東京都


  徳川家康が江戸に幕府を開いてより、いや、江戸城築城そのものの時代より、森家にとってもゆかりの地となる。
特に森忠政時代には、息子の忠広の妻を徳川家(前田家より養女)より迎える厚待遇を受け、江戸城とは至近距離に森家の屋敷跡があった。
(※このページへの掲載分は一応、森忠政分の時代までにとどめました。津山・森家関係や、赤穂藩森家関係などなど、森家に関するものは大量にあります。)





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■ 森忠政屋敷跡

 『武州豊嶋郡江戸庄図』という、寛永9年の江戸を描く絵図にある
・「森美作」
屋敷(森忠政)、
・「森右近」
屋敷(忠政の息子・森忠広)
・「美作下やしき」
の敷地を現在の地図と重ね合わせたところ、今はこのJR東京駅(丸の内1丁目)になってしま
った訳です。
く…。
 森美作守忠政屋敷跡敷地←クリック!
江戸城下の「森美作」屋敷、「森右近」屋敷、「美作
下やしき」
の敷地を現在の地図と重ね合わせてみま
した。
参考『武州豊嶋郡江戸庄図』。

《 みどころ 》 石碑や遺構などの類はないようで、「嗚呼、ここがそうだったのか…。と想像力を
         フル活用させて浸るしか、もうどうしようもない
        ちなみに、津山城から出てきた瓦と同じ成分の「作州瓦」が東京駅前の工事の
         際に発見されましたが、これは津山藩松平家の屋敷に由来するものだそうで、
         残念。


《 交通 》 JR東京駅 徒歩0秒


■ 江戸城

 徳川家康が大名に命じて築城させた江戸城。
管理人、せっかく行ったのに城内に入れず(再チャレンジが成功してから詳細紹介します。)
開城時間にご注意!!
江戸城で確認された
ザ・森家の刻印。

《 みどころ 》 徳川家による慶長期の江戸城修築には、森忠政も手伝いを命じられた。
 慶長10年10月に石船調達の助役を命じられたことにはじまり、慶長19年には、石材を主に伊豆
より切り出し、江戸城現場の石垣工事を手伝った。途中に大坂の陣を挟んだり、また江戸城の石
垣工事中に隣の浅野長晟の丁場の石垣が崩壊して迷惑を蒙るようなこともあり、大変だったようだ。
 江戸城内の石垣には各所に森家の刻印が遺っている。


江戸城を見るにあたっての参考図書:『石垣が語る江戸城』同成社/『江戸城を歩く』祥伝社

《 交通 》 JR東京駅下車 徒歩15分


■ 南泉寺 

詳細不明ですが、森蘭丸の墓があった(過去形)そうです。
(典拠:南泉寺
ここの「1」に「横山大観・森蘭丸の墓がある。」と、書いてたから行ったのですが!)
もともと、江戸時代以降の森家の菩提寺の一つではあります。

《 みどころ 》墓の詳細も不明で移転したと言われショック状態。谷中史跡散歩サイトさんにも
        連絡つかないし…情報求む!!(涙)
 
        ※ちなみに、お寺の方のお話では蘭丸の墓は浅草の"りゅうせんじ"だったかに移動したとのこと
           (お寺の方もうる覚え)。その"りゅうせんじ"もまだ浅草にあるかどうかわからないという。
           更にはあの辺のお寺は関東大震災で"カラスヤマ"に移ったりしているとのことで、そっちにいっ
           てるかもとのこと…。

         →いただいた情報によると、南泉寺のお墓は浅草の金龍寺(東京都台東区寿2丁目10−4)
          に移転したそうです。(※管理人未確認)
          この南泉寺はもともと旗本森家(森可政の子孫の家系)・森重政の菩提寺でした。
          その後、森正重の時代以降には金龍寺も旗本森家の菩提寺になります。
          どうやらご子孫は南泉寺にあったお墓などを金龍寺がわに移して菩提寺を一カ所に
          してしまったものと推測されます。

《 交通 》JR山手線「西日暮里」下車 徒歩15分くらい


とりあえず、ここに忠政以外の江戸の史跡をちょこっと書いております。江戸旅行記(中途半端編)



つづく…

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