森蘭丸の墓所・菩提寺等について

基礎情報
森蘭丸の名
菩提寺など
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  一、 森蘭丸の墓所・菩提寺等について
  寺社仏閣名   墓石   位牌 法名・法号 所在地 備考
@ 阿弥陀寺   五輪塔   瑞桂院殿月江宗春居士 京都府上京区寺町通今出川上ル  
A 本能寺   合祀墓   未確認 月江宗春居士 京都市中京区寺町通御池下ル  
B 中野千本卒塔婆     岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志中野  
C 大龍山可成寺   五輪塔   瑞桂院殿鳳山知賢居士 岐阜県可児市兼山  
D 大徳寺三玄院     正翁定是禅定門 京都市北区紫野大徳寺町  
E 本源寺     瑞桂院殿鳳山智賢大童子 岡山県津山市小田中  
F 花岳寺     未確認   兵庫県赤穂市  
G 赤穂神社       兵庫県赤穂市  
H 大石神社       兵庫県赤穂市  
I 建勲神社       京都府京都市北区紫野北舟岡町  
J 織田稲荷神社       京都市北区紫野今宮町 今宮神社内


@ 蓮臺山阿弥陀寺 

 天文24年(1555)年、正親町天皇の勅願所として開祖清玉上人により建立された阿弥陀寺は織田家とも交わりの
深い寺であった。

 寺伝によれば天正10年6月2日、阿弥陀寺住職の清玉上人が本能寺の急を聞きつけ僧徒と共にかけつけたも
のの、信長は既に自害、信長の側近たちがその遺体を火葬して隠そうとしているところであった。上人はこの信
長公の供養を引きうけ、その遺体を火葬して法衣につつみ、本能寺の僧侶に紛れて戦場を脱出してこれを持ち
出したという。同日のうちに、明智光秀に請い、織田信忠の遺体や本能寺・二条城の討死の者の死骸も寺に持
ち帰った。
 そもそもは阿弥陀寺は芝薬師連臺野(今出川大宮付近)に十三の塔頭を持つ大伽藍であったが、豊臣秀吉に
より天正15(1587)年に八分の一の規模に縮小されて現在地に移転させられてしまった。秀吉による信長の法事
執行の申し出を清玉上人が拒絶したのが原因と言われる。

 
阿弥陀寺境内には織田信長・信忠父子の両墓とともに、森蘭丸・坊丸・力丸や他の本能寺討死者の墓があり、
 後に子孫により置かれた森家の墓の台座の石には
 「森蘭丸源長定墓 天正十年壬午六月 二日戦死于本能寺
 「森坊丸源長隆墓 天正十年壬午六月 二日戦死于本能寺」
 「森力丸源長氏墓 天正十年壬午六月 二日戦死于本能寺」 と刻まれている。


◆本堂の位牌には、本能寺討死者の名前を1本の位牌に連ねた「”天正十壬午歳六月二日討死之衆中”位牌」が
 ある。
 信長法名・俗名の右横に「月江宗春 森蘭丸」「祐月宗徳 森坊丸」 離れて「花月宗泉 森力丸」
 の法名・俗名がある。

◆また、阿弥陀寺にはその後も毎年六月二日に森家からの使者が遣わされた経緯もあり、森蘭丸・坊丸・力丸3名
 それぞれの個別の位牌が安置されている。
 森蘭丸:「瑞桂院殿月江宗春居士 尊霊」
 森坊丸:「祐月宗徳居士(上下にまだ文字があったので確認中)」
 森力丸:「花月宗泉居士 (上下にまだ文字があったので確認中)」とある。

◆清玉上人が立ちながら認めたという『阿弥陀寺過去帳』には蘭丸・坊丸・力丸の法名も見え、
 「月江宗春 森御らん」
 「祐月宗徳 森御はう」
 「花月宗泉 森御里(り)き」と記される。

◆阿弥陀寺が豊臣秀吉によって天正15年に現在の場所に移される前は、阿弥陀寺は上京区上立売通芝薬師町
 にあり、多いに繁栄をみせていた。信長や森蘭丸らの遺体は当時、この地に葬られたという。

  京都府史跡ページも参照ください。


A  大本山本能寺

 
応永22(1415)年に日隆大聖人によって開創された法華宗寺院。本能寺の変の時は
中京区蛸薬師油小寺に
あったが、ご存知の様に焼失、寺域は天正17(1589)年に豊臣秀吉の都市計画により現在の地に移転する。

◆ 境内には、信長公廟があり、その傍らには本能寺の変の戦死者の合祀墓がある。
   その前に建てられた本能寺之変戦死陣没之各霊の名簿には、森蘭丸、森坊丸、森力丸の名が見える。

◆ 位牌については管理人は未確認だが、『森家先代実録』に位牌の写しがあるので記しておく。

        月江宗春居士 俗名森氏 亂丸
        祐月宗徳居士        坊丸
        花月宗泉居士        力丸
           七世六親法界
        天正十壬午六月二日 森内記正長継息女
                       鳥居 左京亮室
                      春禮院素徳日仁淑儀

◆ 宝物には、信長の茶道具ほか、本能寺の変遺品、森蘭丸の背負刀がある。



B 
中野千本卒塔婆

 本能寺の変で蘭丸らを亡くした事を深く嘆いた妙向尼は伊岐津志中野における天正10(1582)年7月7日
(6月22日とも)の葬礼の際には僧侶達を集め、千本の卒塔婆を立てて子供達の供養をしたといわれ、これ
によりこの場所は「中野千本卒塔婆」と呼ばれるれるようになった。
以降、森家では出陣前はこの千本卒塔婆で陣揃えをした。

 葬式当日には、近隣の見物人が群がり、木曽川に船を浮かべて見る者もいたという。
森家家中は残らず白装束に身を固め、騎馬に率いられた弓矢長槍等の行列が城より棺の供をする姿が
あった。
 実は長可、この葬儀の際に戦の準備を整えており、弟達の棺(もちろん遺体はない)に火がかかるとに
川向うの米田城にそのまま戦をしかけ合戦に及んだという話が残る。
 この地にあった蘭丸、坊丸、力丸の供養墓は昭和42(1967)年に可成寺に移され、当地は現在畑などに
なっており、それを示す標識などは何も無い。

B 中野千本卒塔婆

C 可成寺

D 大徳寺三玄院

D 本源寺

E 赤穂神社   
 
E 大石神社

F 花岳寺

G 建勲神社