堺をモリっと歩く旅 

 妙國寺のバーカウンター?

           
 2011年10月29日(土) in 大阪府堺市 
■ 津田宗及おうちカフェ
 
本日の旅程(森家関連は太字)
博多駅(夜行バス)→JR大阪駅 →新今宮駅(南海線に乗り換え)→南海線・堺駅→ザビエル公園→小西行長屋敷跡→堺奉行所→大小路通り大通寺跡妙國寺→臨江寺→本源院→南宗寺→大安寺→今井宗久屋敷跡→武野紹鴎屋敷跡→千利休屋敷跡環濠クルーズ→プラットプラット屋上広場→南海線・堺駅→JR大阪駅→飲み→JR新大阪駅→JR博多駅

堺市内を走っていた南蛮の香りのするバス

 いつもの事ながら夜行バス利用の日帰りクエスト開始である。
29日早朝に大阪駅に到着。それからすぐに堺へ移動した。
ここは東洋のベニス(by宣教師)、おもに森家も訪問したことのある中世商業都市の堺!(^O^)/
 堺駅そばで南蛮朝ごはん(パン食)を食べてから、デジカメをしょって堺市内の森家ストーキングを開始した。

文久改正『堺大絵図』(土居川沿いの看板)
堀がめぐり、自治都市として栄えた堺。
この商業都市に目を付けた信長は永禄11(1568)年、
堺の町に矢銭軍事費用二万貫を要求した。

『堺市図』(看板撮影)
イエズス会の報告をもとにモンタヌス(オランダ人
ラテン語学校長)の『日本史』に描かれた挿絵で、
堺の様子を描かれたものと言われている。
背景に見える山は仁徳天皇陵ではないかという話。


 まだ朝が早いので、寺院の拝観時間になるまでは道ばたにある史跡の散策を楽しんだ。
地図で偶然見つけたザビエル公園(堺の商人・日比屋了慶がフランシスコ=ザビエルに住まいを提供した場所ぽい)に寄ったが特に森家的には重要な物を発見できず、せっかくなのでそのまま道なりに小西行長屋敷跡におもむいた。

ザビエル公園
または戎公園というらしい。
ザビエル像はなかった。
小西行長屋敷跡
朝から逆光。


 当初、小西行長屋敷の所在地を間違えて「ここか~(^O^)。」と、民家を撮影して完全に怪しい女と化していた(いや、もらった地図の表記が悪かったのだ、そうに違いない)。わかりにくいので『地図に載せるのなら看板くらい立ててくれよ。』、と思いつつ折り返して歩いていると、違う場所に「小西行長屋敷跡」の看板があるのを見つける。なんだ、私が場所を間違えていたのか。堺市ごめんなさい。

 それから江戸期の堺奉行所あたりをぬけて、大小路通りに出る。
堺奉行所跡
石碑の隣がごみ箱。なんか切ない…。

 森家とも交流の深かった堺の茶匠・津田宗及の自宅の場所は、今ではもうはっきりしないが、どうやら大小路通り近辺であったようだ。

津田宗及のおうちカフェものがたり(森家編)
永禄12(1569)年2月11日:織田信長の家臣(森可成ら100名あまり)が、津田宗及の自宅で茶の湯の接待を受ける
『永禄十二年二月十一日 終日 
上使衆 佐久間右衛門、柴田修理亮、和田伊賀守、坂井右近尉、
森三左衛門尉
蜂屋兵庫助、結城進斉、竹内下総守、野田佐吉、其外方々之衆、百人斗、 
折、盃之台、色々(『宗及茶会日記』自会記)』

天正12(1584)年1月13日:朝、関小十郎が、昼、森長可が津田宗及の自宅で茶の湯の接待を受ける。
同正月十三日朝  津川玄蕃 せき小十郎右衛門尉 

 一、床 舩子ノ絵 
    炉 靏ノ釜、自在、籠 つるへ
   手水間ニ善好茶碗、金ノ合子、ならへて
    
   同 日昼     
森武蔵守 瀧川三郎兵衛 中川甚右衛門尉
 床 墨跡 手水ノ間巻、
 かふらなし、紅梅、生而、手水間ニ花ヲヌキテ、花瓶、つるへとならへ候
 金ノ合子、せんかう茶碗 
(『宗及茶会日記』自会記)』
 このほか、森家っぽい人物が宗及の自宅にいきなりやってきている。

