森長可信州侵攻ルートを追ってけツアー
       
武蔵塚にあったQRコード


           
 2010年4月9日(金)-10日(日) in 信州メイン 

■ 2010年4月9日(金) 森長可公ご命日


 人は誰もが皆そうであると思うが、毎年、4月9日の森長可のご命日が近づくたびに仕事が手につかない

 いてもたってもいられずに、やはりここは私も森長可のお墓参りに行かねばならないと私も有給をもらい、夜行バスで名古屋まで行き、藤ケ丘駅そばでレンタカーを借りて長久手古戦場武蔵塚へまっしぐら。

森長可の死地に建てられたという武
蔵塚は一面の桜。地面も花の絨毯と化していて美しい。
ご命日の武蔵塚
朝はまだ花見客もおらず、ゆったりとお参り。
武蔵塚の敷地
当時の小山の面影だろうかこの丘陵。

 今回は、森長可が天正10(1582)年の信州武田攻めに使ったルートを使って北上し、森家の居城であった松代城跡(海津城、待城)を折り返し地点にして、本能寺変の後に森長可が居城の金山(現在の兼山)へ帰った撤退ルートを使って戻ってくるという計画を立て、立ち寄る史跡をモリモリと盛りまくってみた。


より大きな地図で 信州の旅 を表示



 武蔵塚を後にして、信州攻めの起点となる森家の本拠地の兼山(可児市)に向かうことに。
武蔵塚を去って15分くらいして、東海にお住まいの団地猫さん@森家ファンが武蔵塚を訪問してケータイに「今この瞬間の」武蔵塚の画像を送ってくれた(ありがとうございました!)。
私はその画像を眺めつつ、『これが私の行った15分後の「武蔵塚なう」か…』と感動したのであった。
ひっきりなしに(2名)訪問されて、本当に愛されているね、森長可は。

 兼山に到着すれば、まずは可成寺に詣でて森一族の墓前に兼山入りのご挨拶。

大龍山可成寺の山門
森可成の菩提を弔うために建立された森家菩
提寺。
大龍山可成寺山門の額
可成寺の山号「大龍山」。
大龍は森可成の父・可行の法号に由来する。
『可成寺記』

 兼山に行くと事前連絡してなかったけど、「兼山の師匠にも顔出してみよー。」と、師匠の職場の窓に外から貼りついてみた。

(O。O;)←師匠に、こんな顔された。

 信州ルートについてアドバイスを聞き出そうとすると、「一人で行くなんて無茶しおって!」と、はたかれそうになるも、私の計画はスペースシャトルで宇宙へ行った山崎さんほど無茶でもない。

 兼山を去る前に、去年の発掘調査で掘り出された金山城下の米蔵跡の石垣を見学した。石垣がきれいに掘り出されていて藪も伐採されており、いつも通行していた場所にコツゼンと現れた石塁に狂喜。一人でまつり状態である。

米蔵跡の石垣
平成21年の
発掘調査では、山頂の城址と同
年代のものとみられると結論づけられた。
米蔵跡の石垣
戦国の薫りをただよわせる自然石の石積み。

 しかし、ここで満足してはならないのだ。
織田軍(森長可)の侵攻ルートをたどる旅に出発だ。

■ 森長可の武田攻めルートをたどる。

岩村口(岐阜県恵那市) 

これが行きの武田攻めルート前半である。文献の地名を拾ってたどる。
金山 岩村口 妻籠 清内路口 木曽峠 梨野峠

併せて、生意気にその参考文献も載せてみる。

『信長公記』:二月三日、三位中将(織田)信忠、森勝蔵、団平八先陣として、尾州、濃州の御人数、木曽口、岩村口両手に至つて出勢なり。

『森家先代実録』:信忠卿信州御進發付、御先手長可君、川尻肥前守、毛利河内守、塙平八郎、水野監物、瀧川左近将監等、二月十二日未明に岩村ヨリ伊奈口へ打越申候。

 はや、スタート地点で予定時間をはるかに下っていた時間の都合で岩村口近辺は高速というもので通過した。
中津川インターを降りてからは19号線(東山道)を使う。19号線をそのまま行けば木曽路に入り、長野を北上できるが、しかし今回は森長可に習って道を逸れて妻籠へ入り、その先は木曽峠を越え、梨野峠経由で飯田に出て昔の三州街道(伊那道)へ抜けることにする。
しかし、今から思えば、地図を見ているだけでは道のアップダウンは分からないから、一日の移動距離としてはかなり甘いスケジュールを立てていた…。

19号線をまっすぐ行けば木曽路なれど
長可ストーキングにより、道を逸れて妻籠
向かう。

妻籠(長野県木曽郡南木曽町吾妻)

金山 岩村口 妻籠 清内路口 木曽峠 梨野峠


江戸時代には宿場にもなっていた妻籠だ。今は観光地にもなっている。

『信長公記』:二月十四日、信州松尾の城主小笠原掃部太輔、御忠節仕るべきの旨、
申上ぐるに付いて、妻子口より団平八、森勝蔵(長可)先陣として晴南寺口より相働き、木曽峠打ち越し、なしの峠へ御人数打上られ候処、小笠原掃部大輔、手合せとして所々に煙を揚げられ、


