大阪府


永禄12年1月、信長が和泉国・堺を接収した時、その上使を勤めたひとりは、森可成であった。
この時、森可成は堺において豪商・津田宗及主催の大茶会にも参加している。
蘭丸が使者として足を運んだ天野山金剛寺も、
妙向尼と森蘭丸がその身を挺して戦争を終結に持ちこんだ因縁の石山本願寺跡も大阪にある。
後の大阪城普請には森忠政も関わり、後に大阪の冬の陣では徳川側の武将として天満橋近くに布陣している。  

   ホーム  史跡INDEX



より大きな地図で 【新・森家史跡めぐり】大阪府 を表示


■ 大阪城(大坂城)(大阪市中央区)

言わずと知れた、秀吉の城。1583年(天正11年)に石山本願寺跡に築城を開始し、三年の歳月で
完成をみた。森忠政やその息・忠広も、大阪城築城に携わっている。
大阪城で確認された
ザ・森家の刻印。
大阪城 たのしい森家丁場めぐり。

大きな地図で見る
google mapに森家の丁場とその画像を入れてみました。
石垣沿いのライン(赤・黄)やポインターをクリックすると管理人撮影の画像を
含むしょーもない解説文を見ることができます。
でも、この画面上の操作ではいじくりにくいので「大きな地図で見る」で別
画面にしてご覧ください。

《 みどころ 》大阪城公園内にある「竜造寺12ゾーン」で、森家の刻印が入った石が見られる。
城内は必見資料が満載。信長が蘭丸のことを記した「
吉田兼見宛書状」、森長可の登場する「長久
手合戦図屏風」
なども所蔵。でも常設展示ではないのでご注意を。

役立ち文献:『大坂城の謎』村川行弘(学生社)/『大坂城普請丁場割之図』(大阪城天守閣

《 交通 》JR大坂環状線大坂城公園駅下車


■ 石山本願寺推定地(大阪城内)

石山(俗称)(現大阪城内)に建立された浄土真宗の有名寺院跡。
信長と長きに渡り対立した寺で知られる。大砲なども備えつけられた寺だったという。
石山本願寺は(1580年)天正8年に焼亡、後に東西にわかれて京都に西本願寺と東本願寺が
再建立される。もと石山本願寺には豊臣秀吉により大坂城が建てられた。
「石山本願寺推定地」の碑が大阪城内の修道館そばに建てられている。

《 みどころ 》 蘭丸の母・妙向尼は、信長と石山本願寺の和睦に奔走したことで知られる。結果、
時の法主の顕如はこの地を退出した。

《 交通 》JR大坂環状線大坂城公園駅下車


 

■ 天野山金剛寺(河内長野市)

空海が密教の修行を積んだという言い伝えがあり、庭園が見事。蘭丸が信長の命を受けて使者
として足を運んだ寺。
信長や蘭丸は、金剛寺で醸造された銘酒「天野酒(あまのざけ)」をこの寺よりもらっている。
境内には宝物館がある。

《 みどころ 》蘭丸の副状(そえじょう)や、蘭丸のことを書かれた信長の黒印状など(常設展示で
はない)も残されている。(※
書状の内容)。境内には宝物館がある。

《 交通 》河内長野駅よりバス。天野山下車すぐ

 


■ 西條合資会社(河内長野市)

僧房酒 信長や蘭丸も賞味した、天野山金剛寺醸造の僧房酒。
どぶろくが普通だった時代に、木灰を加えずに段掛法いう手法で清澄していた。
現在は西條合資会社さまがその製法を引き継いで『天野酒 僧房酒』を販売している。

《 みどころ 》僧房酒がいつもあるとは限らないようです。ご確認の上おでかけください。
『天野酒』サイト様(外部リンク)

《 交通 》河内長野駅前


■ 南蛮文化館(大阪市北区)

キリシタン関係遺品、南蛮美術品などを展示.。

《 みどころ 》細川忠興が森忠政の津山城築城の際にプレゼントした朝顔の半鐘が展示
されている。
5月、11月指定日のみの開館なので(2013年12月現在)要事前確認。

《 交通 》大阪市北区中津6-2-18  06-451-0088/0232


■ 妙国寺(堺市)

織田信長がこの妙国寺にある蘇鉄の木を安土城に移植した。しかし信長、誰かが「堺へ帰ろう」と
泣いているのを聴いて蘭丸に相談したところ、蘭丸はその声の主が蘇鉄であることを確認。
それで信長はこの木を切ろうとしたがその霊力にかなわず、妙国寺に返した。
(※
くわしい逸話「蘇鉄ちゃん」

《 みどころ 》 蘭丸が泣き声を聞いた蘇鉄は今も健在、国之天然記念物となっている。宝物館には
幕末の堺事件関係の宝物に加え、『信長公寄進の不思議なあわび貝(日蓮宗の題目の文字が自然
に貝殻に浮かび上がったもの)』がある。