 これを知った人は誰でも皆「津田さんの家があった所に行こう!」と思うのが自然の理。しかし、事前に調べても津田さん宅はこれ以上の詳細も判らず、ただ、津田家の菩提寺があったという場所「大通庵跡」でそれを忍ぶよりない。
朝の大小路通り
いずこに津田宗及の屋敷があったのかは
つまびらかではない。
大通庵跡
津田宗及が父の菩提を弔うために創建した寺院。
残念ながら、明治に廃絶した。

 ちなみに、森長可の遺愛の茶壷「沢姫(さはひめ)」の蓋の内に「さほひめ(佐保姫)」と書いてしまった誤字男もこの津田宗及である。

 散歩しているうちに、そろそろよい頃合(9:30)になったのでいざ妙國寺にお参りする。
ここには、織田信長から安土城に連れて行かれて夜な夜な
「妙國寺へ帰ろう」(/_;)
「堺へ帰ろう」(;O;)
と泣いて結局は妙國寺に戻されたというソテツのお話が伝わり、そのソテツは今なお健在である。
詳しくは、蘭丸の逸話ページ■蘇鉄(ソテツ)ちゃん[URL]をお読みください。

妙國寺の蘇鉄(ソテツ)
妙國寺のパンフには「森蘭丸に切らせた所、切り口より鮮血も見える水が噴出し、火を放つと白煙が立
ち込め…」と解説されている。どんなソテツだ…(^_^;)

 今日は、秋季堺文化財特別公開に合わせて無料ループバスが運行されているので、それを利用して華麗に堺市博物館へ移動した。

堺市博物館
特別展「自由都市の軌跡 ―アジアの海がはぐく
んだ堺―」が開催中だった。
堺市博物館前の千利休像
森可隆(蘭丸の長兄)とも交流があっ
たかも知れない千利休。

 博物館のある大仙公園とは道路を隔てたところに世界一の面積を誇る仁徳天皇陵古墳もあったが、古墳を横から見ても丘にしか見えぬ罠。でも、この丘陵は高層ビルの無い中世には堺の中心地からでも見えていたそうなのであり、そうなると森可成や森長可、忠政も自然とこの丘陵を目にしているはずなのだ。

仁徳天皇陵古墳
看板にあった全景写真
仁徳天皇陵古墳


 堺市博物館の展示を観た後、念のために博物館の学芸員さんに「津田宗及の自宅」を確認するけど、やっぱり不明との回答で撃沈。

 再び無料ループバスに乗って臨江寺本源院(正確には南宗寺本源院だけど)から南宗寺大安寺へと一気に見学した。
 臨江寺で茶聖・武野紹鴎の墓今井(宗久)家累代の墓にお参りして、本源院へ至る。
私にとっては”ついに参拝することのできる”本源院、なのだ。
 私が今回の時期に堺市へ赴いたのは、実はこの本源院の特別公開に合わたものである。全国に多くの墓があり愛されまくっている織田信長だが、なんとこの堺の本源院にも織田信長の供養墓があるのだ。理由は知らない。しかし、そのお参りがしたくて時が来るのを狙っていたのだ。
 と、いうわけで目的の一つだった本源院に喜び勇んで入って行く。
墓所に入ればすぐ目に留まる場所に織田信長・信忠父子の墓はあった。墓のまわりを蝶々たちがヒラヒラ。ついに参拝。

本源院
薩摩藩主・島津家の祈願所として建立され、関
ケ原の合戦で戦死なさった島津軍の人々を弔
っている。
本源院の織田信長・信忠父子の墓
右が信長、左が信忠のお墓。


