺さまへお手紙を書かれました。また私に二種・一荷の贈り物を下さいまして、畏悦のいたりでございます。これ以上のことは上様に申し越された通りに、こちらから懇ろに(金剛寺の)御使僧さんへ申し含めましたので、詳しく述べることはいたしません。

解説:折紙とは紙の下半分を裏に折り返して用いた書状の形態です。
No.234のような信長の書状の内容を補うための副状(そえじょう)ですが、蘭丸どのは「具(つぶさ)にあたわず候」という言い回しが大好きのようですね。団平八殿へ送った書状(No.1)にも「不能具候」が出てきます。


6 大口本正副状   

原文

如仰当春之御慶珍重々々、不可有休期候、仍上様江

御進上之御樽、則披露被仕候、被成御書候之間、御仕

合之段、無申計候、将又、乱かたへ弐種・壱荷、我等へ

両種・樽壱贈被下候、忝存候、乱御報申候事候、向後

似合之御用等可蒙仰候、聊不可有疎意候、恐々謹言
  正月十八日             本正(花押)

(折封切封奥ウハ書)

天野山                    大口市内
  金剛寺                   本正 」
     貴報  

書下し文

仰せの如くに当春の御慶珍重々々、休期有るべからず候、仍って

上様へ御進上の御樽、則ち披露仕られ候、御書を成され候の間、

御仕合せの段、申す計りなく候、将又(はたまた)、乱かたへ弐種・

壱荷、我等へ両種・樽壱贈り下され候、忝(かたじけな)く存じ候、

乱御報申し候事候、向後(きょうご)は似合の御用等仰せを蒙(こう

む)るべく候、聊かも疎意有るべからず候、恐々謹言  
    正月十八日             本正(花押)

(折封切封奥ウハ書)

天野山                    大口市内
  金剛寺                   本正 」
     貴報  

 

現代語訳:おっしゃる通り、当春(正月)の御慶びは本当におめでたことで、休む暇もないようでございます。従って金剛寺さまからの上様へ御進上の樽の贈り物はすぐに披露され、上様が金剛寺さまへお手紙を書かれましたので、幸運に存じますこと申すばかりでなく、また、乱丸のもとへ二種・一荷、また私に二種・一荷の贈り物を下さいまして有り難く存じます。乱丸のほうよりお報せ申すことがございます。今後は私どもには(このように過分なものではなく)もっと相応の物にしていただきたく存じます。いささかも疎んじているということではございません。

解説:No.5と同じく、信長の金剛寺宛ての本状に添えられた副状です。向後の読みかたは「こうご」や「きょうこう」とも読むようです。エリアによって読み方が違うのでしょうか?


7 織田信長黒印状 

原文

糒十五袋到来候、志之趣別而悦入候、

猶森乱法師申すべく候

六月廿日  信長(黒印)
原右衛門尉殿  

書下し文

糒(ほしい)十五袋(たい)到来候、志の趣(おもむき)別して悦び入り候、

猶森乱法師申すべく候

六月廿日  信長(黒印)
原右衛門尉殿 

現代語訳: 糒が十五袋届いた。気持を殊に嬉しく思う。それ以上のことは、森乱法師が申し述ばるであろう。

解説:糒をくれたへのお礼状です。糒とは乾飯(ほしいい)の略で、その名の通り乾燥させたご飯。保存食・携帯食として用いられ、戦場では重宝しました。この、楢原さんとは、ものの本では大和葛上郡の楢原一族のものであろうとのこと。


 8 森乱法師宛信長知行状

原文

江州知行方

一、薬師村   百貮拾石
一、須恵田   五拾石
一、西山上   弐百石
一、桐原郷内  百参拾石

都合五百石并被官等事、令扶持候訖 全可領知候也

天正九年四月廿日 (天下布武朱印)

 
森乱法師殿   

書下し文

江州知行方

一、薬師村   百二拾石
一、須恵田   五拾石
一、西山上   二百石
一、桐原郷内  百三拾石

都合五百石并(ならび)に被官等の事、扶持せしめ候い訖(おわ)んぬ 
全く領知すべく候なり

天正九年四月廿日 (天下布武朱印)
 
森乱法師殿    

解説:全文を訳す必要もないので現代語訳は省略しましたが、蘭丸は薬師村120石、須恵田50石、西山上200石、桐原郷内130石、合わせて500石を信長より拝領したわけです。古文書によると、薬師、須恵田、(西)山上は、当時すべて近江蒲生郡に係(かか)る場所だそうです。


