藤玄蕃利堯

本能寺で戦死した斎藤新吾郎の居城を守った伯父。

人名 / さいとう げんば としあき

出身 /美濃国

生没年 / 未確認

法名 /未確認

墓所 / 未確認


斎藤新吾郎。信長の麾下で、森家とともども東美濃軍団として活躍し、信長にも大いに期待され加治田城主・佐藤紀伊守の

養子になっていたようだが、永禄10年初春には美濃加治田城を頂いている。

しかしこの新吾どのも、森蘭丸同様、その年の夏には織田信長に随行して京へ上り、明智光秀の謀反により二条城で信忠に

殉じて討死している。

その斎藤新吾郎の伯父が、斎藤玄蕃だった。彼は留守の新吾の代わりに加治田城の城代を勤めていた。本能寺の変により

東美濃の情勢は戦国時代のそれに逆戻りし、信長のもとで仲良く馬の首を並べた斎藤・森両家もここに雌雄を決する事とな

る。

森長可は米田城や上恵戸館を落とし、その勢いに乗って加治田城を攻める。加治田勢も攻撃に備え、先手をうって牛ケ鼻砦

に兵を送る。その中には、先に長可が落城させた米田城主・肥田玄蕃の姿もあった。自分の復讐心もこめて加治田入りしたの

だ。

「あの武蔵守は、傍若無人のたちなので人を人とも思わぬところがある。このままのさばらせても、我々ごとき少身者は何とも

思っちゃいないだろう。武蔵守を倒す時がやってきたのだ!」と肥田が意気込む。大した洞察力だ。

ともかく、相変わらず兄上様は至るところで評判がよい。

斎藤玄蕃と肥田玄蕃、ダブル玄蕃が手に手をとりあい、共に打倒・長可を目指す。

「乳犬(=赤ちゃん犬)が虎を犯す如き者どもめ!」長可は怒り軍勢を繰り出した。本当に斎藤や肥田さんのことを何とも思っ

ちゃいないのだった。

戦の模様は『堂洞軍記』や『兼山記』に詳しいが、読み比べると、立場によってまったく解釈が異なるのである。斎藤氏に同情

的な『堂洞軍記』はいかに加治田軍が闇を縫って森長可を挟撃し、いかにケチョンケチョンのブーラブラにして金山城まで退か

せたかを如実に描き、逆に長可の一代記の『兼山記』になると長可がいかに加治田軍をケチョンケチョンのブーラブラにして落

城させたかを描いている、しかも死んだはずの斎藤新吾郎がこの期に及んで登場す。さすが成立当時から学者に「胡散臭い」

との評価を得た『兼山記』。さりげなくゾンビ出演。

史実として長可は軍勢を引き連れ、敵を欺き裏道を登って加治田城まで安々と城に侵入するらしいのだが、『兼山記』は「城を

攻め破り」とその勇ましさを高らかに謳いあげ、『堂洞軍記』では「空の城に森軍を閉じ込め一騎たりとも逃すまじ」と、まるで長

可を鳥かごに入れたインコのように記述している。

・・・・・・・・・そしてこの斎藤玄蕃、『堂洞軍記』では病死している。『兼山記』では討死している。どうする、アイ●ル〜♪

どちらにせよ、この加治田城も長可の手に転がり込んだ。


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 加治田攻めに際し、長可は川の中の島に浮かぶ小山観音にお参りしている。その時に加治田軍が対岸から矢を放ち襲ってきたが

  長可が平然とお参りし続けたので、敵ばかりでなく味方までも、ただならぬ大将だ、と驚いたという。

■ 這坂(美濃加茂市):森長可と加治田城勢の戦い激戦地。ここで、負傷兵が這(は)いずりまわったのでこの名がついたという。

■ その加治田城には、剛将・井戸宇右衛門の勇士があった。落城の後、彼は長可に仕えることになり、森家家老にまで昇進する。

■ 投降した旧加治田城家臣団は森家臣団内では”加治田衆”と呼ばれた。

 


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