金山城跡発掘情報


平成18年から平成24年まで7年計画の金山城発掘。
入手した関連情報はここに掲載していきます。

■外部リンク 市政だより『広報かに 平成25年8月1日号 NO.746』(可児市サイト)2013年7月31日


■外部リンク 『美濃金山城跡が国史跡として答申されました』 (可児市サイト) 2013年6月21日



  
■報告書 外部リンク 「国指定に向けた金山城跡の発掘調査報告(可児市サイト)」(2011/03/03)


■外部リンク 平成21年度の発掘調査(可児市サイト)

代官所米蔵跡発掘調査(←金山城の麓です。)

  • 代官所米蔵跡発掘調査報告 PDF
  • 代官所米蔵遺跡位置図 PDF
  • 代官所米蔵遺跡遺構写真 PDF

  • ■2010年2月28日付けの中日新聞より引用しました。[URL]←画像つき

     金山城跡を国指定に 可児市が申請へ「織豊系城郭の特徴」2011年2月28日

     可児市は、同市兼山の県指定史跡「金山城跡」を2012年度にも国指定史跡へ申請する方針を明らかにした。

     金山城は1537年に斎藤道三の養子、正義により築城された山城で烏峰(うほう)城と呼ばれた。1565年に森可成が、織田信長から城を与えられ金山城と改名。1600年に森家が国替えとなった後、城の一部が壊され、尾張藩領として一般人の立ち入りが禁じられた。

     市は5年がかりで調査を実施。城跡からは建物の柱の下に据える川原石の礎石が見つかったほか、建物や門に使ったと想定される瓦も大量に出土。城を壊した際の石垣も残り、「織豊系城郭の特徴すべてを備え、良好に保たれた東海地区で珍しい城郭」としている。石垣がない部分も岩盤を加工した跡があり、国指定を受けた岐阜城との共通性が見られるという。 (斉藤明彦)

    ■2010年2月25日付けの毎日新聞より引用しました。[URL]

     金山城跡:5次調査結果、多数の建物−−可児 /岐阜
     
    可児市は24日、織田信長の家臣・森蘭丸の出生地で、父可成や兄長可ら森家が城主を務めた同市兼山の金山城跡(県指定史跡)の第5次調査の結果を発表した。東部曲輪(くるわ)、伝左近屋敷、三の丸、出丸が対象で、多くの平坦(へいたん)面で礎石が確認され、瓦も大量に出土したことから、多数の建物があったとみられるという。今月末ごろには市のホームページで結果が掲載される予定。

     金山城は天文6(1537)年に斎藤正義が築城し烏峰(うほう)城と呼ばれた。元禄8(1565)年に可成に与えられ、金山城と改称。関ケ原の合戦後に破城となり、城の材料は愛知県の犬山城の築城に使われたとされる。

     発掘調査で、各曲輪に礎石を敷いた建物があり、石垣が築かれていたことが分かった。石垣のない部分は岩盤を加工していたとみられ、岐阜城との共通性もある。天守は瓦ぶきとみられ、飾り瓦のほか、施釉陶器など生活用品も出土。山石を加工せず、そのまま使う「野面積み」で築かれた石垣や礎石建物には信長や豊臣秀吉の時代の城郭「織豊系城郭」の特徴が見られ、良好な状態という。

    ■2010年1月7日付けの岐阜新聞より引用しました。

     森蘭丸ゆかりの金山城跡
    「北側石垣、全長46メートル」
    城と同時期に建設か−市教委が発掘調査−


     可児市教育委員会は、同市兼山の県指定史跡「金山城跡」の第4次発掘調査の
    結果を発表した。調査は、古城山北側のふもとの米蔵があったと伝えられる「伝
    米蔵跡」が城跡に付随する施設かどうか確かめるため、約1千平方メートルを対
    象に行われた。米蔵の遺構は確認されなかったが、北側石垣は高さ5−7メート
    ル、全長46メートルに及び、石の積み方から山頂部の城跡と同年代に造られたも
    のとみられることが分かった。
     同城は戦国武将森蘭丸が育ったゆかりの地で、調査は去年の10月から11月にか
    けて行われた。
     北側石垣は、表面を清掃し、土を掘り起こした。上部には近現代に、崩れた部
    分を補ったとみられる石積みがあった。土を掘り起こした部分の石は、山頂の城
    跡と同様に、安土桃山時代の石垣の積み方「野面積み」となっていた。
     「伝米蔵跡」の平たん面は、現在は児童公園。発掘調査では試堀用の幅2メー
    トルの穴を東西と南北の十字状に掘り、遺構を探した。北側からは川原石を積み
    上げた長さ6メートル、幅80センチの枡形の遺構が見つかったが、明治から昭和
    にかけて氷を製造、貯蔵する氷場として使われていたとの記録があることから、
    その貯水池と考えられるという。
    このほか、石垣周辺から安土〜桃山〜戦国時代にかけての素焼きの皿の破片や陶
    片が少数出土した。
    (2010年1月7日岐阜新聞より引用)