『森家先代実録』妻籠口の先陣長可君、塙平八郎被向候處…信州松尾城主小笠原掃部助信嶺御味方参、忠節可申上由申越候付、長可君、團平八、川尻肥前守、御先手被仰付晴南寺口ヨリ相働木曽峠ヲ打越梨峠へ人数ヲ押上候処、為手合小笠原掃部助在々所々烟火ヲ挙る、長可君の衆妻籠押寄、銕炮打懸候処、敵怺かたく早々退散いたしけれは物初め吉しと諸勢勇む事限りなし


妻籠までは車で楽々通過!
運転中に停止できるスキを狙って車内から撮影するので、結構画像の失敗が多い。
どこかに駐車してから撮影と思っていたのに、道も狭くて路上駐車できそうになく、車を停めるなら有料駐車場に停めろという観光地特有のプレッシャーに負けて、ホントにただの通過になってしまった。

 さて、森長可は当時の”一番領地の近い人が先鋒隊になる”ルールとして、総大将の織田信忠の先鋒を務めて妻籠に入った。
 織田軍の侵入を当時、信州にいた武田軍は私と違い、「カモーン!(^O^)/森家だーいすき♪」している訳ではないので、妻籠口で両者の競り合いも起こった。
しかし、一方では松尾城の小笠原氏のように、織田軍に寝返ってくるものも多く出てきたのである。

妻籠
256号線だ。陸橋に「妻籠」の文字を見つけて
撮影。縮小すると見えない…。
妻籠通過中
森軍も押し寄せた妻籠。
今は観光地。

 妻籠を抜け、旧・清内路村へ向かう路を走行する。



清内路口

金山 岩村口 妻籠 清内路口 木曽峠 梨野峠


 清内路口(晴南寺口)というからには、村へ至る路の入口あたりということだろうから、路の岐路を指すのだろうか。かつて清内路口と称していた所はもう通過してんのかなぁ…などと考えつつ、蘭(あららぎ)を抜けると、峠越えが始まる。しかし、いいなぁ、「蘭」という地には看板に「蘭」の字ばっかで嬉しくなってくる。



木曽峠(長野県木曽郡南木曽町)

金山 岩村口 妻籠 清内路口 木曽峠 梨野峠

 で、清内路峠を越えて木曽峠(大平峠)の入り口まで来た。
現在は、車道経由で抜けると、うねうねしつつも、一気に飯田市に出ることができる。
しかし待て。(・_・;)
文献を見る限りでは、森軍は木曽峠を登り、梨野峠を経由して、清内路方面から飯田に出たように窺える。この8号線を突っ切って飯田に出てしまえば、森長可が飯田に出るのにわざわざ使った梨野峠(木曽峠とは方向が違う)はどのタイミングで通るんだ(汗)?
旅に出る前も地図の前で悩んだけど、答えは出ず、現地に行って解決するしかなかった。

木曽峠入口
清内路へ向かう256号線より、木曽峠(太平峠)
8号線の入り口。

 数時間前にお会いした兼山の師匠が「太平峠は新しく開通させた道だから長可は通るはずない。」とおっしゃってたが、この車道がその開通したという道なのか?
でも、地図を見る限りは車を使って木曽峠へ行くには、この道を通らねばならない。どうしよう…。
 迷った挙句、師匠の預言(違)に従い、木曽峠の道(8号線)へは行かずにそのまま旧・清内路村を目指した。いや、選んだ256号線道とてやがてはウネウネと蛇行する狭い道と化して結構、緊張と不安のドライブが続いた。
長野県下伊那郡阿智村清内路にそのまま入る。

旧・清内路村
ようこそせいないじ村

 梨野峠(長野県下伊那郡阿智村清内路)

金山 岩村口 妻籠 清内路口 木曽峠 梨野峠


 建物は今風なのばかりだけど、清内路はこじんまりとした村だ。
役場を見つけたので入って行って、
「織田軍の侵攻ルートを追っているんですが、どう通っていったんでしょうか?」
といきなりハイレベルな質問をぶつけてみた。しかし、敢えて「森軍」と言わず、真のターゲットを隠して「織田軍」と言ってみるところが自分でもちゃんと人さまに気を遣っているな、という感じがした。
 とりあえず梨野峠へのルートは教わり、地図もいただいたり購入したりした。
わかったこと。

清内路峠(木曽峠付近)に当時、武田氏が関所を置いていた。
昔は梨野峠を越える道がいわゆる「伊那街道」。
木曽峠から梨野山に出る道がある。
梨野峠から行ける高鳥屋山(たかどややま)は織田軍が武田軍攻略に利用したと伝わる。

 木曽峠から、梨野峠を通過して武田氏の関所を通って飯田に出るのが、昔の限られたルートの一つだったようだ。織田軍がどういう状況でこの関所を通過したのかは私の知っている限りの文献には登場しない。当時どれほどその関所が機能していたかも調べてないのでよく分からない。でも、長可は関所破りは得意分野だ。長可は敵の関所のみだけではなく味方の関所すら破る事もあるくらいだ。

 森長可がたどったコースが分かってなんだかワクワクするのだが、そのコースをそのまま車を使って行ってみるのは無理なようだ。しかし、可能であればせめて足で梨野峠に登りたい。そのために、熊よけの鈴も持ってきている。森家の為なら熊と戦えるかも知れない。
 「ウォーキングでしたら、いちおうこのような物を作っていますよ。」と、役場の方にいただいた「梨野峠ウォーキングコース」にある情報では、『徒歩六時間でお手洗いなし。』
うわぁ!どんなプランだぁ!Σ(゜□゜;
今回は無理だ!いや、今回に限らずお手洗 いがないなんて無理だぁ!森長可はお手洗いはどうしてたんだぁ!

