江戸。
まだ、まともに江戸の森家関係の史跡を回ったことのない私は、このシルバーウィークを利用して江戸見物をすることにした。
江戸にあるという森蘭丸の墓(未確認)。森忠政(蘭丸の末弟)も天下普請の手伝いをした江戸城。その後(津山森家・赤穂藩森家)の森家の史跡も考慮に入れれば、江戸には見どころはいっぱいある。
せっかく江戸に行くので、このチャンスに江戸城下にあった森忠政のお屋敷の跡地(跡地であろうが何であろうが構わない!)へ訪問しようと、一生懸命に古地図と現代の地図を重ね合わせてみて凹んだ。
■「森美作守忠政屋敷跡敷地」←クリック! |
江戸城下の「森美作」屋敷、「森右近」屋敷、「美作
下やしき」の敷地を現在の地図と重ね合わせてみま
した。
※参考『武州豊嶋郡江戸庄図』。 |
Σ(゜□゜;こうなったら、勝手にドリル持って行ってJR東京駅を掘って何か発掘してやる!
…と、息まいていたけど、JR東京駅を掘ったところで出てくるのは地下鉄や地下街なのだ。
…ああ、早速に気分は東京砂漠だが、おのぼり計画を立てて、だんだん心も弾んできた。
■ ゴージャスな東京おのぼり予定:
夜行バス(福岡)→JR東京駅(森忠政屋敷跡)→南泉寺(蘭丸の墓)
→
浜松町1丁目(赤穂藩森家上屋敷跡)
→江戸城(残りの時間をすべて
森忠政普請手伝い石垣探し)
※時間があれば
・日比谷公園(烏帽子石:森長継造営の石垣のなごりの石)
・市ヶ谷駅(森長継造営の桝形跡)
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しかし!
18日(金)に東京行きの夜行バスに乗り、目覚めれば大渋滞。Σ(゜□゜;
東京駅への到着予定時刻(11:50am)になってもバスは静岡の茶畑にある。いつ、東京にたどり着けるかも判らず、ましてや東京駅に友達を待たせてあるので気が気ではない。
しかし、どうしようもない…。
心を落ち着けて山手線内回りの駅の順番を暗記していた。そんな私は渋滞の中でバスの車窓から初めて富士山を見た。Σ(゜□゜; あれが、母里太兵衛以外の日本人全員が日本一高いと認める名峰・富士!
武田攻めの視察ついでに織田信長が観光しておおはしゃぎしたという富士山。
小姓たちと”御くるひ”という馬遊びを繰り広げてから信長がご覧じた富士山。
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バスの車窓から見た富士山
信長も富士山を見て大いにはしゃいだ。 |
たまたまバス内で隣の席になった人に自己啓発について説かれ、人生に目標を持つべきだと諭されつつ、3時間以上の遅れでJR東京駅に到着した。
ようやくにして今日の旅のお供である愛平さんと東京駅で合流(大大遅刻ごめんなさい。)
今日は3:30ごろの史跡めぐりスタート。組み立てた予定も、もはや役に立たない。
■(予定修正):森忠政屋敷跡→南泉寺→江戸城
と、いうことにする。
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森忠政屋敷跡推定地
東京駅がこんな思い出の地となるなんて…。
ちなみに、津山城から出てきた瓦と同じ成分の
「作州瓦」が東京駅前から発見されましたが、
これは津山藩松平家の屋敷に由来するものだ
そうで、残念。 |
今は敷地のほとんどが東京駅としてえぐり取られてしまった森忠政屋敷跡。森忠政は、息子の忠広が徳川家の養女を妻に迎えた事情もあってか、このように江戸城からかなり近い場所に三つの屋敷を構えさせてもらえたらしい。
このままいけば森家も安泰、森忠政も救いのある晩年だったのに、息子の嫁も、息子(忠広)さえも先立って忠政には息子が一人もいなくなってしまう上に、津山からの転封を言い渡される。
息子の死の翌年に忠政自身も体調を崩して亡くなっているのは、やっぱり息子の死に気落ちして心身ともに弱っていたのではないかと勝手に想像してしまう。
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南泉寺
ここの「1」に「横山大観・森蘭丸の墓があ
る。」って書いてあるので真に受けて上京
したのですが…移転とぞ悲し。 |
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南泉寺のお向かい
屋上でラクダを飼ってる東京怖い。 |
