碧松院鴻野さま・高野さま)

命日 / 寛永4年

法名 / 碧松院殿岑月宗高大禅定尼 

墓所/ 本源寺

 

■■■■■■■■■■■■■■ 可成パパの聟選び ■■■■■■■■■■■■■■■■

 彼女の父である可成は、長沼三徳斎の嫡子・藤次兵衛のことが大のお気に入りで、再三

「うちの婿にしたいのだ。」と三徳斎に頼みこんでいたが、聴き入れてもらえなかった。

「あなたは後まで小身であられる御仁ではない。いずれ大物になられよう。身分相応の聟を

もらいなされ。」と断られたが、ここで引き下がる御仁でもない。懇願しまくって、遂に聟に

もらう約束をとりつけた。しかし、ここで上司による大どんでんがーえし!!!Σ(゚□゚;

信長が可成に「坂井右近大夫政尚の息子・久蔵をそなたの婿にせよ。」 と命令した。

可成は長沼藤次郎と約束したのでごめんなさいしたが、信長紅鯨団(仮称)はこれを強引に

執行する。

 長沼三徳斎に使者を遣わして、坂井の息子を森家に縁付けさせたい旨を述べた。長沼家が

押しきれるはずもない。「もとより身分不相応なお話でしたのので。」と、長沼家は素直に身を

引いた。そして、信長は坂井政尚にこう切り出す。

信長:「そなたの息子の久蔵を、私の聟にするから。」

政尚:「上様にはうちの久蔵の嫁となる年頃の娘はいらっしゃらないでしょう。」

信長:「そのほうと、可成が不和なのを気の毒に思っていたので、可成の娘をわしの養女にし

て、久蔵に嫁がせたい。」

・・・・・どうやら、森可成と坂井政尚は、信長の目に余るほど仲が悪かったようだ。信長はこのま

までは、いけない、何とかせねばと、お得意の紅鯨大作戦を決行したのだ。(−−)どうせ可成

は言ってもきかないだろうので、周りから地固めしたのだろうか。主君にここまで気を遣わせる

可成って一体・・・・。政尚もすぐに信長の心の内を察して返事した。

「可成と私の不和をご苦悩おぼしめし、あり難く存じたてまつります。然る上は、それがし、可成

の元へ行って娘を頂戴して、久蔵と一緒にさせます。」

きっと坂井のほうで可成の下手に回ったのだろう。坂井久蔵と可成の娘との婚姻は調った。

しかし、祝言をあげぬままに、森可成も、坂井政尚も、そして肝心の久蔵も16歳で戦に敗れて

まるごと帰らぬ人となった。(しかも久蔵の武功が話の発端で長男森可隆まで死んでしまってい

る。)

■■■■■■■■■■■■■■ やっと定まった旦那さま ■■■■■■■■■■■■■■


一宮城主・
関小十郎右衛門共成(政倫・成正・ 成政・長安)は小大名ながら、対浅井戦でも

目覚しい武功をあげていた。

あっちへ嫁げ、こっちへ嫁げと次々に嫁ぎ先を変えらて心定まらぬ彼女であっただろうが、

結局、この殿方と元亀三年(1572年)にめでたく婚姻した。そして彼女は、夫との居城となった、

鴻野(こうの)城にちなんで、”鴻野さま”と呼ばれるようになったという。

この鴻野城というのは、共成が永禄10(1567)年に萩原・森村氏を破って領した高野(こうの)と

も言われているし、長可が久々利城(土岐三河守悪五郎城主)を落とした後、その地を”鴻野城”と

改めて関小十郎に遣わした”鴻野”とも言われている。前者ならば、その城の所在は武儀郡武

芸町(もしくは岐南町河野島)であるし、後者ならば、可児市久々利である。

こうしてようやく伴侶を見出した鴻野さまは、文献で見えるだけでも、五人の男子をもうけた

(諸説あり)。

長男

森武兵衛

森忠政に腹を立て家を出て行き、榊原康政の元で大坂の陣にでも活躍したが
恩賞のないのに腹を立て出ていき、上方で浪人中に死亡。妻は森可政の娘・
お鍋。
次男

関宇兵衛

慶長18年千石
三男 美濃国鴻野川で溺死
四男

了向

幼名・竹若丸。森可成の妻妙向尼が信長に石山本願寺との和睦を取り結んだと
きに、信長から提示された条件の一つに、森家の者を僧籍に入れる、というもの
があり、末の仙千代が僧籍に入っていたが、後継ぎが戦死したため、仙千代は
還俗、代わりに関家の竹若丸が僧門に入り、津山妙願寺の開祖となる。
五男

成次

民部少輔。忠政の娘を正室にした。子供に先立たれて後継ぎのいない忠政の
養子となり、後の津山二代目の藩主・森長継となったのは関成次の子供であり、
鴻野さまと共成からすれば孫になる。


■■■■■■■■■■■■■■ 二代目藩主の祖母  ■■■■■■■■■■■■■■■


ところが、夫の共成は天正12年(1584年)4月9日小牧長久手の戦いにて長可の後を追って戦

死した。夫はいまだ32歳の若さであった。長可が案じて遺言に書いた

「おこう事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師のやうなる人に御しつけ候べく候。」

という女性は実はこの”鴻野さま”であったのではないかという研究家もいらっしゃる。

12年の結婚生活も終わり、未亡人となった彼女は、森忠政のもとに身を寄せる。彼女が病に

伏せった時に、その身を案じた忠政の書状が現存する。

津山で寛永4年(1627年)に逝去。本源寺に葬られた。息子の成次と孫の長継に挟まれ静か

に眠っている。

法名・碧松院殿岑月宗高大禅定尼


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