 とりあえずは梨野峠の麓で車でも入れる所までは様子伺いに行ってみる事にした。しかし、目の前に延びているのはカーナビには表示されないくらいに細い道。技術を駆使してなんとか軽自動車が入り込るようなち狭さで、左は山肌、右は沢。ちょっと遊び心で右にハンドルを切ってみればプチ崖を落てだ水の中にボテッ!と転倒してしまうような場所だ。それよりも山肌にこすって傷ついたほうがマシとも、なるべく左寄りでノロノロと進む。そんな道に入り込んでしまった事を後悔するも時すでに遅し。Uターンすることもままならずに先に進むしかない。もはやバックしかなくてもその技術が無いので、やはり水の中にボテッ!となってしまいそうだ。
先に進めば、ちょっと開けた場所があったので安堵すれば、そこには「アコ沢」という沢紹介の看板があった。いや、「アコ沢?」どっちなんだ。「あそこ」か「あんこ」か?
私は気が立ってるんだ!はっきりしてよ!!
私が車ごと転落するかも知れない沢がエロイ系なのか、かわいい系なのかわからないままである。

梨野峠にあるア●コ沢
サンショウウオを探す心のゆとりもなかった…。

 その先まで峠に至る道が続いていたけど、眼前にはショッキングなガケ崩れがあって、車ではこれ以上は無理だ。素直にアソコ沢看板の前で引き返す事にした。いつかまた、自分の足でこの峠を登りに来よう。それまでは、グッバイ・アソコ!

 で、峠の入り口を下れば、行きは気づけなかった清内路関所跡の石碑があった。
説明文を読んでみれば、武田氏が設けた関所を織田軍の先鋒隊の森長可と団平八が通過した事が書いてあった。関所を越えた有名人として森長可と書いてあるとはなんと殊勝な心がけよ…ビバ清内路!

清内路関所跡
この関所は武田信玄により創設されたうちの
一つで当時は峠に設けられて下条信氏が預
かっていた。江戸期に下方に移される。
関所跡のにあった石碑
主な通行者は次の通りである。
「森長可」の文字が輝く。

飯田城(長野県飯田市)

 私は普通の車道を抜け、飯田市に出た。急に車通りも家も道も増えて騒がしくなった。

梨野峠 飯田城 市田 大島城 伊那口 高遠城

 時間があれば、森長可はおろか蘭丸も戦後に信長の使者として関わることになる小笠原信嶺の居城であった松尾城にも行きたかったけど今回は時間がなくなってしまい、パス。そのまま飯田城へ向かう。

この辺『信長公記』と『森家先代実録』は微妙にズレが生じているけど、原文を引用すると
長すぎるので簡潔にまとめ。


『信長公記』
・2月14日、武田方の飯田城敗北。
・2月15日、森長可、撤退に遅れた敵を市田という所で十騎ばかり討ち取る。
・2月16日、織田軍別働隊(木曽路コースチーム)が鳥居峠で武田方と戦う。
・2月17日、総大将の織田信忠、飯田に到着。武田方の大島城攻めに取りかかる。


『森家先代実録』
・2月15日、織田軍別働隊(木曽路コースチーム)が鳥居峠で武田方と戦う。武田方が深志城(松本城の前身)へ撤退しているところを小笠原信嶺(織田軍に寝返り済み)が長可に密告、長可は大嫌いな川尻肥前守(味方)と毛利河内守(味方)にはそのことを教えずに、自分たちだけで雑兵四十ばかりを追い討ちにかける(そして信忠には味方を出し抜いたことを怒られる)。

・2月16日、信忠より飯田城攻めを仰せつかるが、川尻肥前守(味方)と毛利河内守(味方)は森長可を
 わ ざ と 出し抜いて一番乗りを決める。後で彼らの飯田城攻めを知った長可は出遅れてしまい、かなりの屈辱感を味わう。(゜皿゜;)

・2月17日、川尻肥前守(味方)と毛利河内守(味方)に二度と出遅れてなるものかと森長可、先に「大島城を乗っ取りました」と信忠に注進してから武田方の大島城攻めにかかる。しかし、敵はすでに夜間に逃げだして、もぬけの空だった。

・同じく17日、撤退し遅れた敵があることを地元民の内通で知り、長可の先手の者が市田口四十ばかり討ち取る。

 味方の川尻肥前や毛利河内守秀頼が、大嫌いな森長可を出し抜いて一番乗りをあげた飯田城。飯田城内の敵はこれ以上は無理と思って夜のうちに城を開いてしまうが、これを後から、二、三里離れたところで聞かされた森長可も駆けつけて敵を攻撃した。
しかし、川尻や毛利ごとき(上から目線)にしてやられた屈辱が長可には許せない。

 そんな飯田城なのだけど、ここは江戸時代にも機能していた城なので、新しい遺構が多かったような気がする、二の丸の一角から中世の空堀跡が発掘されたともいうけれど、戦国時代の名残がよく判らないばかりか、城内には博物館があってナウマン象がいた。