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愛平さんと森忠政屋敷跡にある山手線に乗って西日暮里駅へ。歩いて南泉寺へ行けば、ちょうど玄関にお寺の方がいらっしゃったのでともかく森蘭丸の墓について尋ねる。
すると、
「森蘭丸のお墓はもう、ここにはありませんよ。」
と、ショッキングな回答。
蘭丸の墓は浅草の"りゅうせんじ"だったかに移動したとのこと(お寺の方もうる覚え)。その"りゅうせんじ"もまだ浅草にあるかどうかわからないという。更にはあの辺のお寺は関東大震災で"カラスヤマ"に移ったりしているとのことで、そっちにいってるかもとのこと…。
もうここにはないのか、森蘭丸のお墓。なんかまた心が折れた。蘭丸の墓の由来も分からないと言われたので、あとはもう、自力で調べるしかない。
愛平さんと「悲しいね。」「ショックだね。」「泣きそうだね。」、と言いつつまた山手線で森忠政屋敷跡(東京駅)に帰る。
もう、こうなったら江戸城に愛と情熱のすべてをかけるしかない!
徳川家康の江戸城の天下普請には美作国主(津山城主)の森忠政も手伝いをさせられている。私は今日のために森家の刻印が遺る石垣のある場所を効率よく回れるようにちゃんと予習をして地図に書き込んできた。
※江戸城を見るにあたっての参考図書:『石垣が語る江戸城』同成社・『江戸城を歩く』祥伝社
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江戸城で確認された
ザ・森家の刻印。 |
やる気まんまんで江戸城へ向かう。森蘭丸のことが残念だったので、江戸城内で森家の刻印が刻まれた石を1個でも多く見つけてやるんだ!
東京駅からまっすぐ歩けば、桔梗門に皇宮警察(?)が立っている、さすがは江戸城。警察官に大手門へ行く道を尋ねる。
警官:「もう閉まってますよ。」
心の中で鑓がグサリと身体に突き刺さった。しかし、動揺は見せずに大手門へ行く道を尋ねる。ミラクルでまだ開いているかもしれないと大手門へ行けば門は閉ざされて本当に江戸城内に入れない。
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江戸城大手門
この門の先に私の行きたかっためくるめく森家
ワールドがあるのに…。 |
城内の森家情報を緻密に調べておきながら、基本的なことが抜けていた。開城時間があるなんて知らなかった……(最終入城は4:00)。頑張った予習も、中に入れなければ全く意味がない。時間外に入るには、もう、皇族になるしかないのか…。
夕方18:30には別の友達・介さんとも森忠政屋敷跡(東京駅)で合流する手筈になっていて、その時間まで江戸城に居座るつもりだったのに、これでは逆に時間が浮いた。
結局、近隣の森家史跡を見ようという事にして、急遽予定変更した。
江戸城近くの日比谷公園の中の日比谷公会堂そばの交番裏に烏帽子石というのがあるので、それを見に行くことにした。
森忠政の後を継いだ津山森家二代目の森長継に関係する石だ。
森長継は江戸城外堀の市ヶ谷見附の造営を仰せつかったが、その桝形は明治時代に壊されて今はなく、その時にこの桝形に使われていた烏帽子石も日比谷に移動させられた。
行き方帰り方も愛平さんにお任せモードで有楽町駅に行き、日比谷公園を歩けば、ここには烏帽子石だけでなく、不思議ストーンが点在していた(ケルト文字の石碑とか、両手で転がして運ぶくらいに巨大な石のお金とか)。
ようやく目にした烏帽子石。
ああ、今日の私が問題なく見れたのはここだけじゃないか。
蚊に刺されつついろんな角度からこの烏帽子石を撮影。
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日比谷公園の烏帽子石(表)
もとは市ヶ谷見附の桝形に使われた石だった。
市ヶ谷見附は森長継が徳川家に命じられて
造営。烏帽子石とは石の形状から。 |
日比谷公園の烏帽子石(裏)
もう暗いので高感度カメラで撮影しなくては
形状がわからない。 |
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日比谷公園の烏帽子石(横)
明治時代の道路拡張で市ヶ谷の石塁が
壊されたので、烏帽子石はここに持って
こられたとのこと(説明看板より) |
もはや丸投げ先とした愛平さんが「ギリギリ浜松町へ行けるかも知れません。」と連れて行ってくれた!JR中央線で浜松町駅下車。
赤穂藩時代の森家の上屋敷跡(お隣は縁戚の関家)は住所でいけば浜松町一丁目。
現在はビルビルビル!
