●●● 森 伝兵衛 可隆(1552‐1570)●●●


もり でんべい よしたか

幼名/?

合戦 / 浅井・朝倉戦

命日 /元元年 4月25日

法名 /至?)芳宗理禅定門 (大徳寺)

墓所/ 美濃可成寺・

位牌が大徳寺三玄院にあるという
傳兵衛あにぃ!

 

■■■■■■■■■■■■■■■ 森兄弟の長男 ・可隆 ■■■■■■■■■■■■

可隆兄さんは早く死んでしまうため、あまり資料もなく、世に知られていないものの、森一族

にふさわしく、勇猛果敢な人物であり、千利休とも交流のある茶道もたしなむ風流人でもあ

った。

可隆は天文21年(1552年)美濃羽栗郡蓮台というところで誕生。

元亀元年(1570年)4月、越前国手筒山の城に朝倉義景が立てこもったのを、織田信長が

攻めたときに、可隆も父・可成に従って出陣。この初陣が最期の戦になろうとは・・・。

■■■■■■■■■■■■■■■■憤りの中に死す少年 ■■■■■■■■■■■■

家来の武藤五郎右衛門が可成に語っていた。「今朝、久蔵殿(坂井右近政尚のせがれ)が

手筒山の朝廻りに敵を討ち取ったとの事です。」

可成は怒った。「士たるものが16、7にもなって功名を立てたのが何で珍しいのだ。仰々しい

事をいうものだ。」

それを武藤が、「自分の子が年若いのに朝寝坊した事を責めずに、久蔵殿の功名を妬んで人

を叱りやがる、十九(負傷して指が1本足りなかった可成のあだ名らしい)めが!」と言い捨て

て帰っていった。寝坊したんかい!可隆君!

可隆はこの武藤の雑言を聞き捨てならぬと手打ちにしようとした。乳母子の勝三郎が袂に取り

すがって差し止めた。「武藤は常々大口を叩く奴です。明日合戦が始まるので、その時に武藤

の鼻をあかすような功名をおたて下さい。」といさめてその場は治まった。しかし、悔しくてたまら

ない可隆は、翌朝一番乗りして比類なき働きをして勝三郎と共に戦の園に散った。可隆19歳。

どこに葬られたかは不明と『森家先代実録』にある。

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