■岩村口(岐阜県恵那市)
これが行きの武田攻めルート前半である。文献の地名を拾ってたどる。
金山 |
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岩村口 |
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妻籠 |
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清内路口 |
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木曽峠 |
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梨野峠 |
併せて、生意気にその参考文献も載せてみる。
■『信長公記』:二月三日、三位中将(織田)信忠、森勝蔵、団平八先陣として、尾州、濃州の御人数、木曽口、岩村口両手に至つて出勢なり。
■『森家先代実録』:信忠卿信州御進發ニ付、御先手長可君、川尻肥前守、毛利河内守、塙平八郎、水野監物、瀧川左近将監等、二月十二日未明に岩村ヨリ伊奈口へ打越申候。 |
はや、スタート地点で予定時間をはるかに下っていた時間の都合で岩村口近辺は高速というもので通過した。
中津川インターを降りてからは19号線(東山道)を使う。19号線をそのまま行けば木曽路に入り、長野を北上できるが、しかし今回は森長可に習って道を逸れて妻籠へ入り、その先は木曽峠を越え、梨野峠経由で飯田に出て昔の三州街道(伊那道)へ抜けることにする。
しかし、今から思えば、地図を見ているだけでは道のアップダウンは分からないから、一日の移動距離としてはかなり甘いスケジュールを立てていた…。
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19号線をまっすぐ行けば木曽路なれど
長可ストーキングにより、道を逸れて妻籠へ
向かう。 |
■妻籠(長野県木曽郡南木曽町吾妻)
金山 |
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岩村口 |
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妻籠 |
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清内路口 |
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木曽峠 |
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梨野峠 |
江戸時代には宿場にもなっていた妻籠だ。今は観光地にもなっている。
■『信長公記』:二月十四日、信州松尾の城主小笠原掃部太輔、御忠節仕るべきの旨、
申上ぐるに付いて、妻子口より団平八、森勝蔵(長可)先陣として晴南寺口より相働き、木曽峠打ち越し、なしの峠へ御人数打上られ候処、小笠原掃部大輔、手合せとして所々に煙を揚げられ、
■『森家先代実録』:妻籠口の先陣長可君、塙平八郎被向候處…信州松尾城主小笠原掃部助信嶺御味方ニ参、忠節可申上由申越候ニ付、長可君、團平八、川尻肥前守、御先手ニ被仰付晴南寺口ヨリ相働木曽峠ヲ打越梨峠へ人数ヲ押上候処、為手合小笠原掃部助在々所々ニ烟火ヲ挙る、長可君の衆妻籠江押寄、銕炮打懸候処、敵怺かたく早々退散いたしけれは物初め吉しと諸勢勇む事限りなし |
妻籠までは車で楽々通過!
運転中に停止できるスキを狙って車内から撮影するので、結構画像の失敗が多い。
どこかに駐車してから撮影と思っていたのに、道も狭くて路上駐車できそうになく、車を停めるなら有料駐車場に停めろという観光地特有のプレッシャーに負けて、ホントにただの通過になってしまった。
さて、森長可は当時の”一番領地の近い人が先鋒隊になる”ルールとして、総大将の織田信忠の先鋒を務めて妻籠に入った。
織田軍の侵入を当時、信州にいた武田軍は私と違い、「カモーン!(^O^)/森家だーいすき♪」している訳ではないので、妻籠口で両者の競り合いも起こった。
しかし、一方では松尾城の小笠原氏のように、織田軍に寝返ってくるものも多く出てきたのである。
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妻籠
256号線だ。陸橋に「妻籠」の文字を見つけて
撮影。縮小すると見えない…。 |
妻籠通過中
森軍も押し寄せた妻籠。
今は観光地。 |
妻籠を抜け、旧・清内路村へ向かう路を走行する。
■清内路口
金山 |
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岩村口 |
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妻籠 |
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清内路口 |
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木曽峠 |
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梨野峠 |
清内路口(晴南寺口)というからには、村へ至る路の入口あたりということだろうから、路の岐路を指すのだろうか。かつて清内路口と称していた所はもう通過してんのかなぁ…などと考えつつ、蘭(あららぎ)を抜けると、峠越えが始まる。しかし、いいなぁ、「蘭」という地には看板に「蘭」の字ばっかで嬉しくなってくる。
■木曽峠(長野県木曽郡南木曽町)
金山 |
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岩村口 |
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妻籠 |
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清内路口 |
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木曽峠 |
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梨野峠 |
で、清内路峠を越えて木曽峠(大平峠)の入り口まで来た。
現在は、車道経由で抜けると、うねうねしつつも、一気に飯田市に出ることができる。
しかし待て。(・_・;)
文献を見る限りでは、森軍は木曽峠を登り、梨野峠を経由して、清内路方面から飯田に出たように窺える。この8号線を突っ切って飯田に出てしまえば、森長可が飯田に出るのにわざわざ使った梨野峠(木曽峠とは方向が違う)はどのタイミングで通るんだ(汗)?