飯田城跡
長可が嫌いな毛利秀頼が豊臣政権の元で飯
田城主になったこともある。
本丸跡は一部、神社の境内になっている。
飯田市美術博物館
ナウマン象あります。
この時はちょうど特別展「信州飯田領主堀侯」
が開催されていた(観てない)。

 飯田市内の長久寺の裏山には長可の大嫌いな「毛利河内守」の墓と伝わるものが残っているけど今回は行く時間がなかった。



市田(長野県下伊那郡高森町)

梨野峠 飯田城跡 市田 大島城 伊那口 高遠城

 『信長公記』と『森家先代実録』では記述と日付が違うが、森長可が逃げる敵を追って討ち取ったという市田の地を訪問する。
町の様子をうかがうに、「市田柿」がここの名産のようだ。

市田(地名)
森長可にここまで追ってきてもらえた人がうら
やましい。

 市田に来た感動を文字で見たいために市田駅にまで行った。駅の写真をパシャパシャと撮った。鉄子と思われただろうか。



大島城
 

梨野峠 飯田城 市田 大島城 伊那口 高遠城

 次は大島城を目指した。武田信玄の弟の武田逍遥軒が守っていた城だけども、この城主、織田軍と対峙することなく逃亡してしまい、長可が攻めこんで行った時には城は既にもぬけのからだった。

 ちなみに、飯田城攻めで川尻や毛利に出し抜かれて、すっかり頭に血がのぼった森長可、大島城を攻め込む前日には
「もし人の後ろにいようという奴がいれば暇を出すから在所へ帰れー!(゜□゜)」
と味方を鼓舞し、「大島城を乗っ取らねば死ぬから」宣言をして、大島城に行く前から織田信忠に『大島城を乗っ取り候』と注進していた。
嘘から出た誠であるが、よかったよかった。
でも、長可が毛利たちをうまく出し抜いて、どんなもんだいの大島城は結局、毛利河内守が預かることになる。

 そんな大島城は天竜川を背景にして築かれた何とも風情のある武田流の城だった。
熊はいない気がするけど、せっかくなので熊よけ鈴をリュックに装着して城を散策する。
 入口にある三日月堀(しかも二重!)と丸馬出にすごいと興奮したものだが、なぜか城を縦半分にコンクリ道でぶった斬り、全体をマレットゴルフのコースにしてしまっていた。
ああーあ、さらにはそのゴルフのゴール付近には大島城落城の慰霊柱が建っていたのだが…。

いや、そもそもマレットゴルフって何?武田は関係ある?

大島城  
大島城跡
現在は台城公園として整備されている。
コンクリ道路で破壊された部分がもったいない。
三日月堀
美しすぎる武田流の三日月堀。
大島城本丸
桜も、もうすぐ満開。
本丸からも天竜川の流れが見える。

  落城四百年目の慰霊碑
本丸に建立されていた。
井戸跡
落城の折、お姫様が黄金の鶏を抱いてこの井
戸に身を躍らせた哀しい伝説が残っているらし
い。

  姫観音
井戸のそばにあった。
井戸で亡くなったお姫様を弔う観音様とのこと。


伊那口

 伊那口って正確にはどこなのかわからないので、とりあえず伊那市まで進んで行ったが、今回は長可が落城せしめた高遠城へは行かなかった。

梨野峠 飯田城 市田 大島城 伊那口 高遠城

 だって、高遠城は桜の名所ゆえ、絶対に交通渋滞するし、高遠城にたどり着いたところで花見客でごった返していると分かっていたのだから…。
でも、その手前の伊那市街地ですでに車の渋滞が起こり私の車も容赦なく巻き込まれる。
しかし、この後起こるもっとどびっくりな悲劇には我はまだ気づくよしもなかった。



番外編の諏訪上社(長野県諏訪市中洲宮山)

 夜になってしまったけど、カーナビを信じてほとんど車通りの無い峠を泣きながら越えて諏訪市に入り、諏訪大社上社にお参りした。
 今回スルーした高遠城攻めに関する話であるが、三義にある遠照寺の伝承を信じれば、森軍は諏訪経由で高遠攻めに入った。諏訪から峠を越えて三義の谷に入り、その時に森軍への食事の炊き出しに応じた遠照寺に対して森長可は諏訪大社上社でパクってきた「坂上田村麻呂の陣太鼓」を寄進しており、それが今に伝わる(私も実物を二度拝観しました)。
 その陣太鼓が元々納められていたのが諏訪上社の普賢堂という。
しかし、私が諏訪上社に到着した時には境内は真っ暗で、他に人もいない冷たい空気の中での参拝。普賢堂の有無も何も確認できなかった。ご朱印ももらえず残念…。
 なんか、土足でいいのかわからない渡り廊下を靴はいて歩いた気がするけど、わざとではないので、神様赦してください。

諏訪大社上社の鳥居
信濃国の一宮

諏訪大社上社
諏訪大社のサイトによれば、「天正十年(1582)
に織田信長の兵火のため、山中に逃れた神輿
の他はすべて焼失しました。

 諏訪市内ですでに夜7時過ぎ。長野市内に予約した宿のチェックイン時刻は夜8:00だったので、諏訪インターに入る前に「すみません、遅れます。」と宿に電話したら、宿の人に「遅くなるようでしたら、こちらとしてはキャンセルしていただきたいのですが。」と思ってもいないことを言われてびっくりした。Σ(゜□゜;

