森家深追い


 2ページめ

ひこにゃん
かな?

        2009年10月15日-19日 in 京都と静岡と三重と兼山・愛知 

 ※これは旅行記の2ページめです。→1ページめ

■ 2009年10月17日(土) 伊勢侵攻を逆走!

 
 松阪の旅館で朝を迎える。
折角、松阪に来たのだから、ついでに松阪城跡に行ってみるか。
…ということで、朝ごはんをコンビニで買って松阪城跡へ登ろうとするも、コンビニ(Yではじまる)が、開店時間になっても閉まったまま!Σ(゜□゜;
 ひもじい状態(昨日の晩ごはんはサンドイッチ)で松阪城跡や御城番屋敷を散策する。
松阪城跡
蒲生氏郷(森長可命名:どんざぶろ
う)の築いた松阪城。
天然石の石垣がステキ。


 旅館に帰ってチェックアウトして、今日の旅のお供の しん様さんと待ち合わせの松阪駅に向かうも、道の途中でいきなりの大雨に見舞われる。無意識に身を呈して『伏見城城下町の地図』を雨からかばう。駅前のコンビニで朝ごはんを買い、しん様さんと合流。
 そして私はさっそく しん様さんの車でのうのうと朝ごはんにする。 
 
 今日は、松阪市から史跡を北上する。
それは織田信長の伊勢侵攻ルートを逆走してゆくことを意味する。
森蘭丸の父・森可成も従軍した伊勢侵攻。少なくとも、森可成は阿坂城と大河内城には攻め込んでいる記録があるので(『信長公記』『森家先代実録』)、そこを必須訪問地として、あとはテキトーに気になる史跡に寄りながら織田家関連の地をめぐる予定だ。

正しい時系列今回の旅はこれを逆走。

■永禄11(1568)年2月、織田信長、北伊勢に侵攻。
神戸具盛と和睦して、三男の三七(信孝)を養子に出す。

■永禄12(1569)年4月、信長、伊勢侵攻に出発。
信長、白子観音寺に陣を張る。
信長、木造城に着陣。
信長、阿坂城を攻める(森可成も攻めた)。
信長、北畠具教。具房の籠る大河内城を攻める(森可成も攻めた)。
茶筅丸(信長次男・信雄)、北畠家の家督を継ぐ。
信雄、松ケ島城を築く。

 まずは、織田信雄の築城した松ケ島城跡へ。
伊勢を侵攻した織田信長は、大河内城に籠城していた北畠具教に「うちの茶筅(信雄)を養子にさせてあ・げ・る」という条件を出して和睦が成立し、信雄は北畠家を継いだ。
そしてお役目を終えた養父・北畠具教(←剣豪です)はトイレに吊っておかれてそのまま衰弱死したともいう(『北畠物語』)。
 松ケ島城跡は、畑の真ん中に土盛りがポツン…という感じで、えらく寂しい事になっていた。説明で「九層の天守」と言われても、全く説得力がないくらいに。
しかし、しん様さん情報では、ここからは金箔瓦がザクザクでてきて、たくさん出過ぎてキリがないのでそのまんま埋めたということだ。

松ケ島城跡
具教の養子になって名門北畠の家督を継いだ
信長の次男北畠信雄が築城。

 続いて訪問した妙楽寺観音堂の「血天井」は、天正4(1576)年に織田信長に落城させられた山室城の廊下板であるらしく、それを拝観できればと訪問。…もしかして、私は血天井というものが好きなのかも知れない。
 しかし、お寺の方も不在のようで、観音堂の中の血天井を目にすることは叶わなかった。
「そもそも山室城ってどこよ。」という話になったけど、この寺がある山の上のほうにあるのだろうと勝手に推測、この地を去った。