旅に出る前も地図の前で悩んだけど、答えは出ず、現地に行って解決するしかなかった。
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木曽峠入口
清内路へ向かう256号線より、木曽峠(太平峠)
8号線の入り口。 |
数時間前にお会いした兼山の師匠が「太平峠は新しく開通させた道だから長可は通るはずない。」とおっしゃってたが、この車道がその開通したという道なのか?
でも、地図を見る限りは車を使って木曽峠へ行くには、この道を通らねばならない。どうしよう…。
迷った挙句、師匠の預言(違)に従い、木曽峠の道(8号線)へは行かずにそのまま旧・清内路村を目指した。いや、選んだ256号線道とてやがてはウネウネと蛇行する狭い道と化して結構、緊張と不安のドライブが続いた。
長野県下伊那郡阿智村清内路にそのまま入る。
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旧・清内路村
ようこそせいないじ村え |
■ 梨野峠(長野県下伊那郡阿智村清内路)
金山 |
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岩村口 |
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妻籠 |
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清内路口 |
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木曽峠 |
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梨野峠 |
建物は今風なのばかりだけど、清内路はこじんまりとした村だ。
役場を見つけたので入って行って、
「織田軍の侵攻ルートを追っているんですが、どう通っていったんでしょうか?」
といきなりハイレベルな質問をぶつけてみた。しかし、敢えて「森軍」と言わず、真のターゲットを隠して「織田軍」と言ってみるところが自分でもちゃんと人さまに気を遣っているな、という感じがした。
とりあえず梨野峠へのルートは教わり、地図もいただいたり購入したりした。
わかったこと。
■清内路峠(木曽峠付近)に当時、武田氏が関所を置いていた。
■昔は梨野峠を越える道がいわゆる「伊那街道」。
■木曽峠から梨野山に出る道がある。
■梨野峠から行ける高鳥屋山(たかどややま)は織田軍が武田軍攻略に利用したと伝わる。
木曽峠から、梨野峠を通過して武田氏の関所を通って飯田に出るのが、昔の限られたルートの一つだったようだ。織田軍がどういう状況でこの関所を通過したのかは私の知っている限りの文献には登場しない。当時どれほどその関所が機能していたかも調べてないのでよく分からない。でも、長可は関所破りは得意分野だ。長可は敵の関所のみだけではなく味方の関所すら破る事もあるくらいだ。
森長可がたどったコースが分かってなんだかワクワクするのだが、そのコースをそのまま車を使って行ってみるのは無理なようだ。しかし、可能であればせめて足で梨野峠に登りたい。そのために、熊よけの鈴も持ってきている。森家の為なら熊と戦えるかも知れない。
「ウォーキングでしたら、いちおうこのような物を作っていますよ。」と、役場の方にいただいた「梨野峠ウォーキングコース」にある情報では、『徒歩六時間でお手洗いなし。』
うわぁ!どんなプランだぁ!Σ(゜□゜;
今回は無理だ!いや、今回に限らずお手洗
いがないなんて無理だぁ!森長可はお手洗いはどうしてたんだぁ!