堺市・本源院の織田信長・信忠の墓
かっこいいとしか言いようが無い。
ちなみに、たぶん全国にはこれだけの織田信長の墓所が存在する。

全国の信長墓所(または神)リスト
私は行った ×まだ行ってないけどいつか行く)
×建勲神社(山形)
瑞龍寺(富山)
織田剱神社(福井)
本門寺(静岡)
祟福寺(岐阜)
長興寺(愛知)
総見寺(愛知)
阿弥陀寺(京都)
大徳寺総見院(京都)
大雲院(京都)
本能寺(京都)
×妙心寺玉鳳院(京都)
今宮神社(京都)
建仁寺(京都)
建勲神社(京都)
聖隣寺(京都)
南宗寺本源院(大阪)
西光寺(滋賀)
安土城(滋賀)
建勲神社(兵庫)
高野山(和歌山)
泰厳寺(熊本)
 
自分の知ってる中では、あと2つでコンプリートではないのだろうか。
他にご存知ならご教示ください。

 本源院の隣には天慶院という寺院があり、堺の茶人・山上宗ニの供養塔「一会塚」を見つけた。
天慶院(非公開)
門前に山上宗ニの供養塔があった。
彼、秀吉に惨殺されてたのね…。

知らなかった…。
一会塚
山上宗ニの供養塔らしい。
彼の遺した『山上宗ニ記』には、森長可
所持の「沢姫の茶壷」のことも出てくる。

 引き続き訪問した南宗寺には津田宗及の(新しめの)千利休の墓三好一族の墓津田一族の墓などがあった。本当はここは徳川家康のミステリー墓(家康は大阪の陣でサクッと死んじゃってここに葬られたんです説)が有名なのだが私としてはそれはどうでもよく、続く訪問先大安寺はせっかく来たのだからと勢いで見学したような感じだが、寺の柱には「松永久秀の刀傷」と呼ばれるものが残っていた。なぜ久秀がここで刀を抜いて柱を傷つけたのか、森家にあんまり関係ないその謎も私としてはどうでもいいので放置しておく。

南宗寺の津田宗及の供養塔
新しめの墓石だった。
南宗寺の千利休の墓
千家一門の墓の中央が千利休の墓。
南宗寺の実相庵
利休好みの茶室(内部非公開)

津田一門(半井家の墓)
津田宗達、津田宗及一門の墓
宗及の娘婿・半井卜養の墓碑もある。
南宗庵の枯山水
古田織部好みの作と解説されていた。
大安寺の枯山水
黒砂の海も素敵。

 それからはサクサク歩いて駅に向かいつつ、今井宗久屋敷跡(石碑のみ)→武野紹鴎屋敷跡(石碑のみ)→千利休屋敷跡(ちょっぴり敷地が確保されていて、井戸があった)と見学してゆく。
今井宗久屋敷跡
アスファルトに黄色いラインのワビサビと、看板の
みで昔をしのぼう。
千利休屋敷跡
さすがに人気NO.1茶人。
メモリアル敷地が確保されて井戸もついている。

 千利休の書状には、森可成の長男・可隆に宛てたと思われるものが残っているので、ここ「千利休屋敷跡」も森家関係史跡としておこう。屋敷跡のお向かいには利休広場というイベント会場もあったぞ。
■ 堺の環濠クルーズ満喫
チューリップ袖の南蛮人イェイ!

 残る時間で『堺のんびりクルーズ』という環濠クルーズを体験することにした。
受付をすると、出発までまだ時間があるという。お腹を鳴らしながらのクルーズも色気がないので駅のミスドで遅いお昼ご飯にして、今日の歩きで消費したカロリーを一気に取り戻す(涙)。ミスドを出るとイカ焼きの店を見つけてショック!!!!すんごく食べたかった大阪名物なのに!イカ焼き!140円なのに!!Σ(゜□゜;
そしてクルーズの発着場所に戻るとお客達は、椅子に腰かけてみんな何かもらって食べていた。Σ(゜□゜;
ああ疎外感!!!!!

