中濃エリア
ホーム 史跡INDEX
森一族の領した金山もこの中濃に位置付けられ、活動の拠点であったこの中濃エリアには大小さまざまさ史跡がある。
可児市 美濃加茂市 加茂郡 御嵩町 関市
■ 武蔵ケ渕跡(下恵土)
むかしばなしの域になるが、森長可が『恵土の華』という酒を買いにくるスッポンを退治 したという伝説にちなみ『武蔵ケ渕』と名づけられた渕。 今はその渕はなく、水神様の小さな祠が、ここに水場があったと忍べるのみ。 《 みどころ 》 久々利にも『武蔵ケ渕』と呼ばれる場所を地元の方に教わったけど、 |
■ 真禅寺(西帷子)
古き創建のこの寺に、天正11(1583)年森長可が方丈を建立、寺領のほか、山を 寄付して菩提寺とした。天正11年6月22日に森長可が寺領安堵状を下している。 長久手の合戦で森長可が討死した際、家臣たちが長可の首を持ち帰り、この寺に埋葬 したという話が伝わる。 もとは境内の”観音洞”という所に埋葬されたが、天明年間に長可の墓土3尺を取って場 所を変えて境内の”若林”という場所に改葬し、その左右には家臣たちの墓が並べられた。 《 みどころ 》 本堂の裏手の山に長可を中心に、主従の墓がある。 |
■ 刎橋跡(土田)
戦国時代当時にはここは刎橋(はねばし)となっていて、必要時以外は網で橋を吊り上げて 通れないような橋になっていたらしい。 天正12(1584)年4月9日に長久手の合戦で森長可が討たれると、森家の家臣らはその首を守っ て郷里の金山を目指すものの、「刎橋」には土田城の生駒氏(長可のことが嫌い)の兵士がたむ ろして森家を待ち構えており、長可の首を守る家臣らは「あの橋が落とされたら終わりだ。」と、引 き返して帷子(かたびら)という場所に住みついたという。森長可の首は真禅寺に葬られた。 《 みどころ 》 土田城跡にも近い場所。その刎橋は現在、頑丈なコンクリ橋と化していた。 《 交通 》 名鉄「可児川駅」が最寄り駅。【地図】 |
■ 久々利城跡(久々利)
土岐悪五郎の居城。 土岐(久々利)氏は三代美濃守土岐頼康の弟・康定に始まるという。 戦国期の城主・土岐三河守悪五郎行春は、かつて、烏峰城(金山城の前身)・斉藤正義を この久々利城に招いて滅ぼしたという。 本能寺の変後、土岐悪五郎は長可に反旗を翻す。長可は弟の仙千代を人質に出して和解 を申しでた。悪五郎は長可に金山城に招かれて出かけたところ、長可に謀殺され、この城も 攻め滅ぼされた。 『森家先代実録』は、その後は”鴻野城”として、関小十郎右衛門共成の居城となったとする。 また、その話では関小十郎の戦死した後は、森忠政の命で林長兵衛為忠が管理したといい、 それが元で、関共成の長男・関武兵衛は森家を出て行ったという。 《 みどころ 》 本丸跡・堀切跡などの遺構が見事にキレイに残っている。 近所の可児郷土歴史館には土岐悪五郎の兜が展示してある。 また、本能寺の変で信長とともに戦死した”久々利亀”という子は、この悪五郎の子という (『新撰美濃志』)。 《 交通 》 久々利バス停より徒歩。可児郷土歴史館近く。 |
■ 久々利八幡神社(久々利)
この神社の創建年月は不明だが、本殿は9世紀から10世紀には創建されていた推察される とのこと(由緒史)。 昔、この久々利八幡に「鵜の丸」という名剣が収めてあったが、土岐悪五郎がこれを持ち出し、 後に織田信長の手を介して、森家がこれを所持したという。 しかし、森忠政の代に鵜の丸が原因とされる金山城に怪異が起こった為、鵜の丸は伊勢神宮 に奉納された。(『森家先代実録』) 《 みどころ 》 由緒史によれば、境内には昔、久々利城主土岐家を祀った「土岐五郎社」も 《 交通 》久々利バス停より徒歩。久々利城跡そば。 |
■小山観音(美濃加茂市下米田町小山)
飛騨川の川中に、木曽義仲が建てたという謂れを持つ観音堂がある。 森長可が加治田城攻めの際に敵から矢を射かけられながらも平然とお参りして、敵ばかり でなく味方も驚かせたというお寺で、現在は橋でわたる。 《 みどころ 》 もともとは陸続きだったが、下流の今渡ダム建設のために昭和13年、参詣橋が 《 交通 》 名鉄広見線日本ライン今渡駅から15分 |
■ 馬串山砦(下米田町則光)
『兼山記』によれば、米田城主・肥田氏の領内にあったこの山を森長可が”下屋敷を造りたいから よこせ”と言いはじめ、これを肥田氏が断ったために、争いの発端となったという。 肥田氏を追い出した後に、長可は加治田城主・斎藤利尭らの篭もる牛ケ鼻砦を攻めるためにこの 山に砦を築いた。東濃地方をほぼ平定してからは、この砦の役割は終わったと考えられる。 《 みどころ 》 地元の話ではマムシが多くでるので「マムシ山」と呼ばれる。 |
■ 諏訪神社(下米田町山本)
