天正10(1582)年、織田信忠を総大将とする織田軍は勢いに乗ったままついに甲州へと勝ち進み、ついに武田家を滅亡へと追いこむ。
信忠率いる織田軍の中には森長可や関小十郎の姿もあった。
武田領視察で後より進軍した織田信長の軍には森蘭丸も同行していたと思われる(穴山雪梅の使者をしてるし)。
ホーム 史跡INDEX
■ 景徳院(山梨県甲州市大和町 田野 )
天正10(1582)年3月11日、武田勝頼・北条夫人・子の信勝と最後まで武田家に従った家臣ら 約50名が自害した場所がここ。 後に甲斐国に入った徳川家康が勝頼らを弔うために武田家滅亡のこの地に景徳寺を建立した。 《 みどころ 》 境内には、武田勝頼らの墓や「生害石」「旗竪松」「没頭地蔵尊」「首洗い池」など 武田家滅亡に関わる物が多く見受けられ、更に景徳院周辺にも「鳥居畑古戦場」「四郎作古戦 場」「土屋惣蔵片手千人切り」「姫ヶ淵」「大蔵原思案石」などの史跡が点在する。 なお、武田勝頼・信勝父子の首は、関小十郎右衛門の弟・関嘉平次が別動隊の織田信長の元へ 届けている。 森長可については勝頼滅亡前より武田の残党狩りに上野国方面へ派遣されていた模様(『信長 公記』『森家先代実録』)。 《 交通 》 甲府駅から車で行きました…。 |
■ 恵林寺(甲州市塩山小屋敷)
草創は鎌倉時代末の元徳2(1330)年。 戦国期においては武田信玄の崇敬を受けた快川国師が入山し、信玄の菩提寺ともなる。 しかし、天正10(1582)年3月には織田軍の侵攻により武田家が滅亡、翌月の4月3日には 恵林寺は武田の残党を匿ったことで織田信忠により焼き打ちを受けた。 その時に快川国師をはじめとする僧を寺内に押し込め火をかけた恵林寺僧衆御成敗奉 行は「織田九郎次郎・長谷川与次・関小十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉」(『信長公記』) だった。 《 みどころ 》 武田信玄の墓もあり、またお祀りされている武田不動尊には信玄自らが 自分の髪を漆に混ぜて不動尊の胸に塗りこめ(すなわち胸毛にした)られているという。 (伝)天正時代の三門の礎石もある。 織田軍による焼き打ちの際に快川国師の発した有名な「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」 が至る所に掲げられていて、森家好きは複雑な心境に至る。 境内の宝物館にはなぜか森蘭丸の浮世絵(2009年5月現在)があった。 《 交通 》 交通の便が悪いと言われ甲府駅から車で行きました…。 |
■ 逍遥院(甲府市桜井町)
武田信玄の実弟・武田信兼(信綱/逍遥軒)の碑所として建てられたお寺。 なお、この信兼は織田軍に捕らえられて殺された。 《 みどころ 》 逍遥軒の墓や、逍遥軒自らが法名を彫ったご位牌がある。 信兼は信州岩村田竜雲寺の北高全祝和尚に「逍遥院殿海天綱公庵主」と法名を与えられ、 自ら生前に位牌を作って北高和尚の書による法名を刻印したとのこと。 『森家先代実録』では逍遥軒は織田軍に降伏して森長可のお預かりになったとあり、 その後、織田信忠の命で逍遥軒を成敗することとなり、長可は家臣の各務兵庫と 豊前采女に命じて府中立石(現在、”府中立石”の正しい位置は不明とのこと)にて 逍遥軒を討ち取らせた。 《 交通 》 甲府駅から車で行きました。石和温泉エリアです。 |
よろしければこちらの旅行記もご覧ください。
「東京駅から森家史跡が始まる旅」:2009年9月21日(月) 甲府で降伏しそうになる。
甲府に行きながら躑躅ケ崎館にも行ってない私!穴山邸跡にも行きたい!
つづく!
ホーム 史跡INDEX