 結局、予約宿をキャンセルすることになり途方に暮れる。(゜□゜)
とりあえずは長野自動車道に入って走って長野市内に向かう。途中、梓川サービスエリアで休憩して槍ヶ岳の方を向いて信濃そばを食べつつ、「サイアク、松代城跡で野営するのだろうか…。」と泣けてきた。さすがに今日は疲れ切っているのに…。


 夜10:00ごろに長野市内に到着して、結局、善光寺そばのネットカフェに泊まることとあいなった。
よもや自分がネカフェ難民と化すとは夢にも思わなかった。信濃とは恐ろしいところだ。森長可や忠政もこのような思いを…。
 ネットカフェで売っているタオルを買ってシャワーを浴びる。ふ、チープなタオルが水をはじくぜ。
目の前にPCがあっても、疲れ果ててリクライニングソファの上でぐったり。かと言っても、両隣のブースからいびきが聞こえるし、店の電気は消せないし…女性客は私だけだし…眠れない。
眠れないよぅ!
 長編マンガを読む気力もなく、『女性セブン』をブースに持ちこみ読んで過ごす in 長野
  
今回の旅は往復夜行バスだし、ああ、まっすぐな場所で眠りたい(ToT)!!!!
そして私は悲劇に浸り、その時すべき最も大事なことを忘れてしまって、さらなる悲劇を招いたのであった。

■ 我を討たんと旧民、我を待てり

松代城跡(海津城・待城)(長野県長野市松代町)

 早朝に目覚める…いつの間にか眠ってはいたらしい。
そして何より、生きてたんだ、私。
 森長可と森忠政が城主となった川中島の松代城跡を朝一番に訪問した。
なお、森長可時代にはこの城は「海津城」、忠政の時代には「待城」と呼ばれている。
なお、なお、「松代」の地名の元は、この城を「待代」とした森忠政だ。

 

海津城址之碑
松代城内にある。
森長可の時には「海津城」と呼ばれ
ていた。海ドコー?


 天正10年3月、武田家滅亡後に森長可が織田信長から信濃四郡を拝領した時、長可はここ、海津城(現・松代城)を居城とした。
同じ年の夏に本能寺の変が勃発するまでの短い城主だった。
 その過程で、長可は海津城に入ってくるなり領民に一揆は起こされるわ、海津城を放棄して出ようとすると一揆を起こされるわ、行きも帰りも、さんざんてこずらせられた。
 森家とはそりの合わないこの同地を、長可の一番末の弟・森忠政が豊臣政権下の時分に徳川家康より勝手に拝領した時に、領民は長可の弟のオレも討とうとしてオレを待っているんだろうなー。と、いうことで、海津城が「待城」となったが(異説あり)、かくして森忠政と領民も、あんまり反りが合わなかった。
 と、いうか、忠政は「家康公は兄の旧領を私にくださった。」と感謝しているが、本当は内心は全然嬉しくないんじゃないのか。「金山をとりあげて、兄ですら四苦八苦したこんなデンジャラスゾーンに飛ばしやがって、家康コノヤロー!」ではないのか?(←あくまでも私の想像。)

 松代城跡の開城時間は朝9:00なれども、まだ誰もいない松代城を散策したくて早朝7:00くらいに行ってみると100人くらい人がいた。
Σ(゜□゜; 何なのだ、嫉妬するほどのこの人だかりは!
 なんか、この日はさくら祭りとウォーキングラリーとかがあるらしく、人がこぞってガヤガヤと準備している。うう…。城の撮影スポットに看板立てないでくれ…。
 イベントのせいか、9:00からオープンのはずの松代城本丸も早くに城門が開いたので、「いいのかな?」と思いつつも中に入った。
城内の桜はまだ半分咲いているくらい。
しかし、はるばる遠くから目指してきて、今ようやく森長可と忠政のいた空間にいるんだ、と、何ともいえない感動で体が奮い立つ。また来ることができて嬉しい。
 松代城の縄張りには三日月堀など、武田が築いた海津城の名残りがあって、森長可のいた頃の面影が残っている。私は真田なんてアウト・オブ・眼中。

松代城(海津)跡
主に森家とゆかりのある城。真田なんて知らな
い。千曲川を取り入れたみずみずしい城。


 森家の史跡であるこの城跡をデジカメで撮り尽くさんと、城の細部に到るまでを撮影し始めた。
ところが、憧れの松代城を眼の前にして、10枚ばかり撮影したところで、あっさりとデジカメのバッテリーが切れてしまう。
 私は旅の一番の目的としてこの城を撮りに来たのに、昨夜の混乱でデジカメバッテリーの充電を忘れていたのだ!!Σ(゜□゜;