9 森乱宛吉田書状

原文

就御進發、御祈祷之義為、禁裏被仰出、一七日致修行、
勝軍治要之御祓進献仕候、随而御道服進上仕候、
不苦候者可預披露候、恐々謹言

三月廿四日 兼和(花押)

 森乱殿

書き下し文

御進発に就き、御祈祷之義を為し、禁裏仰せ出され、一七日修行致し、
勝軍治要の御祓進献仕り候、随いて御道服進上仕り候、
苦しからず候はば披露預かるべく候、恐々謹言

三月廿四日 兼和(花押)

 森乱殿

現代語訳: 信長公の御進発につき、御祈祷之事を禁裏が仰せだされたので、十七日に執り行い、勝軍治要のお祓いを献上つかまつりました。
そういうことで道服を進上いたします、構わないのでしたら、この書状を信長公にご披露下さい。

解説:吉田兼見(兼和)からの書状です。慣例に随い、身分の高い人(信長)にいきなり宛てず、取次ぎの蘭丸に宛てて、蘭丸から信長に見せてもらう書状です。吉田兼見は本能寺の変の後にも光秀と会ったりしているらしく、よく、本能寺の変の謎をとくキーワードにされています。”勝軍法要祓”とは、よくわかりませんが、戦勝祈願のようなことでしょうか。吉田神道に関係ある事なのでしょう。蘭丸は彼の訪問を受けたり、贈り物をもらったりしています。この手紙を送られた時にも、蘭丸宛てに手縄(旗や幕を張るための縄。)腹帯、染物をプレゼントされています。


10 吉田兼見宛書状 

原文

就出馬、於禁中抽懇祈、勝軍法要祓并道服到来、
懇志喜入候、猶乱法師可申候也
四月廿日 信長(黒印)

書下し文

出馬に就き、禁中に於いて懇祈(こんき)を抽(ぬきん)んじて、
勝軍法要祓、并(ならびに)道服到来、懇志悦び入り候、猶乱
法師申すべく候也
四月廿日 信長(黒印)

現代語訳:私の出馬に際して、禁中で懇祈を尽くして勝軍法要とお祓いをしてくれたこと、それから、道服が届いたこと、志を喜んでいる。また、乱法師が申すだろう。

解説:”勝軍法要祓”とは、よくわかりませんが、戦勝祈願のようなことでしょうか。吉田神道に関係ある事なのでしょう。詳しい方、ご教示ください。道服とは、お公家さんや大名が日常に着用した服。ドラマとかで利休とかが着てるやつです。


 11織田信忠書状

原文

尚々、家康者、明日大坂・堺被罷下候、
中国表近々可被出御馬由候条、我々堺見物之儀、先致遠慮候、
一両日中ニ御上洛之旨候間、是ニ相待申候、此旨早々被得御諚、
可被申越、委曲様躰使申含候条、口上可申候、謹言

 五月廿七日 信忠(花押)

森乱殿

書下し文

尚々、家康は、明日大坂・堺に罷下られ候、
中国表に近々御馬を出されるべきの由候条、我々堺見物の儀、
先ず遠慮致し候、一両日中に御上洛の旨に候間、是に相待ち申し候、
此旨早々御諚を得られ、申し越さるべく、委曲(つばら)の様躰使に申
し含め候条、口上に申すべく候、謹言

 五月二十七日 信忠(花押)

森乱殿

現代語訳:中国表に近々(父・信長が)御出馬されるとの事ですので、我々の堺見物は先ず遠慮致しておきます。一両日中に御上洛とのことなので、私は(京都で)お待ち申します。この旨を至急許可を得てお知らせするように、詳しくは使者に申し含めたので、その使者が口上で述べます。なお、家康は明日、大坂・堺に下ります。

解説:天正十年、まさに本能寺の変直前の信忠から蘭丸への書状です。この時はお互い、来週死んでるとは夢にも思わなかったでしょうか。書状を読むと、信忠殿は父上に対しても非常に気を遣っているようですね。冒頭の1行「尚々〜(尚々書き)」というのは追伸のようなものです。本文を書いていたら余白が足りなくなったので、筆を本文前余白に戻って書き足しています。  


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