妙楽寺観音堂
血天井あり。
妙楽寺観音堂
 説明には「血天井 観音堂ハ山
室兼高七代兼房城ニシテ天正四年
織田信長の為ニ城滅ス、其城ノ廊
下…(あと読めない)」

 次は、メインの一つである、森可成も大河内城の東方に陣を構えていたという記述が『信長公記』に残る北畠氏の大河内城跡
大河内は「おかわち」と読まなくてはいけないらしい。読み間違えると
まむし谷に棄てられる。
 大河内城は、造りがとっても判りやすい城だった。城内の「
御納戸跡」の石碑には笑ったけど。

大河内城跡
本丸。右手の石碑には、織田信長との戦いに
ちなんだ銘文が刻んであった。
大河内城の「まむし谷」
きっとマムシがいるに違いない。怖い堀切。
堀切に降りて撮影したけど、そのV字具合を
私の技術では撮影できなかったオチ。

 この戦いは城内に餓死者が出るほどの籠城戦となったが、最終的には和議に及んでいる(そして信長は信雄を北畠家の養子にした)。

 車で次のメイン会場の阿坂城跡に移動する道で叩きつけられるような豪雨に見舞われる。雨はどんどんと激しくなって、止みそうにない。それでも登りたい!Σ(゜□゜;
しかしとりあえずはお昼だし、コンビニでご飯を食べつつ雨宿り。
そうしているうちに、奇跡的に雨があがった。
 阿坂城の別名「白米城阯」の石碑を見つけて、その道を選んで山の中へ車で入りこんでゆく。

白米城阯(阿坂城の別名)の石碑。
織田軍は北畠の重臣・大宮忍斎が守るこの
城を攻めて廃城にした。

 しかし、何かおかしい…細すぎるし先がなさそう…個人の農道じゃないの?と不安になって山中で車を切りかえすところに、おばちゃんの運転する軽トラが真正面から爆走してくる!おばちゃんは、はっきりと私たちの存在に気づいているのに、スピードを緩めず、むしろアクセルを踏みこんで走ってくるのだ!ギャアアアアΣ(゜□゜;!
と震い上がった時には、おばちゃんの軽トラは山のヘリにギュウウウン!と登りあげて、こちらの車を3次元で華麗に避けて行った。すごいスタントを見た。伊勢の女は熱いゼ。

 結局は、普通の登城ルート(浄眼寺の境内にある入口)から、阿坂城山頂を目指す。
阿坂城が別名「白米城」と呼ばれるのは、応永年間に北畠満雅がこの城で籠城した時に、敵の足利軍に水を断たれたため、馬に白米をかけて水があるようにして敵の目を欺いて撃退したことからきているらしい。

全国的に、みんな籠城していて水がなくなると米で馬を洗い始めるよね。

でも、お米は遠目にも白すぎて、そういう詐欺行為はすぐにバレるんじゃないのかな。
 
 しん様さんとあれこれと城話をしながら、雨でぬかるんだ土の山道を30分ほど歩いて、ようやく山頂にたどり着いた、プハー…と、思ったらまだ山頂ではなかったりして、この山城は想像以上にキツかった。韮山城にもこの標高を分けてあげたいくらいだ。
 しかし、昔の兵士というものは、山に登ってそれから更にテンションあげて戦うのだからすごいよ。中には一番乗りを目指して我先にとダッシュで駆け登る異様に元気な体育会系野郎もいただろう。
 

椎の木城
阿坂城の北の郭。
白米城(阿坂城南郭
頂上はCMのあとすぐ!

 CM:白米城の山頂は360°の大パノラマ絶景です!

阿坂城(白米城)山頂
標高312.6m。
本当に360°の大パノラマだった…霧さえなけ
れば。
阿坂城(白米城)山頂
白米城跡を示す石碑。
石碑の右上が欠けて米の形になっ
ている。プププ。

 達成感とともに足を踏みしめた山頂は何とも気持ちがいい。雨で濡れていなければ、山頂で、高ころびにあおのけに転びたいところだった。赤トンボもたくさん飛んでいて、秋まっしぐら!森可成バンザイ!
 

