犬山市内(犬山・小牧・羽黒・楽田)史跡


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小牧長久手の合戦の歴史舞台にも犬山。森蘭丸や森長可もかつてこの地を訪れた。
犬山には、今なお「金山越し」の謎が残る犬山城や、森兄弟の咽を潤した銀明水など、森家の関わる史跡もあり、森家以外にも有楽苑など有名な見所が多い。
犬山市羽黒には、森長可が敗北を喫した羽黒古戦場跡があり、その周辺に、羽黒城跡・摺墨塚などの古い史跡もある。

犬山 小牧 羽黒 楽田 


犬山

■ 犬山城

天文6年(1537年)、織田信長の叔父・信康がこの場所に犬山城を築いたとされる。
天正12年(1584年)3月、小牧長久手の戦いの際には池田恒興と森長可が織田信雄
支配のこの犬山城を奪取し、豊臣秀吉への手土産にした。
今のこの天守は関ケ原の合戦以降に建てられたが、金山城の廃材が使われた説のある国宝の城。
別名「白帝城」!慶長5年(1600年)金山城主森忠政が信州川中島に国替えになり、
金山城は犬山城主石川備前守光吉に与えられた。森家の金山城は解体され、その古材を
木曽川からいかだに組んで犬山に運び犬山城の建築に充てられたといい、これを「金山越し」
という。

《 みどころ 》 金山城にあった柱がこれだろうかと、想像しつつ見学すると感動もひとしお。
          城内の展示の成瀬家『小牧長久手合戦図屏風』の森長可の美しい若武者姿(でも
          眉間に被弾)にも注目。

《 交通 》名鉄犬山線犬山駅か犬山遊園下車 


■ 奥村邸

天正10年(1582年)3月、信長が武田攻めの際に立ち寄り、喉を潤した名水(銀明水)が
いただける。また、天正12年3月、森長可が小牧長久手の戦へ赴く途中にここへ立ち寄り、
この銀明水を味わった。ここには金山城出土の茶碗も展示されている。

《 みどころ 》  今はフレンチ創作料理の店になっている。銀明水の頭上には、織田信長と
          森蘭丸と伊藤蘭丸3人の絵馬も飾ってあった。


《 交通 》 名鉄犬山線犬山駅か犬山遊園下車


■ 瑞泉寺

 お寺は15世紀創建の臨済宗妙心寺派の古刹。
金山城大手門は慶長5年(1600年)に犬山に移築され、犬山城の内田御門に使用されたが、後に
この瑞泉寺に移され山門となったという。現在の山門は建て直されている。
しかし、本堂の高台にある門は、金山城の城門だったといい、今もここに残る。
(※諸説あり)
棧瓦葺。切妻造。このお寺には左甚五郎作の猿の彫刻がある。
織田信長朱印状を初めとするご寺宝も数多く、犬山市文化史料館に展示してある。

《 みどころ 》 元金山城に立っていた門はかなり感動を誘う。階段の下方には、線路が
          走っている。


 《 交通 》 名鉄犬山遊園地下車
    


■ 徳授寺

 小牧長久手において秀吉軍が所々に砦を築いた時、池田や森らも所々に陣屋を作った。
その時、この寺の本堂や庫裏が陣屋建設の資材として徴発されて、森長可の布
陣した青塚古墳の陣屋として活用された。
 後で必ず寺を再建するという約束があったというが、長久手において長可も戦死して
しまったので反故となり、一時期、寺は荒廃してしまったという。

《 みどころ 》 今は新しく立派な本堂となっている。  

《 交通 》 名鉄犬山線犬山駅か犬山口駅下車


小牧

■ 小牧城(堀の内)

 永禄6(1563)年に天下統一を目指す織田信長が築城した城。天正12(1584)年の小牧・
長久手の戦いの折には徳川家康が
この城跡を改修し、陣城を築いた。
建物は昭和
42に造られたものだが、麓には、昔の土塁や曲輪がきれいに保存されている。

《 みどころ 》 城の建物の中は小牧市歴史館になっており、小牧長久手の戦い関係のビデオ
          やジオラマ・史跡紹介などがある。小松寺にあてた森長可の軍陣制札の複製
          も展示されている。
         開館時間(9:00-16:30)と休館日(木曜日)に注意。
                    

                       


■ 小松寺(小松寺)

 天平勝宝年間(749〜757)年の創建。
小牧・長久手合戦の折には豊臣方の陣地となり、小松寺山には砦が築かれ、
三好秀次・丹羽長秀らが守備した。当時は東西2つの砦があったという。
軍が引き上げる際に火を放ったため、寺も焼失した(のち再建)。