またしても途方に暮れる。
思案の末…「死のう…」などとつぶやいていたが、やはりこの城はすごい。松代城には、コンセントがついていたのだ。うん、長可が越後攻めの本拠地にしただけの事はある。
 あのコンセントに充電器を挿したい…それはもはや渇望に近い。今日めぐる森家史跡の貴重さを思えば、やはりデジカメが使えないと嫌だ。しかし、そのコンセントには、お祭り用のなんかが挿してある。抜きたい…しかし…。
 城内をうろつけば、松代城内のお手洗いにもいくつかコンセントがあった。この城にはコンセントが満ち溢れているのだな。
 結局、黙ってコンセントを使って松代城電気ドロボウになるのが怖くて管理事務所に相談に行っ たら、そちらで充電くだすった(その節は、本当にありがとうございました!)涙が出そうになるくらいありがたかった。
城内をくまなく散策し、真田宝物館で森家関係のものを探したりして充電を待つこと1時間。
 そして復活したデジカメとともに、松代城跡の撮影を再開した。
 

松代城(海津城)跡
正面全景
江戸期の真田氏が居城として使ってしまった
ものの、築城当初の雰囲気もちゃんと残ってい
る。
太鼓門と前橋
前の門と太鼓門とで攻めると必ず殺される感
じの憎い角度の爽やかな内枡形になっている。
埋門
ちっこい通路の埋門。
敵がきたら穴をふさいで通行禁止にする。
二の丸
六文銭をあしらったステージでさくら祭りイベン
ト中。

戌亥隅櫓跡
まるで天守台のように大きな櫓台。
戌亥隅櫓跡
野面積みで積まれていて、森家も見知ってい
た櫓かも知れない。
 

 森忠政も攻めた上田城にも行くつもりが、朝のバッテリートラブルで時間がなくなりパス。
で、今日は純粋に森長可の信濃撤退コースを進むことになった。

 天正10(1582)年6月、海津城を拠点に上杉景勝の領地の越後にまで踏みこんでNHK大河ドラマデビューも果たした森長可であったが、異郷の地に残酷な訃報が届く。

 織田信長・信忠父子が京都でご生害。
そればかりか、弟の蘭丸・坊丸・力丸までもが討ち死にして既にこの世の人ではないという。

 長可の判断は早かった。海津城へ戻り評議の上、この上は一刻も早く上京して信長公の弔い合戦をして明智光秀を討ち滅ぼさん(『森家先代実録』)とするが、でも、うざい邪魔が入る。
 数ヶ月前には長可に帰順した武田方の城主や荘官の春日周防などが「人質を還さねば帰路を遮るぞ。」と脅しをかけてきた。これには長可大いに怒り、人質は返さないことにした。

長可:「汝ら我を討たば、我また汝らを討ちて信長公を弔ひ奉るべし。」

上京はどうなった??!!



猿ケ馬場峠(長野県東筑摩郡麻績村)

松代(海津)城 猿ケ馬場峠 麻績 松本(深志)城 福島城跡 大井 金山

 六月十八日、長可が手勢三千五百を連れ、また、川中島で得た人質も連れたまま海津城を出立して帰途につく。かくして一揆軍三千が後方より湧くがごとくに襲ってきた。

『信長公記』
 う…信長が死んだから、もうその後の記述ないんだった…orz


『森家先代実録』:一揆の奴原喰留ンとて又追來る折節、猿ケ馬場の峠峯麓も雲霞不見分故後陣攻合あり共不知して先陣千餘騎は峠ヲ越て麻績の在家へ入て休ミ居ける由 

  森長可は、北国西街道(善光寺道)より木曽路を抜けて金山に帰るコースを選んだようである。
旧武田勢やジモティー達は、しつこく長可を追い、ついに森軍の後方は敵と遭遇して競り合いとなり、重臣の野呂助左衛門らは引き返し加勢し、猿ケ馬場峠の高低を生かして上より敵を雪崩落とすようにして戦った。
  でも、前を行く森軍の先手はそんな後方の戦いも知らずに、麻績の在家で休憩中(^O^)。

 さぁ、私も車でその猿ケ馬場峠を目指して行った。
 長可が通ったであろう昔の街道は舗装もされておらず当然、車で入れないばかりか、普通に「くまに注意」と書いてある…。
レンタカーを乗り捨てして街道に入ることもできず、運転して403号線を進んで行った。そこから山頂あたりで猿ケ馬場峠に合流できると信じるしかない。山の中を進む403号線は非常にくねくねと蛇行した道で雪も残っている。…凍結時は、ずり落ちそうだ。
 403号線の山頂あたりはモロ街道と接触しており『猿ケ馬場峠』と書いてあって、案内看板も立ててあり、湖もあって釣り人もいて、色々な施設もあって、観光客もいて、賑わってるじゃないか!Σ(゜□゜;

 猿ケ馬場峠の看板にあった文言をそのまま抜き出す。

『戦国争乱の天正十年(一五八二)六月、信越国境を越え関川まで侵入し本能寺の変で急遽、引き上げる海津城主の森長可が、この峠で盾の人質を斬り捨てている。』
(案内看板)


これだけ読むと、何も知らない人からすれば、森長可が「あー、連れて帰るのめんどくせー」的に人質を殺しちゃったように読めて、こっちとしてはいたたまれないんだけど…。
 ちなみに『森家先代実録』には、長可が金山城に帰城までのことが地名も交えてかなり細かく書かれているのに、この峠で人質を斬り捨てたことは書いていないし、森長可の養子にした人質・森庄助(荘官・春日周防の子)以外はこの先の松本近くで返してやっていることが述べられている。優しいんだぞ、森長可は。あ、ちなみに森庄助については、長可が人間無骨の鑓で刺し殺した。
 信濃側の資料や伝承ではこの峠で人質が斬り捨てられた話があるのだろうか、気になるところだ。というか、せめて「人質の親御さんとかが長可に反旗を翻したので、そういう背景のもとで長可はここで人質を斬り捨てている」くらい書き足してくれ…。

