美濃尾張モリモリツアー 1ページめ →2

       
  長久手古戦場通りのスネオ目鶴丸

            2010年10月14日(金)-17日(日) in 美濃・尾張+長野? 

■ 2010年10月14日(木):やっぱり長久手から

 「美濃・尾張」と言うといつも

源頼朝:「約束通り、美濃尾張(身の終わり)をやる(゜e゜)」→長田父子処刑

を、なぜか思いだしてしまう。
と、いう訳で「美濃・尾張を遣わす。」と言う上司は実は君を殺す気満々だから要注意だ。
そんな時には「むしろ壱岐(生き)がいいです!」とお洒落な返事をして壱岐で一生を終えることをお薦めする。

で、話がつながらないが森家好きには美濃・尾張とはこの上なく魅力的な地だ。
そして今秋もいそいそと美濃・尾張に出かけた。夜行バス利用で13日夜(水)に福岡を出発。

*日の行程

名古屋駅前武蔵塚長久手古戦場岩作東城大草城前熊寺岩作西城長久手町図書館桧ケ根公園(堀Q太郎秀政本陣跡)中村公園秀吉清正記念館『大阪城の陣〜豊臣家の滅亡〜』特別展木下長嘯子(勝俊)邸跡常泉寺(豊公誕生地)妙行寺(加藤清正生誕地)荒子観音寺荒子城(前田利家誕生

 早朝、名古屋駅に着いた。
そのまま向かう先はやっぱり長久手古戦場にある森長可の戦死場所である武蔵塚。
 長久手古戦場へ行く交通手段のリニモ。始発駅の藤が丘駅で長久手古戦場駅キーホルダーを見つけてつい買ってしまった。
買ったところで、実際問題どう活用すればいいのだろう。

長久手古戦場駅キーホルダー
シャネルやグッチの高級バッグに装着すれば、
あなたも町の人気者に。


 何はともあれ、長久手古戦場駅で下車して最初に向かったのは森長可(蘭丸兄)の死地にある武蔵塚。通い慣れたこの場所は住所にして武蔵塚一丁目。

長久手古戦場通り
左上の小高い所が武蔵塚のある敷地。
『森家先代実録』の言うところの「小丸山」とは
まさにここなのだろうか?
武蔵塚
画像右側の囲いの部分が武蔵塚。
春は桜が咲き乱れてキレイ。


 お参りを済ませ、広場で蚊にたかられながら爽やかな気分で朝ごはんを食べ、いつものお約束コースで長可に続いて戦死した池田家の勝九郎塚勝入塚にもお参りして、長久手古戦場郷土資料館でレンタルサイクルして、長久手大草城跡に向かった。

スタンプラリーポスター
「タイムトラベル戦国あいち」
む!


通りがけに勝手に岩作(東)城跡に遭遇しつつ、有名な徳川家康陣跡などは華麗に無視して、自転車でチリンチリン♪
 大草城跡は山城だった。山城ということは事前に知っていたし、レンタル自転車は麓の大草児童公園に停めてから山に登ればいいやと思っていたら、公園から見上げる城のメイン部分は私有地であり、公園から入れる空堀だけ見て、私有地を避けてぐるっと大きく回ってから城の残りを見なければならず、結局、かなりの長くて勾配の急な坂道を自転車を手押しして山に登るハメになった。

大草城跡
この平面も城の名残なのかな?
アートなモニュメントがあった。
大草城の空堀
わかりづらくてすみません。上に見えるのは民
家なのでそれ以上は登れず。
 
大草城の石碑
もっと奥に入ると熊野社があった。
 

 なぜ、この大草城に来てしまったのか。
理由はやっぱり森家がらみなのだ。大草城の近くにある前熊寺(ぜんのうじ)の寺伝には、この城について「元は福岡氏の城であったが、天正より森長可が城主になった。」という主旨の記載があるらしい、ということを『愛知の山城ベスト50を歩く』で初めて知ったのだ(著者は城主=長可説を疑っている)。で、寺伝がほんとかどうか知りたくて来てみた。
 大草城をまわった後、その寺伝内容が詳しく分からないものかと前熊寺にまでチャリを漕いだが、結局は工事中ということもあり、お参りのみで折り返し、また勝手に岩作東城跡と岩作西城跡に遭遇しつつ、長久手町図書館に向かった。

前熊寺(ぜんのうじ)
資料館でもらった地図によれば
大草城主・福岡太郎右衛門の屋敷跡とのこと。



 ちなみに図書館の隣は、桧ケ根公園(長久手の戦いにおける堀Q太郎秀政本陣地跡)だった。よっ!名人Q太郎!