    発掘調査対象となった石垣画像です。


    2009/2.9 Yahoo!ニュースでとりあげられていました(以下ニュース記事)。

    金山城跡:大規模な建物の可能性 32個の礎石を確認−−第3次発掘調査 /岐阜
    2月8日11時0分配信 毎日新聞


     ◇可児市教委、第3次発掘調査
     可児市教委は、同市兼山古城山の「金山城跡」の第3次発掘調査の結果、二の丸で32個の礎石と思われる石が確認されたと発表した。同市教委は「屋敷か御殿のような大規模な建物があった可能性が高い」とみている。
     金山城跡では、以前の調査で6棟の建物跡が確認されている。第
    3次調査は、二の丸の礎石探しと、三の丸北曲輪(くるわ)の建物跡の確認が目的で、昨年10月から2カ月間にわたって実施された。
     二の丸の北側部分では、門の礎石になる石列を確認。中央部分でも、約1・9メートル間隔で最低でも3間×3間ある正方形の建物跡が確認された。南側にも直線的に並んだ川原石があり、中央部分の石列と一連の建物があったとみられる。建物は、屋敷や御殿などのような大規模なものだったと推測されるという。南側斜面では高さ1〜1・5メートル、長さ約35メートルの石垣も見つかった。
     また、三の丸北曲輪では、不規則に並んだ礎石や遺構、かわら片が出土。二の丸の埋土からも、黄瀬戸の小鉢がほぼ完全な形で見つかった。同市教委は5次調査まで行って、金山城の全容を解明することを目指している。【小林哲夫】
    ………………………………………………………………………………………………………
     ■ことば
     ◇金山城
     1537(天文6)年に斎藤道三の養子、正義が築城した烏峰城が前身。1565(永禄8)年に、織田信長の命で森蘭丸の父可成(よしなり)が城主となり、金山城に改名したといわれる。森家3代が城主を務めた。蘭丸が産湯をつかったとされる井戸などもあり、県史跡に指定されている。

    2月8日朝刊

    最終更新:2月8日11時0分

     


    可児市発掘調査情報(※リンク切れ)

    ■ 
    金山城跡第1次発掘調査(平成18年度)について(※リンク切れ)

    ■ 
    金山城跡第2次発掘調査(平成19年度)について(※リンク切れ)


    県史跡 金山城跡 発掘調査計画 - 2006/10/18

    1.目的
     岐阜県史跡に指定されている金山城跡の、詳細な範囲や遺蹟の保存状態を確認することを目的とします。この調査を継続することにより、城跡全体の詳しい図面を作成するとともに、建物配置や石垣の状況などを記録に残し、今後の城跡保護に役立てる基礎資料とします。発掘調査は、年度ごとに必要最小限の掘削を伴い7年計画で実施する計画です。

    2.調査期間
    平成18年11月〜12月の約2ヶ月間を予定しています。

    3.調査実施主体
    可児市教育委員会 担当課 文化振興課

    4. 今年度の発掘場所
    本丸部分の建物配置や石垣等、遺構の残存状況を確認します。

    5,調査方法
    (1)頂上の平坦な部分
    ・礎石などが露出している部分を基に、幅1.5m程度のトレンチ(部分調査用の試掘溝)を数本設定して礎石などの配置を調べ、本丸における建物について記録します。

    (2)斜面部分など
    ・石垣などが露出する部分については、除草や清掃をしてその状況を記録します。
    ・石垣が埋没している部分については、トレンチを数箇所設定して部分的な掘削を行い、作図などにより保存状況を記録します。

    (3)その他
    ・掘削は、すべて人力(作業員等7名程度)で実施し、調査終了後に埋め戻します。


    本丸部分発掘現場の様子:(鶴丸様提供)

    本丸天守台

    本丸穴蔵(小天守)
    本丸への登城道〜帯曲輪
    本丸天守台西側石垣・西南隅櫓石垣

    《追加》 2008.1.13撮影(鶴丸様提供)

    本丸穴蔵(小天守)

    西南隅櫓石垣