「猿ケ馬場峠」403号線
この景色のちょっと先は見事、観光地と化して
いた。標高964m。

猿ケ馬場峠の看板だくまー!
人質もここに捨てないで。

 嬉しくも、峠の駐車場に車を停めて、昔の街道に入りこむことができた。この道は川中島から直線的に来て、麻績、松本、洗馬に抜けることができたらしい。
 福岡に住む私は信州の土地にうといが、まさしく『森家先代実録』にある帰国の過程(川中島→猿ケ馬場→麻績→松本→洗馬→大井→金山)どおりに道が続いているのが分かって嬉しい。
 って、長野県は山国だから、道が限られてしまうことも実際に車を走らせてよくわかった。

「猿ケ馬場峠」北国西街道(善光寺道)
昔は最大の難所とされていた峠。
北国西街道(善光寺道)
403号線から道路脇の山に入れば
昔からの古くて細い道。
 



麻績(おみ)(長野県東筑摩郡麻績村)


 そのまま
北国西街道(善光寺道)にからまるように延びる403号線を進めば自然と麻績にたどり着く。

松代(海津)城 猿ケ馬場峠 麻績 松本(深志)城 福島城跡 大井 金山

 長可が通過した日の猿ケ馬場の長い峠は濃霧で視界が悪く、後方で起こっているバトルも知らずに森長可を含む先手は先に麻績にたどり着き、人ん家で休憩していた。
 
 もしやこの麻績村には森家に関する伝承とか残ってないだろうか。あるといいなー。なんかプレゼント残してないかなー。

麻績村の集落
長い猿ケ馬場の峠を越えて、長可も麻績で
休憩。

松本(長野県松本市)

 麻績を抜けて更に走れば行けば、松本市街地に出る。

松代(海津)城 猿ケ馬場峠 麻績 松本(深志)城 福島城跡 大井 金山

長可は松本で川中島の人質を返した。
ただし、春日周防の子・森庄助は長可が烏帽子親にまでなったのに実親が裏切ったということで赦さず、青柳(東筑摩郡坂北村)という場所で長可みずからの手で殺された。
 松本では長可は新たに小笠原信嶺などから人質をとっている。信嶺の人質もこの先の福島で返却することになるし、福島では木曽義昌の子を人質に取って金山まで連れ帰り、いわゆる「人質リレー」でうまく金山まで帰ってゆくことになる。信濃は元は敵地だけに、そこを抜けだすのは本当にサバイバルだったんだな…。

 深志城には興味があるが、その後身としての松本城にはあんま興味がなかったので「100名城スタンプ」のみ押して出て行った。

国宝・松本城
もとは深志城だが本能寺の変のどさくさに
まぎれて松本城と名前が改まった。

  しかし、松本の市街地の交通渋滞には困難した。これでまたずいぶんと時間をロスしてしまった。松本中心地の道は攻め込むのが困難な当時のままの道なのか、構造がおかしい気がする…。そして私は長可と同様に塩尻から木曽路へ続く19号線へ入り、洗馬塩尻あたり)を走る。

 洗馬で長可は、馬買いに身をやつした金山の町人・道家弥三郎に遭遇する。
弥三郎は長可の無事を喜びながらも、本能寺の変で諸国が混乱しており、苗木城の遠山久兵衛と福島城の木曽義昌が談合して福島で長可を暗殺する計画を立てており、もし福島でそれに失敗したら暗殺計画第二弾で千駄林(千旦林・中津川市)で討つ話になっていることを進上した。
また、他にも東美濃の諸将が長可に反旗を翻す動きを見せているという(『金山記』)。
 これを聞いた長可、カッチーンン!(怒)!!!

木曽路
19号線。真横に木曽川。

 私は長可に憧れて初めて木曽路を走ったが、有名な路であっても片道一車線しかなくて、スピードを出すと道なりにある標識に『スピードが出ています。』などの警告が表示される。あれはセンサー式なのか?しかも、車道の真横が木曽川で、山と川の間の狭隘の地をなぞるようにして人々が家を建てている。水位によっては道路は閉鎖するような事が書いてある。
他の車はトロトロと安全運転する。時間が無い私が前の車をごぼう抜きにしたくても一車線なので抜けない。

「Σ(゜□゜;こ、このペースではレンタカーを名古屋で返却する時間(19:00)に間に合わなくなるのでは!!!」と、結構、深刻な時間になってくる。いや、下道を走り続けて松本あたりで何となくそんな気はしていた。レンタカーのカーナビの到着時間は名古屋の到着予想時間「21:00」とか恐ろしいことを表示するし、そこまで遅くならないとは分かるが、どうにも時間が読めない。しかし、焦っても、片道一車線では前の車たちを抜くこともできない。高速道路もこっちにはない。



福島城跡(長野県木曽郡木曽町…登る暇なし)

松代(海津)城 猿ケ馬場峠 麻績 松本(深志)城 福島城跡 大井 金山

 自分の暗殺計画があることを知った森長可は、行く先の福島の地を拠点にしている木曽義昌に、先達て使者を立て、”自分は京都の大変(本能寺の変)に驚いて上京しているが、一揆に遭ってしまい人馬ともに疲弊している”と告げつつ
『明晩には福島に到着できるので、貴殿の館で一宿をお願いしたい。』
という旨を連絡する。

 使者を受けた木曽殿は苗木の遠山氏にも知らせて、長可暗殺計画をたくらみつつ、明日を待った。

興禅寺
福島城下の木曽家の菩提寺。
木曽義仲や木曽義昌の墓がある。
木曽家代々の墓
これとは別に義昌の墓があったようだと後に
なって知った。

ドォーーーン!