とりあえずは梨野峠の麓で車でも入れる所までは様子伺いに行ってみる事にした。しかし、目の前に延びているのはカーナビには表示されないくらいに細い道。技術を駆使してなんとか軽自動車が入り込るようなち狭さで、左は山肌、右は沢。ちょっと遊び心で右にハンドルを切ってみればプチ崖を落てだ水の中にボテッ!と転倒してしまうような場所だ。それよりも山肌にこすって傷ついたほうがマシとも、なるべく左寄りでノロノロと進む。そんな道に入り込んでしまった事を後悔するも時すでに遅し。Uターンすることもままならずに先に進むしかない。もはやバックしかなくてもその技術が無いので、やはり水の中にボテッ!となってしまいそうだ。
先に進めば、ちょっと開けた場所があったので安堵すれば、そこには「アソコ沢」という沢紹介の看板があった。いや、「アンコ沢?」どっちなんだ。「あそこ」か「あんこ」か?
私は気が立ってるんだ!はっきりしてよ!!
私が車ごと転落するかも知れない沢がエロイ系なのか、かわいい系なのかわからないままである。
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梨野峠にあるア●コ沢
サンショウウオを探す心のゆとりもなかった…。 |
その先まで峠に至る道が続いていたけど、眼前にはショッキングなガケ崩れがあって、車ではこれ以上は無理だ。素直にアソコ沢看板の前で引き返す事にした。いつかまた、自分の足でこの峠を登りに来よう。それまでは、グッバイ・アソコ!
で、峠の入り口を下れば、行きは気づけなかった清内路関所跡の石碑があった。
説明文を読んでみれば、武田氏が設けた関所を織田軍の先鋒隊の森長可と団平八が通過した事が書いてあった。関所を越えた有名人として森長可と書いてあるとはなんと殊勝な心がけよ…ビバ清内路!
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清内路関所跡
この関所は武田信玄により創設されたうちの
一つで当時は峠に設けられて下条信氏が預
かっていた。江戸期に下方に移される。 |
関所跡のにあった石碑
主な通行者は次の通りである。
「森長可」の文字が輝く。
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■飯田城(長野県飯田市)
私は普通の車道を抜け、飯田市に出た。急に車通りも家も道も増えて騒がしくなった。
梨野峠 |
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飯田城 |
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市田 |
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大島城 |
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伊那口 |
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高遠城 |
時間があれば、森長可はおろか蘭丸も戦後に信長の使者として関わることになる小笠原信嶺の居城であった松尾城にも行きたかったけど今回は時間がなくなってしまい、パス。そのまま飯田城へ向かう。
※この辺『信長公記』と『森家先代実録』は微妙にズレが生じているけど、原文を引用すると
長すぎるので簡潔にまとめ。
■『信長公記』:
・2月14日、武田方の飯田城敗北。
・2月15日、森長可、撤退に遅れた敵を市田という所で十騎ばかり討ち取る。
・2月16日、織田軍別働隊(木曽路コースチーム)が鳥居峠で武田方と戦う。
・2月17日、総大将の織田信忠、飯田に到着。武田方の大島城攻めに取りかかる。
■『森家先代実録』:
・2月15日、織田軍別働隊(木曽路コースチーム)が鳥居峠で武田方と戦う。武田方が深志城(松本城の前身)へ撤退しているところを小笠原信嶺(織田軍に寝返り済み)が長可に密告、長可は大嫌いな川尻肥前守(味方)と毛利河内守(味方)にはそのことを教えずに、自分たちだけで雑兵四十ばかりを追い討ちにかける(そして信忠には味方を出し抜いたことを怒られる)。
・2月16日、信忠より飯田城攻めを仰せつかるが、川尻肥前守(味方)と毛利河内守(味方)は森長可を わ ざ と 出し抜いて一番乗りを決める。後で彼らの飯田城攻めを知った長可は出遅れてしまい、かなりの屈辱感を味わう。(゜皿゜;)
・2月17日、川尻肥前守(味方)と毛利河内守(味方)に二度と出遅れてなるものかと森長可、先に「大島城を乗っ取りました」と信忠に注進してから武田方の大島城攻めにかかる。しかし、敵はすでに夜間に逃げだして、もぬけの空だった。
