関 | 小十郎右衛門共成 |
義弟・森長可と常に運命をともにした武者。
●人名
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関共成(せき ともなり)小十郎右衛門・政倫・成正・
成政・長安
●出身 /尾張国一宮
●生没年
/ 天文21(1552年)年-天正12(1584年)年、4月9日
●法名
/ 瑞光院殿祥雲秀公大居士(可成寺)
●墓所
/ 尾張常念寺(墓石は戦災で無くなったので、建てなおされた墓がある。)
関氏は、森家とはDNAのように複雑に絡み合った切っても切れない深い縁が後々まで続いた間柄である。 共成は天文21(1552)年に織田信長の家臣・関十郎右衛門尉長重の子として生まれた。 近江桜馬場の陣や、対浅井戦で武功を飾ったという。 元亀三年(1572年)に長可の姉妹と結婚したことにより、以降何世紀にも及ぶ森家との深い縁が生まれる。 共成は常に年下の義弟・長可に付き従い、死ぬまでの行動を共にする。三木城攻めでも別所方の宇野右衛門佐という剛勇の士と槍を合わせて天晴れな働きをした。 織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼしたとき、彼も森長可とともに信長の嫡男・信忠に従っていた。武田の残党が名刹・恵林寺にかくまわれていたことを知った信忠は、時の住職・快川和尚に引渡しを求めるが、快川はこれを拒否して、こともあろうかこっそり逃がしてしまった。このとき、関共成は信忠の命に従い、和尚らを閉じ込めたまま山門に火を放つ。有名な「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」というセリフをこの傑僧・快川和尚が吐いたのもこの時のことだった。ちなみに、この名僧・快川は元は岐阜の崇福寺の住職だったが、信長と折り合わず寺を出て行って武田信玄に拾われた過去を持つ。更に、この恵林寺焼き討ちの折りに托鉢にでていて難を逃れた小坊主は、後に海晏と号し関家にもゆかりのある津山の森家菩提寺・本源寺の住職になるが、忠政と大喧嘩して寺を飛び出し、伊達政宗に拾われ瑞巌寺の住職になった。因縁とは、恐るべし。 天正10年6月2日本能寺の変。将来を期待した弟の死に愁嘆していた長可にとっては、義兄・共成の存在が心のよりどころの一つともなっていただろう。天正12年1月には共成は長可と仲良く大坂城の茶会に出かけている。 時が流れるに従い、織田信雄と豊臣秀吉の対立が表面化し、信雄が徳川家康を頼ったところから、再び世の中は乱世に返り咲く。池田恒興の娘を娶っていた長可は、池田の言に従い、秀吉に加担する。もちろん、長可の妹を娶っていた共成も同様。関成共は居城・一宮城を放棄して長可に従った。成共の弟の長尚は信雄方についたものの、内通を疑われ切られてしまった。 小牧・長久手の戦いは、天正12年に起こった。森長可は生きて又還らずの”必死”の決心でこの戦に及んだ。関共成は先がけして戦っており、本陣に戻ろうとしたときに、「長可討死」の報を聞き、怒りのままに命を顧みず戦の海に舞い戻り、常に一身同体で何をするでも一緒であった義弟と命日を同じくした。 長可亡き後は弟の忠政がその跡を継ぎ、関家は森家の家臣筋となる。 また、森忠政の子・忠広が亡くなって森家の男子が絶えた時、共成には孫に当たる関長継が森家の家督を継いだ。 |
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■関氏は藤原鎌足を遠租にもつという。鎌足よりくだって八代は、ムカデ退治で有名な藤原秀郷で、更にそれより11代くだると、関次郎俊平を名乗り、それより関氏が始まったと言う。また、平氏が租である、という説もあるし、本人達もどちらが正しいのかよくわかっていないらしい。 ■森可成の長男・可隆とはちょうど同年齢にあたる。 ■一宮城主として知られるが、森家の文献では美濃鴻野城主となっている。『森家先代実録』では、”久々利城(可児)を滅ぼした跡を鴻野城とした”と書いたり、”鴻野城が苅安賀城(一宮)と近かった”ように書いたりで、場所が不思議でもしかしてハウルの動く城?である。 ■鴻野城に嫁いできた彼のお嫁さんは”鴻野さま”(あるいは”高野さま”)と呼ばれた。津山本源寺に墓がある。 ■信長が東大寺の蘭奢待を切りとって家臣に与えたとき、共成も頂戴したけど、それを天正2年に真清田神社に奉納した。 ■共成夫妻の子供はやはり、森家とは切っても切れぬ間柄であり、
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■逸話 天正9(1581)年、信長の伊賀攻めで、先手となった堀秀政・池田秀雄・進藤賢盛の3名のお目付を関共成がおおせつかった。彼らが信長よりも2、3日先に伊賀に乱入したところ、伊賀の地侍らが大勢やってきて、「当国は小国とは言っても要害の地でございますから、願わくは信長公の軍勢をお待ちになってしかるべきです。」と助言し、あとは争うように「ご馳走したい。」やら、「ご案内したい。」やら、我も、我もと申し出てきたので、4人で笑った。 そして、御斎(おとぎ)峠の道より木興村(?)を攻めれば、敵が大勢出てきて攻め合いになり、その時、共成も高名を得た。『御家聞伝記』 |