呂助左衛門宗長・助三郎

森家家臣の中でも豪傑だった助左衛門。父に孝行の為に討死した助三郎。

人名 / 野呂助左衛門宗長(のろ すけざえもん むねなが)
      野呂助三郎(のろ すけさぶろう)

出身 /未確認

生没年 / ?−父子とも天正12年(1584年)3月17日 羽黒八幡林にて戦死。助三郎そのとき19歳。

法名 /未確認

墓所 /八幡宮近くに野呂父子の墓、野呂塚がある 


永禄8年に可成と一緒に金山に入る。

天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いの前哨戦ともいえる戦が羽黒の八幡林でくりひろげられた。

豊臣方について戦っていた森長可にとっては、惨敗を喫した屈辱的な戦ともなった。徳川軍の猛攻撃に、長可はなすすべもなく退却

する羽目になる。

追ってきた敵から「ここを退くは野呂助左衛門とみえたり!還し合わせ勝負せよ!」との声があがった。

野呂助左衛門は長可麾下でも剛の者として知られる。中間(ちゅうげん)に「これを形見に。」と息子のために小刀を託すと、馬首を返して、

敵の方へ走った。助左衛門とあたったのは松平又七郎家信。17歳の少年である。数々の戦で敵をねじ伏せてきた助左衛門の敵では

ない。大太刀を振るって彼に襲いかかると、瞬く間に組み伏せてしまった。しかしついに家信の首を取らんとしたそのとき、家信の兵が7、

8人はせ参じ、大太刀を握る野呂の腕につかみかかってきたのだ。そのとき、家臣の松平但馬守が槍で助左衛門を刺し、ついに家信は

この男の首をあげた。

退却途中だった野呂助左衛門息子の助三郎は、はせ参じた中間に形見の小刀を渡され、父が討たれたことを知らされると、涙を流し

て汗てぬぐいを取り出し「これを母さまへ」、自分の髻(もとどり)を切り、「これを妻のほうへ。」と中間に渡して、馬首を返し、敵の海の

中、獅子奮迅の働きの末に力尽きた。

この戦では森軍の中に多くの討死者がでたが、中でも父を慕って討死した助三郎の話を聞いて、金山の人々は皆涙したという。



八幡林には、野呂父子の墓と、大正17年に子孫が建てた顕彰碑が残る。


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 野呂父子の墓は野呂塚と呼ばれ、尚武の神と崇められた。  

■  松平又七郎家信は、野呂助左衛門を討ち取ったことで、徳川家康に感状書を賜った。野呂を討ち取ったときの模様を飾らず

   語ったところ、いよいよ家康は彼を褒め称えたという。

 


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