・同じく17日、撤退し遅れた敵があることを地元民の内通で知り、長可の先手の者が市田口で四十ばかり討ち取る。 |
味方の川尻肥前や毛利河内守秀頼が、大嫌いな森長可を出し抜いて一番乗りをあげた飯田城。飯田城内の敵はこれ以上は無理と思って夜のうちに城を開いてしまうが、これを後から、二、三里離れたところで聞かされた森長可も駆けつけて敵を攻撃した。
しかし、川尻や毛利ごとき(上から目線)にしてやられた屈辱が長可には許せない。
そんな飯田城なのだけど、ここは江戸時代にも機能していた城なので、新しい遺構が多かったような気がする、二の丸の一角から中世の空堀跡が発掘されたともいうけれど、戦国時代の名残がよく判らないばかりか、城内には博物館があってナウマン象がいた。
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飯田城跡
長可が嫌いな毛利秀頼が豊臣政権の元で飯
田城主になったこともある。
本丸跡は一部、神社の境内になっている。 |
飯田市美術博物館
ナウマン象あります。
この時はちょうど特別展「信州飯田領主堀侯」
が開催されていた(観てない)。 |
飯田市内の長久寺の裏山には長可の大嫌いな「毛利河内守」の墓と伝わるものが残っているけど今回は行く時間がなかった。
■市田(長野県下伊那郡高森町)
梨野峠 |
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飯田城跡 |
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市田 |
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大島城 |
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伊那口 |
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高遠城 |
『信長公記』と『森家先代実録』では記述と日付が違うが、森長可が逃げる敵を追って討ち取ったという市田の地を訪問する。
町の様子をうかがうに、「市田柿」がここの名産のようだ。
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市田(地名)
森長可にここまで追ってきてもらえた人がうら
やましい。 |
市田に来た感動を文字で見たいために市田駅にまで行った。駅の写真をパシャパシャと撮った。鉄子と思われただろうか。
■大島城
梨野峠 |
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飯田城 |
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市田 |
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大島城 |
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伊那口 |
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高遠城 |
次は大島城を目指した。武田信玄の弟の武田逍遥軒が守っていた城だけども、この城主、織田軍と対峙することなく逃亡してしまい、長可が攻めこんで行った時には城は既にもぬけのからだった。
ちなみに、飯田城攻めで川尻や毛利に出し抜かれて、すっかり頭に血がのぼった森長可、大島城を攻め込む前日には
「もし人の後ろにいようという奴がいれば暇を出すから在所へ帰れー!(゜□゜)」
と味方を鼓舞し、「大島城を乗っ取らねば死ぬから」宣言をして、大島城に行く前から織田信忠に『大島城を乗っ取り候』と注進していた。
嘘から出た誠であるが、よかったよかった。
でも、長可が毛利たちをうまく出し抜いて、どんなもんだいの大島城は結局、毛利河内守が預かることになる。
そんな大島城は天竜川を背景にして築かれた何とも風情のある武田流の城だった。
熊はいない気がするけど、せっかくなので熊よけ鈴をリュックに装着して城を散策する。
入口にある三日月堀(しかも二重!)と丸馬出にすごいと興奮したものだが、なぜか城を縦半分にコンクリ道でぶった斬り、全体をマレットゴルフのコースにしてしまっていた。
ああーあ、さらにはそのゴルフのゴール付近には大島城落城の慰霊柱が建っていたのだが…。
いや、そもそもマレットゴルフって何?武田は関係ある?