※注:森家の移動 尾張蓮台→美濃金山→津山(江戸期)→赤穂(江戸期)
■goo!古地図『赤穂藩森家上屋敷』←クリック! |
『森越中守』『関但馬守』の名を探してください。 |
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浜松町1丁目
新見藩関家の屋敷跡付近(ビルの建っている
ところが)
しかも、デジカメ高感度モードで手ぶれ! |
浜松町1丁目
赤穂藩森家の屋敷跡付近(左側のビルの建っ
ているところが) |
手っ取り早く見てまた電車に乗って森忠政屋敷跡(JR東京駅)へ戻る。
「東京駅の着時間は6:30です。」とのことで、丸の内口で6:30に待ち合わせの介さん(たまたま今日は東京にいらした城スキー友達!)に「30秒遅れます!」ととりあえず連絡。今日は遅刻して皆にご迷惑をおかけしてばかりだ。
この後、介さんと合流しての飲みも楽しみながら、今日の森家史跡巡りは終了かと思うと、何とも言えない無念が漂う。今までの森家ストーキングツアーでは感じた事のない怒りや失望感。
足りない。森家が足りない。このままでは東京砂漠で心が遭難したまま、心が乾いて折れてしまう。
と、いうことで「東京駅周辺で飲も。」と提案した私が「みんな、市ヶ谷で飲も♪」と強要して提案してみる。でも市ヶ谷への行き方は分からないのでまた、愛平さんに丸投げだ。
何をどう乗り継いだか忘れつつJR市ヶ谷駅から出れば、そこはちょうど森長継(津山森家二代目)が造営した市ヶ谷見附の石垣があった場所。見附とは江戸城へ入る門があって、見張りが常在していたところらしい。その防御施設であった桝形門も、残念ながら明治に壊された。
しかし、駅を出てみれば思いがけずも橋のところに教育委員会の看板があって、そこには「森長継」の名が!!
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「市ヶ谷橋」案内看板
暗くて看板が読めない写らな
い〜!!! |
森家に飢えていた愛平さんと私にとっては「森」という字にもう何とも言えない喜び。もはや日も落ちて夜の暗闇の中でデジカメ撮影を試みればフラッシュが反射して自分がまぶしいステンレス製の説明看板。しかし、やっと出会った森家看板に果敢に立ち向かった。
更に交番裏に回れば、桝形の残骸か何か分からないけど石垣(市ヶ谷御門橋台の石垣石)があって、暗闇で撮影会となる。大阪城で森家の刻印を探してくれた介さんに「刻印探して」。なんか、○の刻印があった。○の刻印は確かに森家も使っているけど、他の大名も使っている。
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市ヶ谷御門橋台の石垣石
暗くてわかりずらいけど交番の後
ろの公園に少しだけ森長継の仕事
の残骸が。 |
しかし、さらにさらに!橋を渡って橋下の釣り堀(なんか熱帯魚も売ってる)に出れば、ちょうど橋のたもとの駐車場には、人知れず石垣の一部が残っているではないか!門は破壊されたけど、門に続く橋台が残っていたのだ。三人で石垣をなで回していたところ、森家の刻印発見!!Σ(゜□゜;
間違いない、これは森家の刻印だ!