森長可・池田恒興がこの小松寺に
軍陣制札を充てている。

《 みどころ 》 小松寺の隣の敷地に小松神社があり、
          そこに小松寺砦跡の説明看板がある。
 
                       

 


羽黒

■ 羽黒古戦場跡

天正12年(1584年)3月、長可は羽黒の八幡林に3千の兵を引き連れ陣をしいたが、
これを察知した敵将家康が酒井忠次をはじめとする大軍を急派した。
長可はこの戦いで惨敗を喫し負傷。野呂助左衛門父子を初めとする多くの家臣も討
死にした。

《 みどころ 》 住宅街の一角に八幡林の名残が少し残っているが、この周辺が森軍と徳川軍の
          激戦地であった。
                    

《 交通 》 名鉄小牧線羽黒駅
                       


■ 野呂塚

この羽黒の合戦の敗走時に敵の呼びとめにとって返し、壮絶な最期を飾った長可の家臣・
野呂助左衛門の墓がある。その子、助三郎も父の死を知りひき返して戦い、この地で果てた。
横には子孫の建てた一枚岩の巨大な顕彰碑(画像)があり、人目をひく。



《 みどころ 》 野呂父子の墓は野呂塚と呼ばれ、尚武の神と崇められた。

《 交通 》
 名鉄小牧線羽黒駅

楽田

■ 大縣神社

おおあがた神社。古来より朝廷をはじめ、崇敬厚く、尾張二ノ宮神社と位置付けられてきた。
天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は小牧城に、豊臣秀吉は楽田城に
陣を敷いたが、豊臣方に加担していた森長可は、楽田城に近いこの大
縣神社に陣を張ろうとした。
しかし、聖域に軍を入れることを許さない神主とケンカになったという。
この神社の神の化身のヘビが長可の前に現れたという逸話も残る(いつわ「ごっくん」を参照)。


《 みどころ 》 本殿の右横奥のご神木に、ヘビが住むという言い伝えが残っている。
          また、奥には摂社・姫之宮があり、ご祭神の玉比売(たまひめ)命・倉稲魂(うが
          のみたま)神は、女性の守護神として篤い信仰がある。


《 交通 》
 名鉄小牧線 楽田駅下車 

■ 青塚砦

 秀吉の本拠地の楽田城より2kmほど離れている。
天正12年(1584年)3月、羽黒で敗戦した森長可の軍3千は秀吉軍に合流して青塚古墳に陣取り、
この二段構築の前方後円墳を三段に改修して砦とした。
また犬山の徳授寺の本堂と庫裏を破壊して資財にして陣屋を作った。
現在は青塚古墳史跡公園としてきれいに復元・整備されている

《 みどころ 》  発掘調査員の方の話では、秀吉時代の遺構は柵を構えた跡が見つかった
          くらいで、特に発掘品は出てこなかったとのこと。古墳そばにはガイダンス施
          設があり、発掘品などが見学できる。

《 交通 》 名鉄小牧線 楽田駅下車 駅から2km


■ 楽田城跡

天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は小牧城に、豊臣秀吉は楽田城に
陣を敷いた。この楽田城は現在楽田小学校となっている。小学校の校門横に画像のような「楽
田城跡」の石碑あるが、実際のかつての小山は現在の小学校の敷地内に当たる。児童の数が
増えたことにともない小学校を拡張したところ、小山が運動場になったため、小山も削ってしまっ
たということらしい。

《 みどころ 》 周辺の道路に、「楽田城表門旧跡」「楽田城裏門旧跡」などの石碑も建つ。


 《 交通 》 名鉄小牧線 楽田駅下車
    


■ 物狂峠

森長可がここを通ったのは死の3日間のことである。
当時、小牧山の家康軍と楽田城の秀吉軍はどちらも動かぬ膠着状態にあったが、先に動いたのが秀吉
に加担していた池田恒興と森長可だった。
三河へ攻めこんで、家康の本拠地の岡崎城を衝こうという戦略でこの峠越えをした。2万の軍勢でこっそ
りと動いたが、徳川方の知るところとなり、長久手の合戦に至る。
地元のかたに見せていただいた本(ウォーキングマップ?)によれば、物狂峠の地名の由来はズバリ池田
軍と森軍が死にモノ狂いで越えたことに由来するのだという。

《 みどころ 》 楽田から大県神社に向う大きな道の途中の三叉路を右に曲って「桃山台」という地名を抜         けて峠を目指す。
         物狂峠という地名は残っておらず、また、現在は道路も整備され、大型トラックが多く走ってい
         た。              

《 交通 》 名鉄小牧線楽田駅                       


つづく。

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