岡山県津山市 2    → 3


                                     
津山は森家のおひざもとで史跡がありすぎて大変なので森忠政関係にしぼって掲載しています。              
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 徳守神社

津山城の築城に先んじて津山の総鎮守として森忠政によって慶長9年(1604年)に現在の場所に建立された。現在の本殿は寛文4年(1664年)に森長継によって再建されたもの。軒まわりの装飾が実に見事。
森忠政が大阪の陣で使用したという鉄盾(非公開)がある。

《 みどころ 》
神門の奥に森家家老・原十兵衛の側室のお花を祀る「お花善神社」がある。

《 交通 》JR津山駅から徒歩15分。


■ 鶴山八幡宮

15世紀に鶴山に城を築いた山名忠政が城の鎮守・源氏の氏神として勧進した。(ちなみに、森忠政の前世はこの山名忠政らしい。)
もとは鶴山にあったこの八幡宮を、津山城築城のため忠政が城南の覗山に遷宮したが、忠政の夢枕に再三神が立って、お告げにより慶長13年(1608年)に現在の場所に移動した。(関連事項:
忠政逸話「鶴山八幡宮ストーリー」)現在の本殿は森長継が再建したもの。

《 みどころ 》境内には16世紀末に建てられた薬祖神社がある。

《 交通 》JR津山駅から中鉄バス一宮方面行きで八子下車。


 中山神社

707年の創建。本殿は他に例がない造りで、「中山造り」と呼ばれている。

《 みどころ 》
津山城二の丸の四脚門が神門となっている。
神門を入ると、寛永八年に森長継が奉納した灯篭が二基ある。

《 交通 》R津山駅から西田辺行きバスで中山神社下車

 


 大隅神社(上之町) 

津山城の東北の守護神として忠政によって元和2年(1620年)に現在地に移された。
現在の本殿は森長成が建立したもの。

《 みどころ 》
神門はもと津山城にあった修道館の門。

《 交通 》


 瓦粘土採掘場跡(林田町)

 森家の御用瓦師の赤染部家(代々「喜七」を名乗る)が津山城の瓦を作るのに粘土を
採掘した場所。
なお、瓦製作の工場は徳守神社の近くにあった。

《 みどころ 》
 本来のこの土地の高さは右手に見えるコンクリの囲いのブロック部分まであったが
粘土採掘のために土を掘りまくって、低くなってしまった。
なおコンクリの囲いの中は墓所で、墓だけは避けて土を掘ったために、墓所だけが昔の
ままの土地の高さで残っている。
 近郊には、蓮光寺という赤染部家の菩提寺に墓がある。

《 交通 》

 


 玉琳塚(玉琳町)

森忠政が津山城を築城している時に、色々と異変が起きた。
それをお告げを以って助けたのが、河内玉琳という修験者だといい、その彼の塚が
畳敷きの小屋の奥にある。

《 みどころ 》
画像に見える建物の中に玉琳塚がある。画像手前にある墓も時代の古いものだという。

《 交通 》JR津山駅より中鉄バスセンターごんごバス乗車で約20分「玉琳」下車


 石山寺

津山城築城の際の石切場となった石山の山頂にある。
森忠政が本尊とした三面六臂の摩利四天尊(秘仏)が祀られている。

《 みどころ 》
境内の随所に見られる津山城石切場跡は、当時の石の切り出しの様子が生々しくわかる。
また、休憩室には石曳き再現のかわいい人形ジオラマがある。

《 交通 》JR津山駅から徒歩15分。


 構城跡(院庄)

 かまえじょう。森忠政が津山城に移るまで居を構えていた院庄の地が築城候補地だったが
(実際には最初からここに築城するつもりは無かったとの説もある)、森家家臣井戸宇右衛門
と名古屋九右衛門(名古屋山三郎)の刃傷事件が起きた為にここには築城されなかった。

《 みどころ 》
 今はのどかな畑の風景が広がり、そこに2つの石碑が建つのみ。
 2007年より発掘調査が行われている。

『森家先代実録』による院庄の古城規模
(cm)は森家の縮尺で管理人が計算し直したもの
慶長8年3月26日:(前文略)
苫西郡"院の庄村"の古城の跡は平城で本丸は50間(9,850cm)四方。
東堀は南北へ伸び、長さ38間(7,486cm)、横幅9間(1,773cm)。
西堀は南北へ68間(13,396cm)堀幅は13間(2,561cm)。
南堀は長さ54間(10,638cm)、幅12間(2,364cm)。
北堀は長さ38間(7,486cm)、幅8間(1,576cm)。

《 交通 》 JR院庄駅(車で行ったので詳細不明)