■伊那口
伊那口って正確にはどこなのかわからないので、とりあえず伊那市まで進んで行ったが、今回は長可が落城せしめた高遠城へは行かなかった。
梨野峠 |
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飯田城 |
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市田 |
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大島城 |
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伊那口 |
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高遠城 |
だって、高遠城は桜の名所ゆえ、絶対に交通渋滞するし、高遠城にたどり着いたところで花見客でごった返していると分かっていたのだから…。
でも、その手前の伊那市街地ですでに車の渋滞が起こり私の車も容赦なく巻き込まれる。
しかし、この後起こるもっとどびっくりな悲劇には我はまだ気づくよしもなかった。
■番外編の諏訪上社(長野県諏訪市中洲宮山)
夜になってしまったけど、カーナビを信じてほとんど車通りの無い峠を泣きながら越えて諏訪市に入り、諏訪大社上社にお参りした。
今回スルーした高遠城攻めに関する話であるが、三義にある遠照寺の伝承を信じれば、森軍は諏訪経由で高遠攻めに入った。諏訪から峠を越えて三義の谷に入り、その時に森軍への食事の炊き出しに応じた遠照寺に対して森長可は諏訪大社上社でパクってきた「坂上田村麻呂の陣太鼓」を寄進しており、それが今に伝わる(私も実物を二度拝観しました)。
その陣太鼓が元々納められていたのが諏訪上社の普賢堂という。
しかし、私が諏訪上社に到着した時には境内は真っ暗で、他に人もいない冷たい空気の中での参拝。普賢堂の有無も何も確認できなかった。ご朱印ももらえず残念…。
なんか、土足でいいのかわからない渡り廊下を靴はいて歩いた気がするけど、わざとではないので、神様赦してください。
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諏訪大社上社の鳥居
信濃国の一宮
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諏訪大社上社
諏訪大社のサイトによれば、「天正十年(1582)
に織田信長の兵火のため、山中に逃れた神輿
の他はすべて焼失しました。 |
諏訪市内ですでに夜7時過ぎ。長野市内に予約した宿のチェックイン時刻は夜8:00だったので、諏訪インターに入る前に「すみません、遅れます。」と宿に電話したら、宿の人に「遅くなるようでしたら、こちらとしてはキャンセルしていただきたいのですが。」と思ってもいないことを言われてびっくりした。Σ(゜□゜;
結局、予約宿をキャンセルすることになり途方に暮れる。(゜□゜)
とりあえずは長野自動車道に入って走って長野市内に向かう。途中、梓川サービスエリアで休憩して槍ヶ岳の方を向いて信濃そばを食べつつ、「サイアク、松代城跡で野営するのだろうか…。」と泣けてきた。さすがに今日は疲れ切っているのに…。
夜10:00ごろに長野市内に到着して、結局、善光寺そばのネットカフェに泊まることとあいなった。
よもや自分がネカフェ難民と化すとは夢にも思わなかった。信濃とは恐ろしいところだ。森長可や忠政もこのような思いを…。
ネットカフェで売っているタオルを買ってシャワーを浴びる。ふ、チープなタオルが水をはじくぜ。
目の前にPCがあっても、疲れ果ててリクライニングソファの上でぐったり。かと言っても、両隣のブースからいびきが聞こえるし、店の電気は消せないし…女性客は私だけだし…眠れない。
眠れないよぅ!
長編マンガを読む気力もなく、『女性セブン』をブースに持ちこみ読んで過ごす
in 長野
今回の旅は往復夜行バスだし、ああ、まっすぐな場所で眠りたい(ToT)!!!!
そして私は悲劇に浸り、その時すべき最も大事なことを忘れてしまって、さらなる悲劇を招いたのであった。
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