 (木曽義昌は)密計をめぐらし、明日を待ち居たるに、其の夜九ツ頃に思ひもよらず大軍、木戸大門を打ち破り、はね返して雷の落ちかかるが如くに鬼武蔵こそ乗り込んだり。『金山記』

 「明日、福島に行きます。」と、長可からの連絡があったその真夜中に福島の木曽義昌の館の城門を破壊して訪問してくる人がいた。
森長可である。
 木曽義昌は太刀を取るが、森長可は「夜陰にまぎれて押し込んで御免候。」と非常に慇懃に礼儀正しく挨拶する。やっぱり森家の人は品行方正で礼儀正しいのだ。
「私も早く金山に帰城したいし、そのうえこの暑さで兵馬も痛々しくて、短い夜の涼風を幸いにして急いでまいりました。」
それに対して、木曽義昌は夢でも見てるかの感じでシドロモドロの挨拶。義昌の家臣らも驚いて慌てふためいた。
 その間、長可の家臣は木曽殿の屋敷を家宅捜索して義昌の嫡男・岩松丸を長可の前に引っ張ってきた。

長可:「なんと、器量のすぐれた子だ。私にはまだ子供もいないし、
この子を養子にしよう。」

それを聞いた木曽家中は顔面蒼白。義昌が懇願するも空しく、森家の家中は岩松丸を引きたてて馬に乗せた。

森軍:『今日までは木曽の郡主の子♪これよりは烏峰(金山)城主の若君よ♪隠れなき鬼殿の若殿よ♪』

森長可は再び義昌に丁寧に挨拶して、めでたし、めでたし、と、福島を後にした。
義昌は使いを出して暗殺計画中止の急報を苗木の遠山氏に届けた。

 私も、その真夜中の養子縁組ドラマが繰り広げられた木曽福島に到着。
一番見たいその木曽殿の屋敷跡はどこなんだろうか分からない。
しかも私は木曽義昌の居城の福島城(山城)に登るつもりでいたけど、時、すでに夕方。
帰りの夜行バスに乗れなくなりそうで危険である。残念だけど、城の麓にある木曽義昌の菩提寺の興禅寺にお参りだけして早々にまた車上の人となった。

※ あ、岩松丸ですが、もちろん養子にはせずに後日、木曽義昌に返してあげました。


大井岐阜県恵那市大井町…寄る暇なし)

松代(海津)城 猿ケ馬場峠 麻績 松本(深志)城 福島城跡 大井 金山


 私はどうにか木曽路を抜けたものの、時間的にかなりヤバいので、中津川からは中央自動車道の高速に乗って名古屋に向かった。
 本当は普通道で大井千団林(実行されなかった長可暗殺計画第二段の地)も行きたかったけど、やむを得ず3次元で通過。時間があれば苗木城や岩村城にも寄ろうと思っていた私のバカ!その上で金山城にも行ければと思っていた私のうつけ者!
もはや、帰りの時間に間に合うように高速を走って名古屋に必死に向かうのみだった。

 長可が海津城より率いてきた一軍は6月22日の夜明けを上松(木曽郡上松町)で迎え、大井で休息した。美濃まで出てくればもう命の心配も(あんまり)ない。
 目指す故郷の金山も、もうすぐだと、ようやく緊張から解放されて安堵したことだろう。

 しかし、森長可がようやく金山に戻った時には、討ち滅ぼそうとした明智光秀はすでに別の猿の手によって滅ぼされていた。
 森長可は、翌月には弟の蘭丸・坊丸・力丸の葬儀をあげ、まさにその日を初日として、自分を裏切ろうとした東美濃の諸将を攻め滅ぼしにかかったのだった。

 森長可・むすびの地

 
中央自動車道でかなりアクセルを踏みこんでたら、なんか時間に余裕ができてしまった(笑)。

で、また長久手の武蔵塚にお参りし、頑張って信州でストーキングしたことを報告した。
風が吹くごとに桜の房が揺れて花びらの散る、武蔵塚の景色がますます美しい。
武蔵塚
前日よりも桜の花が散っている。

 無事に藤ヶ丘でレンタカーを返却した。アソコ沢の狭くてエロい山道に車を無理矢理突っこんで走ったことは言わなかった。
 名古屋に出てテルミナの鈴の屋で味噌田楽を頬張る(あれだけ焦ったのに、この時間の余裕は何?)。

 私も、高低の激しすぎる峠だらけの長野の運転で緊張し続けたけど、ここでようやくホッとした…。 

夜行バスに乗って名古屋を去る。
結局、3日連続まっすぐな姿勢で眠れない私であった。
それでも、得たものの大きさに幸せを感じた旅だった。