土居川・内川・堺旧港をめぐるクルーズ

 気を取り直し、中世の環濠都市・東洋のベニス堺の名残を楽しむクルーズ開始だ。
「船は爽快に出発!」と、思いきや水はちょっと不思議な臭いがする。大阪水準では充分綺麗な水なのだろう。タイガースが優勝してファン達が総レミング状態になって飛び込んでもこの川なら大丈夫そうだ。
 また、私が乗船したその時間は特に水位が高いらしく、橋にさしかかるたびに「伏せてください。」と言われ、乗船した全員が船の中に身体を埋める。それはちょっと身をかがめるというものでもなく、船の中に入りこんで「はうっ!」と思いっきり伏せておかねばならないくらいなのだ。油断してしまえばありえない「橋側面de顔面潰し」となってしまう。
一緒に居合わせた子供たちはスリリングなクルーズにキャッキャと大喜び。しかし、橋の下をくぐっている時にたまに怪しい水が垂れてくるう!!!!!大人の私はそんなのが目についてしまうんだよう!しかもどんな成分かわからないが、鍾乳洞のツララみたいなのがあるし!あれをポキッと折ってなめたらどうなるんだろう。死?Σ(゜□゜;
かくして私は橋の裏側から垂れる水滴に当たらないように必死なのだが、状況を知るために上を見上げるとすごいミラクルで目に水滴が落ちるんじゃないかと心配になり、もう伏せて祈るしかない。しかし、戦国時代にはお堀だったその名残を残す土居川を解説入りでゆったりとめぐり、最後に船は水門をくぐって海にまで出て、なんとも爽やかで楽しかった。解説もとってもおもしろかった。また機会があれば必ず乗ってみたい。

「森家が好きだぁああああ!!!\(^O^)/(心の中での叫び)

堺のんびりクルーズ
船首を西に向ければ日没の色
たしか土居川
中世の環濠の名残。

ドキドキする!
堺旧港
水門をくぐって海まで出てきた!
潮の香りに包まれて爽快!!!

 クルーズが終わって駅近隣のビル「プラットプラット」で堺名物のお香を購入(堺の町中にはいっぱい刃物とお香の店があった)。さらにプラットプラット屋上芝生広場から堺の町を一望した後は、大人しく大阪中心地へ戻った。

 今日は別行動で「武田城海水オフ(仮称)」をしていたお城仲間さん達と飲み会で合流することになっていたのだが、私がひと足お先に大阪駅に帰り着いたようなので、連絡をもらえるまで駅デパLUKUAでショッピング。
 あああああ、つい秋服1着だけにしてればよいものを、さらに調子に乗って旅の途中で冬コートまで買ってしまったあぁああああ!!!堺商人の魂にとりつかれたぁああああ!
Σ(゜□゜;
最終的には夜行バスに乗る身の私がでっかい買い物バッグをかついで歩き、お城仲間の皆さんとヨドバシカメラ梅田で合流。
ヨドバシカメラの8階で食事できるようで、レストランに入ってようやく腰を下ろすことができた。腰をおろすどころか床の上に横になってそのまま熟睡する自信があるが、夜行バスに乗るまでガマン。
 「サントリープレミアムモルツ」を注文しようとして、お城仲間に「キリンの店でそれ、ひどくね?」と言われ、店員さんにも「ワタクシは何も聞こえておりませんでした。」と言われ、ドリンクのコースターを見た後にここが「キリンシティ」という店だと初めて知る。
そこで運命のニョッキと出会うのであった。
こんな美味しいプニプニ料理がこの世にあるなんて…。
今度大阪に来たら、またニョッキを食べよう。イカ焼きも食べよう。次回は茶の湯でイカ焼き&ニョッキだ。
 お城仲間さんズからはお土産までいただき、お腹も心も満たされて解散した。
お城仲間さんズ、どうもありがとうございました。しかし、なんでみんなで私を置いて森家三日月陣屋に寄ってくるかな(怒)。
私も冬コートをしょって夜行バスで福岡に帰る。
森家もお買い物したりお茶したりした堺へのストーキング旅はこうして終わった。
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