堀久太郎秀政本陣地跡
豊臣秀吉軍の軍監として従軍。
長可とともに戦った掘Q。


 図書館で森家の関係する地元資料を漁ってガンガンにコピーし、リュックにつめて旅を続ける。

ひとやすみメモ(長久手から帰って掲示板に投稿したもの)

前熊寺の寺伝を調べてまいりました。

 明治6年の『前熊寺鎮守天王由緒書』などでは、この地域は永禄6(1563)年は岩崎城城主の丹羽氏の領地だったのが、天正7(1579)年に森長可の領地となっていたことになっていました。
「天正七年卯年、森武蔵守殿御改之節も如前、前熊寺境内五反歩除被置…」
と簡潔にその流れを表記しているだけで、城主チェンジのきっかけは書いていません。

 寺伝のように森長可が天正7年から領地になっていたというのをそっくりそのまま信じてはいけませんが、逆にいきなり根拠もないのに寺伝で森長可を出してくるのも変な気がするので、年代がズレでも、特に、長久手の合戦に近い時期に長可がからんだ何かはあるんじゃないかと推察。

 小牧長久手の戦いの時は、豊臣軍は進軍時に「大草」で全員集結して池田輝政が大草城を守っているようなので、やはり豊臣系OKな何らかの下地が既にあったのでしょうね。
まだ、大草城に関する資料を漁りつくしていないので、もっと納得のいく話が出てくるかもしれませんケド。(^_^;)

 ちなみに、現地で知りましたが、大草城跡にある長見寺の天正13年(戦後)の棟札には池田家の侍大将の名が並んでいたりするのです。

 さらに大草城からほど近い場所には安昌寺というお寺もありますが、由緒では丹羽氏によるお寺のはずが当時の住職作で森長可や池田父子のご位牌が存在していて、「敵味方の区別なく供養した」と住職の人徳を言い切るには、丹羽氏の戦死者よりも、なぜこの3人の位牌?と、ミステリアスです。
 後世の私達には判らぬ何か…お寺が森家や池田家に恩義を感じてそっと供養するような事情があったのでしょうか。

 ちなみに、丹羽氏は徳川方につき、池田と森軍は丹羽氏の岩崎城の兵士を長久手の合戦に至る手前で皆殺しにしております。

 まだまだ考察の余地あり。
 レンタル自転車を資料館にお返しして、また公共交通機関で移動した。
予想外に長久手に居座ったので、後の行程が中途半端になり清洲城の予定はパスして南下し、地下鉄藤ヶ丘駅から東山線に乗ったままで行ける秀吉発生地方面(中村公園駅)へ行くことにした。この地は蘭丸の姉「うめ」の旦那・木下勝俊の生まれ故郷でもある。まぁ、豊臣秀吉や加藤清正の故郷としてのほうが有名なのだけど。

豊国神社の鳥居
デカさ爆発。
豊公誕生之地
豊臣秀吉が生まれた地。


 中村公園の秀吉清正記念館『大阪城の陣〜豊臣家の滅亡〜』特別展に行き合わせたので鑑賞。展示に森忠政もでてきたし、嬉しいことに森蘭丸の本能寺絵はがきが販売してあったので、モチのロン、買い求めた。

