韓国に行ってまでして森家な旅 2ページめ |
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★旅程:晋州-(タクシー)→泗川倭城-(タクシー)→晋州邑城-(なんか色々あって)→釜山駅
これが「森可政」の渡海に関する記述。この頃の森可政は森家から出て行き秀吉の黄母衣衆となっていた(将来的には、森忠政に乞われて森家に戻り、津山で家老となる)。
「モクソ(牧使)の城」…その牧使とは役職名で、日本軍との攻防戦において、日本軍2万を相手に戦った朝鮮側の指揮官、晋州牧使・金時敏(キムシミン)に由来するのだった(晋州判官から昇進)。彼を讃える石碑や銅像などが城内にあった。日本軍の攻撃を防いで城を守り切った彼の存在ゆえに、日本ではこの晋州邑城を「木曽(もくそ)城」とも呼んだのだ。
城内には、国立晋州博物館がある。ミニシアターが上映されていたので、みんなでそれを見た。
…他にも、いろいろ、あり得なかった。韓国の子供たちはこれで日本にどういう印象を持つのだろうか…。
続いて、泗川朝明軍塚に寄ってもらう。慶長3(1598)年、明・朝鮮連合軍が泗川倭城を攻撃し、島津軍がこれを撃退している。その時に、島津軍は戦勝報告のために討ち取った敵の耳や鼻をそいで日本に送ったけれど、首のほうは城の傍に塚を造って葬ったそうだ。
ここで、韓国語の分かるメンバーに「チョッパリって何ですか?」と尋ねたところ、”豚の足”という意味。これは、日本人のことらしい。日本人は足袋をはいて足先が二つになるので豚のヒヅメと一緒…なので日本人はチョッパリ!。
夕食には「参鶏湯サムゲタン」を食べた。もち米や朝鮮人参が鶏一羽に詰めこまれたスープ。今まで刺激物ばかりが多かったので、今日のご飯は胃に優しくて嬉しかった。
で、今日も部屋で飲み会。 |
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■ 5月6日(水) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
とうとう最終日。楽しい時間はあっと言う間に過ぎてゆくのだった。 午前中のうちに亀浦倭城を見るために徳川駅に向かうことになる。地下鉄に乗らんと釜山駅に行けば、切符売場で別のお城サークル団体(日本)さんに出くわした。どうやらメンバーのお知り合いのようだ。彼らも今から亀浦倭城にお出かけするとのこと。世の中が狭いのか、倭城が人気なのか…。 徳川駅で、みなさんコインロッカーに荷物を詰めようとしたものの(私は釜山駅のコインロッカーに預けた。)、荷物が大きすぎて入らないうえに、そもそも壊れてたりしないか、という罠。その時、駅員さんがやってきて、総がかりで荷物を入れたけど、どうしても入らないものは別の場所で預かってくれることになった。また、城の曲輪に荷物を投げこまねばならぬところだったので良かった(*^_^*)♪ そして朝食には、石焼鍋ご飯とビール(最後まで飲むらしい!)。 城跡は、亀龍寺という寺内に存在する。ついでに居館跡はスケート場になっていた。 ここは立花宗茂も携わった城。 そういえば、森蘭丸を討ち取った安田作兵衛も立花家に従って渡海してきていたなぁ。と思い出す。彼は、『立花朝鮮記』も記しているのだ。どんな事が書いてあるのやら私は読んでないけど。
そして、私は飛行機帰国組のみなさんと別れて、ただ一人で「釜山港へ帰れ(トラワヨ プサンハンへ)」ということになる。 果たして私は、無事に釜山港へたどり着くことができるのか!
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