十 | 字紋 |
長可の武功を今に伝える十字。
●十字紋(じゅうじもん) ●丸に十字(まるにじゅうじ)
森家の替紋の一つ。家紋は一家に一紋であるべきだが、長い間に、主君からもらったり、敵から分捕ったりしていくつかの 家紋が増えた家は多い。 定紋(森家でいえば、鶴丸紋)というのは、名前を家紋を一致させるために一つに限られたが、替え紋はいくつあってもよい とされた。非公式な場所では定紋でなくとも許される。かといって、提灯やアイテムに家紋なしではまかり通らない。プライベ ートな息抜きの場所などでは主としてこの替え紋が採用された。 この十文字の紋使用の由来は、鬼武蔵と呼ばれた森長可にある。 森長可は甲州武田攻めで色々な物を分捕っている。置筒や、太鼓、鰐口、余計な物まで何でもかんでももってきてしまった ようだ。勿論、このような強奪は長可に限ったことではなく、総大将の信忠もご苦労にも諏訪の寺々で強奪した重い釣鐘をい くつか、持って行っている。長可の強奪品の中には馬の轡(くつわ)があり、十字紋がついていたという。 その紋を、武田攻めで活躍した功績により、長可が織田信忠から改めて拝領されたことにはじまるという。 (赤穂大石神社には、長可が武田方武将・小幡氏から分捕った十文字の轡が伝わる。) しかしながら、この話と食い違うものもある。長篠の戦いに際して、やる気満々の長可は「他家とは紛らわしくないように。」と 言って、先代から使用していた白黒左巻の幟(のぼり)、黒ほうずきの馬印を廃して、新たに地白に十の字の幟、テッペンに 黒鳥毛のついた銀の瓜の馬印を採用したという。こちらが本当ならば、十字紋は武田攻めの前に採用決定である。 先の家紋分捕りの話とは違い、長可の何らかのお茶目な考えがこの紋に反映されているのだろうか。 尚、この十字紋は十字架を連想させるから、長可がキリシタンだったという説もあるが、この十字紋自体が日本における最も 古い紋の一つなので問題外と私は否定したい。且つ、その十字紋がキリシタンの象徴にスライドさせられたとは考えにくい。 また、十字紋も微妙な違いがあって、その種類を数えると数十種類に及ぶと言う。 代表的な十字紋といえば、まず薩摩の名門・島津家の家紋というのが念頭にくるが、この十字紋には @ 二匹の龍が交差するさま。 A二本の箸を交差して戦勝祝いとした。 B中国から伝わった十字を切るまじない。 などの意味が言われてきた。ご存知の様に、初期の武家家紋は一引両、二引両、三引両という、横線が一本、二本、三本の シンプルなものであったので、単純に考えて、それと区別して縦線と横線をからめて十字にすることに思いつきが発展したとい うのもあり得ないことではないと思うのだが・・・・。その場合は、引両と同じく龍を象徴する@となるだろう。 ちなみに、この十字紋は平家追討の褒美として島津家が源頼朝から拝領したものだ。 これを丸で囲む丸十の紋もある。私はその堅実な理由をしらないので教えを乞いたい気持ちであるが、この丸は、いっそう文 字が目立ち易くするため、文字の落ちつきを良くするため、尚武の意味で馬の鐙にもなぞらえられること、色々な理由が考えら れる。殊に森家においては、鶴丸紋と並べて飾る時に、丸で囲む方が安定感が加わるだろう。個人的には、この○と十の組み 合わせが「叶(かな)う」という字にも通じて、一層縁起のよいものの様に思える。 この十字紋は忠政以降も連綿として旗印や槍印に使用されている。大坂の陣にもこの十字紋の旗印がなびいていた。 大名行列の先頭に掲げられた長可の人間無骨の槍にも、”丸ニ十字”の槍印がつけられた。 |
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■ 鎌倉時代よりの島津家も元来、十字紋と鶴丸紋の2つを使用していた、2つもの家紋が重複してしまったのは、 いかなる偶然だろうか。 ■ 森家の槍印の丸十字は、時代により1つつなぎ、2つつなぎ、3つつなぎと代わって行った。 |