本能寺焼討之図(明治)
左にいるのが森蘭丸。

 記念館の事務所で木下勝俊邸の場所を尋ねたらあっさり「判らないです(誰それ?)。」とのこと。Σ(゜□゜;
え?前、来た時確かに石碑があったのを見た気がするが幻覚か?
「もしや木下長嘯子のことですか?」と尋ね返された。そのハンドルネームみたいなののほうが有名なのか…。
「タイムトラベル戦国あいち」スタンプラリーも始めつつ、公園内を散策した。教わった通りに秀吉の誕生地・常泉寺に行くと、近くに木下長嘯子(勝俊)邸跡の石碑があった。森蘭丸の姉・「うめ」の旦那(離婚したけど)の邸宅跡だ。私にとってはテンションのあがりにくい人物なのだが、森家関連の範疇なので無視するわけにはいくまい。
 勝俊の家は加藤清正の生誕地・妙行寺も近いし、秀吉にも近いし、戦国ご近所さんたちである。

木下長嘯子(勝俊)邸跡
うめの旦那の家。石碑が建っている。


 夕方にさしかかり、また時間が微妙に余ってもったいないので中村区からそう遠くない前田利家の故郷、荒子にも行ってみた。高畑駅で下車。
森可成とは仲良しだった利家。利家が信長にご勘気を蒙って斬られそうになった時も可成は柴田勝家とともにこれを押しとどめ、利家が浪人していた不遇の時期も、可成と勝家とかはずっと変わらぬ友情で利家と接し続けた(『利家夜話』)。
ふ…。なのにどこで加賀100万石と美作19万石の差がついてしまったのだろう。やはり、原因は森可成の死だろうな。
時代は下り、森忠政の時には前田家とは親戚同士の間柄にもなる。

 高畑駅を出ると地面には「犬千代ルート」のプレートがある。さらに、駅にあった地図も参考にして歩く。

犬千代ルート
うぉ!矢印が2つ!翻弄されそうだ!

 天正4年(1576)に前田利家によって再興された荒子観音。そこに向かっていると5時になり、お寺の方がちょうど門を閉めようとなさっている。折角来たのにそんな!Σ(゜□゜;
うわぁあああ!待って!!
とっさに、「すみません!スタンプラリーのスタンプだけ押させてください!」と台紙を見せてつっこんで行き、快く入れてもらえた。でも、スタンプ押したらやっぱり申し訳なくてすぐに出たので結局は境内を見学できなかった。何だったんだ、私のとっさの判断。

荒子観音
看板には円空の木彫り仏像の巨大イラストが
あり、駐車場の柵にも円空の木彫りレプリカが
結び付けてあった。

 もう、だんだん暗くなってゆくが、やっぱり前田家の荒子城跡は見ておきたい。
行けば狭い敷地の神社があった。そこが城跡とのこと。

荒子城跡
今は神社となっている。
高感度撮影。
荒子城跡
看板の説明によると、荒子城は簡単な砦程度
のものだったとのこと。

 さすがに一日ぶっ通しで歩き疲れてとぼとぼと荒子駅に向かった。うぉー!JRと思ってたら、名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線)って何じゃい!!!
これで果たして名古屋に帰れるのか?!Σ(゜□゜;
駅前にあった若い前田利家はなかなかに素敵で、最後の力を振り絞ってデジカメを持ちあげて撮影する。
高感度で撮影せざるを得なかったが、今度は昼の撮影日よりの時に撮影したい。

荒子駅で奮闘する前田利家像
こういうのを見ると、森長可の銅像の必要性を
切に感じる。

 あおなみ線とやらは、ちゃんと名古屋まで運んでくれ、無事に名古屋駅に到着。
一日の終わりは名古屋駅テルミナ7Fの「鈴の屋」で味噌田楽を食べてヘルシーな夕食にしよう、と思っていたのに、いざ探し回れどテルミナ自体がない。神隠しにあったのか、自分が方角を間違えたのかと駅周辺をグルグルしていたが、ついにシャッターの下りたデパート発見。テルミナごと9月末で閉店していていたとはこのオチに度肝を抜かれた。
どうしようもなく行きついた高島屋で食べた味噌煮込みうどんの美味しかったこと。

■ 2010年10月15日(金):タケノコ男の謎を追え

*
日の行程
末盛城跡(城山八幡宮)名古屋城跡名古屋市博物館『変革のとき桃山』特別展多治見駅妻木城跡妻木城御殿跡久々利城跡顔戸城跡

 早朝に織田信秀の居城・末盛城跡を散策。織田信長のオトン・信秀の城だ。

末盛城跡
想像したよりもコンパクトな縄張りだった。
末盛城跡の空堀
大きい!