 にらみあいの松(院庄)

 院庄で森家家臣の井戸宇右衛門と名古屋九右衛門(名古屋山三郎)の刃傷事件が起きた。二人の
遺体は向い合わせに殺害現場に葬られ、双方の墓標に松が植えられ、一方の松が栄えると、もう一
方の松が衰えるという事をくり返したので”にらみ合いの松”と呼ばれる。

《 みどころ 》 今は2本の松は4代目。北を名古屋塚、南を井戸塚という。
          公園内の遊具に囲まれている。
          道がわかりにくいので、注意。 

《 交通 》 JR院庄駅(車で行ったので詳細不明)


 森忠政本陣跡および森忠広生誕地(院庄)

 森忠政が津山城へ移るまで居を構えていた場所。
 忠政はこの場所(院庄古城)に屋敷を造営をさせ一年ばかりここに住んでいた。
この頃までは、諸大名の奥方は国元住まいだったので、忠政の奥方も一緒にここで暮らして次男・
忠広を生んだ(『森家先代実録』)。


《 みどころ 》 院庄382番地にある。石碑があるのは道路沿いではなく、田んぼと民家に挟まれた
場所なので(画像の屋敷も民家)、注意しないと石碑の場所は判らない。
石碑には「慶長八年三月 森忠政本陣之跡・ 慶長九年八月 森右近大夫忠廣誕生之地」と刻まれ
ている。

《 交通 》 JR院庄駅(車で行ったので詳細不明)


 福力荒神社

 応永10年(1403年)の創建とされ、祭神はスサノオノミコト。
 慶応15(1610)年に森忠政の娘が安産祈願をし、無事出産できたため2反8畝歩の田を寄贈した
ことから安産の神様として尊ばれ、また天和3年9月に忠政の家臣・山口彦左衛門がマムシに噛ま
れた際に祈念して平癒したので名刀を奉納したため、「マムシ除けの神様」としてあがめられるよう
になった。

《 みどころ 》
 とても小さな神社であるけれど、安産とまむし除けのご利益のルーツが森家に関わるところがとても
 興味深い。
 毎年旧正月の三がにちには大祭があり、12万人を超える参拝客で賑わいを見せる。

《 交通 》JR美作大崎駅


 誕生寺(久米南町)

 建久4年(1193年)に法然上人が誕生した生家跡に建立された浄土宗のお寺。弟子の熊谷次郎直実が
館跡を寺院とした。後年、森家の菩提寺となる。森忠政の嫡男・森重政が病になった時に療養(後、苫
田郡真経村へ)した場所でもある。

《 みどころ 》
法然上人父母の墓近くに、26歳で亡くなった森忠政の長男・重政と、忠政の養母の大野木殿の墓がある。
忠政が、大野木殿のために建立した生光院御霊屋には、大野木殿が生前崇拝した弥陀如来立像と、
位牌が安置されているが、現在は観音堂と転用されている。宝物には、森忠政の黒印書状などがある。

森重政ご位牌:「捐館 瑞應院殿前光禄桂林俊芳大禅定門」
大野木殿ご位牌:「「生光院殿心譽祖榮大禅定尼」」

《 交通 》JR津山線誕生寺駅から徒歩15分。

《 その他画像 》 誕生寺観音堂 大野木殿と重政の墓 森重政(忠政長男)のご位牌 
           
大野木殿(忠政養母)のご位牌


 本山寺(久米郡)

 大宝元年(701)年創建の天台宗の名刹。
森忠政が津山城を築城の際の地鎮祭の導師をこの寺の住職がつとめた。
津山藩の期願所としても尊ばれ、天台宗の触れ頭であった。
森長継がこの寺に三重塔と徳川家光の霊廟を建てた。

《 みどころ 》 山門をくぐると、石垣積みの本堂が迫り、タイムトリップした風情。
名刹にふさわしい建築がいくつもある。三重塔と家光の霊廟は1652年に
完成した。この本山寺は、法然上人の父母が参拝祈願した場所でもある。


 清水寺(落合町)

せいすいじ。天平8年(736年)創建の真言宗寺院。「夜鳴きの鐘」や森忠政書状がある。

《 みどころ 》「夜鳴きの鐘」:慶長12年(1607年)、仏具とともに土中へ埋められていたこの寺の鐘を、
森忠政が召し上げて城内の時報の鐘として使っていた。やがて使われなくなって放置されていたところ、
家老の関成次の夢枕に白髪の老人が立って鐘を返してくれと頼んだため、もとあったこの寺に返され
たという。

《 交通 》JR姫新線月田駅からタクシーで10分。


つづきは3


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