《 交通 》阪堺線妙国寺前駅徒歩5分


■ 今西氏屋敷(大阪府豊中市浜1丁目)

 今西家は中世より春日大社南郷目代を勤めた名家で、領主のような存在となっていた。
森家ともつながりがある。
かつては二町四方の二重の堀の中に屋敷があった(現在は、内堀で囲まれた部分が屋敷地)。
ちなみに屋敷には現在も今西さんがお住まいなので、一般公開の時以外は中に入る事は
できない。建物は江戸中期のもの。通りにある表門のみ見学できる。

《 みどころ 》 
今西氏社家三十六代・今西春房と明智光秀の娘との間に生まれた大蔵姫は中川家の
養女として森忠政に嫁ぎ、更に大蔵姫の弟・今西宗英、道春をはじめとする一族が森忠政に仕えて
いる。
 また、系図によれば、今西氏社家34世・今西春一の妻が「森武蔵守之女」となっているも、同系図
に天文13(1544)年卒とあり、森長可すら生まれていない年に亡くなったことになっているので長可の
娘が嫁ぐのは無理(では、森武蔵守の女って誰なのでしょうね…)。
今西家には、大蔵姫の肖像画や家系図をはじめ、多くの古文書が残っている。
【関係書籍】
「豊中市文化財調査報告書 第57集 春日大社南郷目代今西氏屋敷」(税込価格850円)
「春日大社南郷目代 今西家文書」(税込価格10,900円)

《 交通 》 阪急電車宝塚線 服部駅徒歩25分くらいだったような。


■ 松林寺(大阪府豊中市浜2丁目)

 今西氏の菩提寺。天正10(1582)年に今西春房が小庵を結んだのが始まり。
森忠政の元に嫁いで元和9(1623)年に津山で亡くなった春房の娘・大蔵姫(福寿院)が、遺言によって
このお寺に葬られた。

《 みどころ 》 境内裏には、大蔵姫の五輪塔をはじめ、今西氏代々の墓が並ぶ。
大蔵姫の五輪塔が最大のもので、二重の大きな花崗岩の基盤の上に墓がある。
説明板によれば、今西道春や今西春一の墓もあるようだけど、敷地の囲いの中まで入ることができず、
どれだか判らなかった。

《 交通 》 阪急電車宝塚線 服部駅徒歩15分


■ 芥川山城跡(高槻市大字原)

 16世紀初めの管領・細川氏の築城とされる。
天文11(1553)年、阿波より上洛した三好長慶は細川氏を追放してこの芥川(山)城に入った。
 
 永録11(1568)年に信長が摂津に侵攻した時、時の芥川山城主は三好長逸であったが、あっさりと退城。
信長はしばらくここを本陣とし、その後、和田惟政を入城させるも、惟政は翌年には高槻城へ移り、芥川
山城は廃城となった。この信長の摂津侵攻には森可成も従軍していた。

《 みどころ 》 塚脇のバス停には、詳しい説明の看板と三好長慶のベンチがありました。妙力寺や黄金の里
(老人ホーム)のある道路をずっと登って登山口(矢印看板あり)にいたります。私が行った時には、山中もきれ
いに手入れされていて各所の遺構もはっきりとわかりました。とても規模の大きな城です。
『高槻市文化財年報:芥川山城跡の構造について』の縄張図を参照してから登りました。
ちなみに、芥川山城攻めにおいては、信長は高槻の「天神の馬場」に陣を敷きました(JR高槻駅もその一部だ
そう)。

《 交通 》 JR高槻駅北口よりバス塚脇行き「塚脇下車」より山頂まで約30分


■ 池田城跡(池田市城山町)

 国人・池田氏の代々の居城。
 永録11(1568)年、信長が摂津に侵攻した時、時の城主・池田勝正は抗戦するも、城下を焼き打ちされて
降伏する。この信長の摂津侵攻には森可成も行動をともにしていた。
 時は下って天正6(1578)年、荒木村重の籠城する有岡城を攻めるため、信長は「古池田」に陣を敷いてい
るが、それは廃城になっていた池田城を利用したものと推定されている。
 翌年に信長は再び「古池田」に来るが、途中・森蘭丸が信長の命で摂津の塩河氏の元へ使いに出ている
ため蘭丸も信長に同行していたものと思われる。
また、信長は池田の地で馬廻り衆や小姓衆とともに「御狂」というスポーツに興じている。

《 みどころ 》 現在ここは池田城跡公園となって、城らしき形状のかっこいい休憩所も建っている。当時の
遺構は、建物礎石を含めていくつか城内にも見受けられる。また、敷地内の勤労者センターには発掘品や
資料が展示してある。売店には、「池田城せんべい」があった。
 永録11年に信長が池田城を落そうとした時、五月山の中腹に本陣を置いたと伝承されているが、その五
月山も池田城跡よりはっきりと眺めることができる。また、五月山の麓には池田家菩提寺・大広寺がある。

《 交通 》 阪急電車池田駅下車後徒歩20分くらい


 ホーム  史跡INDEX