 空堀のすごさに感激し、空堀に降りていくと一気に蚊にたかられる。
山頂は八幡宮になっているのでそこでご朱印をいただき、スタンプラリーのスタンプも押して、そのまま名古屋城へ移動。
 でも、敢えて名古屋城内は中には入らず、今回は100名城スタンプを押して、さらにGPSゲームケータイ城めぐりボタンを押すだけのピンポンダッシュだった。


 その後、お城仲間のケイさんと合流した。
一緒に名古屋市博物館で特別展『変革のとき桃山』を見る。森家にも関係する展示が色々あって大いに楽しめたが、エントランスで”これはなんでしょうクイズ”として出されていたタケノコ男の絵は展示品を見ても出てこず、何者なのか答えがとうとうわからなかった。一皮むけたい気分の明智光秀なのかも知れない。

特別展『変革のとき桃山』
森家に関係ある展示も多数あり、大満足!
  織豊時代のタケノコ男


 本来は東海のお城仲間がここで合流して車に乗せてくれる予定だったけど、都合により会えなくなってしまったので、急遽、ケイさんと多治見駅に向かって観光案内所に突っこんで行き、レンタカーの相談をして入り浸る事、しばし(その節はご親切にありがとうございました)。
 普通レンタカーのお店は駅のそばにあると思っていたが、無かったので多治見ICまでタクシーに乗ってレンタカーを借りに行ったのだった…(^_^;)。

 レンタカーを飛ばしていざ、お城めぐり午後の部!
まずは妻木城跡へ。
昔、私は山の麓の御殿跡だけは見ていたので、その立派さから「山の上の城跡を見たい!!」と思っていて(その時は入口がわからなかった)、今日、それが実現したと思ったら、山の上は想像以上につつましやかで寂しかった。まぁ、こんなものなのだろう。
縄張り図があったので、それを頼りに山頂周辺の防御施設も色々と見て回った。

 ちなみに妻木氏は本能寺の変の後は森長可の軍門に下り、人質となる一門は兼山に強制移住させられた。兼山には今も妻木氏の住まいと伝わる場所がある。

妻木城の帯曲輪 妻木城の一の曲輪
妻木城の一の曲輪
石垣のほとんどは昭和に積み直しされたとの
ことでたぶんこれもそうなのかなぁ…。
城の麓の妻木城士屋敷跡
石垣も残っていて、当時の屋敷の状況がすご
くよくわかる。


 夕方にさしかかり、「もうこの時間から山に登るのは危ないから。」と、予定していた山城・明知城跡を明日に回し、急遽、この後は平城に行くことにした。

 でも、車で走っている道路沿いに入口がある久々利城跡(森長可が落とした城)に遭遇して、縄張りの面白さをケイさんに見せたく薄暗い山中を登ってきた。

学習したこと。薄暗いと、「蜘蛛の巣が見えない」。
そういえば久々利城にこの前訪問した時には謎ティッシュがたくさん捨ててあったから、足元についても色々と注意しなくてはならない。

久々利城跡
城主の土岐悪五郎は金山城で長可に謀殺さ
れる。
久々利城跡
この段々になった曲輪が大好きなのさ。

 平城(ひらじろ)の顔戸城跡に到着したころにはもう日没。
それでもで石碑を確認し、暗い中を近寄れば深くて幅広い空堀が敷地をかっこよく一周している模様。「これは期待できるネ!」と、土橋から城内に入れば普通の家が建っていて、さらに飼い犬に吠えられた。退散。

顔戸城
斎藤妙椿の築城。空堀が綺麗に残っていた。
  顔戸城敷地
もう暗くて何が何だか…


 夜は和知の「うな好」に行ってひつまぶしを堪能。(^_^;)

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