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釣り堀脇に残る橋台の石垣
現代の橋の下には江戸時代の名残が。
刻印も(森家に限らず)わんさかあった。 |
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森家の刻印
津山城や大阪城でも見る森家の刻
印「かさね山(勝手に命名)」。
上の画像は山が斜めに傾いていま
す。 |
東京は完全に砂漠な訳でなかったのだ。こんな大都会の誰も気づかないような橋の下の一角に、森家の仕事が残っているのだ。もぅ、愛平さんと私は興奮して大騒ぎ。森家の石垣にでくわして介さんはどうして大騒ぎなさらずにいられるのだろう。
こんなサプライズがあるとは思わなかった。でも、今度は日中に見たい。
市ヶ谷見附の全体が見渡せるビル8階の居酒屋で三人で美味しい料理を食べつつ楽しく飲んだ。終わりよければすべてよし。
帰りはさらに、東京メトロ市谷駅構内の江戸歴史散歩コーナーへ寄った。
ここは九段下の石垣を移築再現してある上に、いろいろと江戸城築城工事の様子や市ヶ谷見附の発掘状況の説明などあってとっても楽しい。
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発掘された木枡・木樋(暗渠)
木枡を置き、それに木樋(木製の排水管)をつ
なげて暗渠としている。 |
発見された石組(暗渠)
竹を束ね、それを石で囲った構造の暗渠を
設置している。 |
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江戸歴史散歩コーナー
にあった市ヶ谷駅発掘調査の
写真
※画像の説明は写真に
加えられた説明のまま掲載。 |
発見された竹柵(土留め)
竹を束ねた暗渠を設置し、土手を補強するため
に竹と木杭を用いた竹柵(たけしがらみ・土留
め)を設けている。 |
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再び森忠政屋敷跡(JR東京駅)に戻って解散となる。
介さん、愛平さん、どうもありがとうございました。
そしてとうとう、私はこの大都会で一人になってしまった。
「一人で列車に乗って自力で中野のホテルに行く。」
という、今日の最後のひと仕事をやらねばならない。愛平さんに教わって「中央線に乗る。」ということだけは何度も何度も確認していたので、中央線に乗れさえすれば、それだけで、列車は私を中野駅に運んでくれるはずだ。
東京駅構内の数ある線の中から中央線を選りすぐって乗って、何とか中野駅に着いた。私一人でもできるじゃないか。
そしてホテルへ向かうが、歩いても歩いてもホテルがない。もしや五差路で入る道を間違ったのだろうか…もう夜の11時を過ぎてこれ以上道に迷っても心細いので、ホテルに電話して助けを求めた。
私:「すみません、中野駅からまっすぐ歩いてきて、途中の五差路で曲がってずいぶん歩いたおですが、ホテルがありません。ここは●丁目でコインパークの前にいるのですけど、このまま歩きつづけて大丈夫でしょうか。」
ホテルの人:「今、お客様が立っていらっしゃる道に中央線はございますか?」
私:「いや。もう中野駅からずいぶん歩いてきましたので。」
ホテルの人:「いえ、私がお尋ねしているのはお客様のいらっしゃる道に中央線はございますか?」
私:「いや、だからもう中野駅から離れています。」
( 噛み合わないやり取りを4ターンくらい繰り返し。「お客様は、コインパークに背を向けて立つという概念がおわかりですか?!」とまで言われる。 )
私:「いやでも、中野駅から大通りをまっすぐ歩いて進んできたので、(中央線の)線路なんてここにはないです!」
ホテルの人:「中央線とは、道路の真ん中に引かれている黄色い線のことです。中央線はございますか。」
私:「………………………………………あります。」
ホテルの人:「その道で正しいですよ。まっすぐ歩いてきてください。」
そうして道を教わり、ようやくホテルにたどり着き、「お疲れ様です。」で迎えられる。
東京は、やっぱり砂漠なのか。
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