延喜5年(905)の創建当時は中山社といわれていたが火災で焼失、永禄12(1569)年に 米田城主・肥田玄蓄の子・長寿丸と神主・山田左近右衛門が再建した折、信州より諏訪 明神を迎えた。諏訪明神は米田城主・肥田一族の守り神。 肥田玄蕃助軌休より4代前は木曽義仲に仕え、本当の姓は諏訪氏であり、諏訪大明神 に仕える家柄だったことによる。 森長可は米田城を攻める際、この神社に軍を登らせた。 《 みどころ 》 特に戦国時代のその事を彷彿させるものはないが、手水のところには可愛 |
■ 米田城跡(加茂郡川辺町福島)
肥田玄蕃助軌休の城。『森家先代実録』によれば、天正10年6月22日、森長可 に攻め込まれる。 長可が一計を案じ、蘭丸ら弟達の葬儀にかこつけて、足軽らを葬儀の見物人にしたて、 また弔いの行列を軍勢としてそのまま木曽川を渡り、米田城を襲わせた。 肥田玄蕃は城を捨て、加治田城に逃げた。 《 みどころ 》 『新撰美濃』によれば、城跡は山の麓にあり、現在愛宕社のある山頂 |
■ 竜洞寺(加茂郡川辺町比久見)
米田城主肥田玄蓄介の祖父・義甫が天文年間に草創した臨済宗寺院。 肥田一族は美濃守護職土岐家の出身で米田一円三千貫を領地としていたが 天正10年に森長可の攻撃にあい、加治田城に逃げる。 子孫は徳川家に仕えた。 肥田一族の菩提塔・位牌・遺物などが残る。 《 みどころ 》 境内には肥田一族の供養塔がある。 |
■ 上恵土城跡(本郷地区)
長谷川五郎右衛門が城主であったが、本能寺の変に際して大森城主の奥村又八郎と 談合して森長可を討とうと計り、逆にそれを察知した長可に攻め込まれた。天正10年6月 26日に落城。 《 みどころ 》 今は城として見るべき遺構がないが、現在の小字「大屋敷」「小屋敷」「出口」 《 交通 》 御嵩から旧21号線を可児市方面へ進み、バイパスと合流する交差点を |
■ 願興寺
平安時代初期815年に創建された天台宗寺院。 2度の火災の難を逃れた薬師如来をはじめとする仏像など、貴重な仏像がある。 24体の仏像が国指定重要文化財となっている。 『金山記全集大成』の話では、本能寺の変の報を受け、川中島より帰って来た長 可らが金山城へ戻る途中、最後の休息をとった寺として登場し、住職の寺院復興の 話に感じ入った長可がお布施を進上している。 《 みどころ 》 天正17年には森忠政が米十八石と金銭を寄進し、寺領を安堵している。 《 交通 》 名鉄広見線「御嵩駅」下車すぐ |
■ 愚渓寺
室町初期に創建された寺だが、江戸後期に現在地に移築された。 この寺院の見事な石庭は京都竜安寺の前進と言われている。 《 みどころ 》 天正12年9月に森忠政が禁制を下している。 《 交通 》名鉄広見線「御嵩駅」下車後 徒歩 |
■ 関城跡
安桜山城。永録の初めには、斎藤道三の親族と思われる長井隼人佐道利が城主となっていた。 永録8(1565)年、織田信長が美濃に進出してくると、長井隼人は堂洞城主・岸勘解由と、加治田 城主・斎藤紀伊守とともに同盟を結んで信長に対抗するが、加治田城の裏切りにも遭い、9月1日の 織田信長の攻撃により遂に落城し、長井隼人はこの地を退くこととなる。 《 みどころ 》 安桜山というのが関城跡。森可成が織田信長に仕える以前は長井隼人に仕えてい |
■ 十六所山砦跡(関市十六所)
じゅうろくせんやまとりで。『新撰美濃志』で森長可の砦として登場する。天正10年に築いたとされる。 長可が中濃進出、または織田信孝の岐阜城を牽制するための拠点としたか、その理由などの詳細は不明。 文献などを見れば、関城ありし頃より存在しているようにも思える、斎藤側の砦として活用されていたかも? 《 みどころ 》 現在、麓には白山神社があり、砦の主郭であったと思われる山頂には祠がある。山頂は平面が 《 交通 》 「関自動車学校」の奥の山に「白山神社」がある。この白山神社への登り口は公道に接してなく、 |
■ 武芸八幡宮(関市武芸川町八幡 )
養老元(717)年に泰澄大師が大確命を祀ったのがはじまりという古い寺社だが、現在は応神天皇をご祭神としている。 観応2(1351)年に森蘭丸の先祖にあたる森又太郎泰朝が社殿を再興したといい(パンフ情報)、その本殿が今も残る。 《 みどころ 》 織田家の保護を受け、信長・信忠・信孝の安堵状のほか、坂井政尚・森可成の連署書状も残る。 でも、神社は普段は無人らしく、ご朱印もいただけず、また森可成の書状がどこに保存されているか確認できずじまい。 神社に置いてあるパンフ(無料)には、森可成の書状写真も掲載してある。 石に「下馬」と彫られた下馬標は社伝では1570年ごろに織田信長が建立したと伝えられる(パンフ情報)。 《 交通 》 車で行ったのでよくわかりません。 |
追加予定史跡:下麻生城跡、加治田城跡、堂洞城跡、大森城跡 、牛ケ鼻砦、今城、室原城、野原城、御嵩城(権現山城)、御嵩城(本陣山城)