 次は津市に移動。
織田信長が伊勢侵攻で着陣した、木造氏の居城・木造城跡へ。木造は「こつくり」と読むものらしい。
信長は北畠氏攻略後に伊勢神宮参拝を果たした帰りにもこの城に宿泊している。信長という男は、要所要所でちゃんと観光を欠かさない。あと、鷹狩りもこまめにやる。

木造城跡
木造具政、長政父子は、北畠氏を離れて
織田信長に従った。
木造城跡遠景
畑にポツンと盛り上がっている。
ちょっとさみしい城跡。

 また、雨がぱらつき始めたが、続いて鈴鹿市へ入る。
織田信長は鷹狩りをしながら進軍し、着陣した
子安観音に参拝
想像していたよりもずっと立派な大伽藍。しかし、お寺の看板にもパンフにも織田信長のことには一切触れられていなかった。

子安観音(白子山観音寺)
天平年間に創建された由緒ある寺。

 夕方に入って、日没ギリギリに神戸城跡へ。神戸は「かんべ」と読んでおこう。
永禄10年、11年の北伊勢・高岡攻めの後に、織田信長は神戸具盛との和議に及び、具盛に「うちの三七(信孝)を養子にさせてあ・げ・る。」ということで一見落着した。信孝が神戸家の養子となり、お役目を終えた養父・神戸具盛は近江日野城に幽閉されたよし。
 

神戸城跡
 神戸家を継いだ信孝は、養父の神戸城に天
守を建てて、金箔瓦を葺いた。
 本能寺の変後に信孝が岐阜城へ戻るまで、
信孝がこの城の城主だった。
神戸城跡天守台
本能寺の変後、一時期は森長可は岐阜城に
戻った信孝に仕えたが、信孝に打ち解けても
らえず(『森家先代実録』)、長可もそれを不満
に信孝を見限る。

 四日市駅でマンホール写真を撮ったりつつ解散。私は可児市の宿に入る。

 しん様さんは明日は大好きな石田三成のいた関ヶ原、私は明日は兼山

 しん様さん、完璧なスケジューリング、どうもありがとうございました。私の要望していた場所すべてに連れて行っていただき、大満足です。(^u^)♪
 

■ 2009年10月18日(日) 2009若獅子蘭丸

 そんな、訳で旅も後半に突入。
毎年恒例の兼山の武者行列へ。 
 今日は愛平さんと行動を共にして、早朝に兼山入りする。
バスを降りたとたん、「兼山全体が霧がかっている___。」と、感動。すぐに、金山城跡へ登ろう!きっと、ものすごいだろう!!是非とも金山城の霧にむぜびたい!と、興奮する。
 城の大手に向かう道、森家の信仰も厚い貴船神社と、森家菩提寺の可成寺、林家(蘭丸の母方)の菩提寺の常照寺にお参りして、城へ登り始める。
兼山の町の入口
朝霧で山も霞む兼山!!
  蘭丸ふる里の森
ああ、折角のガスが消えかかって
いる!

 しかーし、城を登らぬうちに、あっという間に霧は晴れてしまった。ははは。

蘭丸ふる里の森
むべ。

 古城山の中腹にある蘭丸ふる里の森に行くと、管理事務所の方が、むべを摘んでくれたので愛平さんと食べた。熟れていないので…味は…ちょっと…(-。-;)でも楽しかった。
 ふる里の森で朝ごはんを食べて金山城跡へ登った。

金山城跡本丸の石碑

 搦手から城を降りると、今秋も発掘調査が始まっていた。今回は江戸時代に米蔵になっていた場所を発掘している。その一つ下の地層から、森家の何かが出てくるかどうかが注目のしどころだ。
 発掘現場の青いビニールシート…かけ布団かと思って、ちょっとひと眠りしようとして、う っ か り めくってしまったが、なんか、河原石の礎石が堀り出されていたのを見たぞ。あれは戦国時代のものなのか?私は、個人的にはここに森家の居館があったのではないかと想像しているのだけど、何が出てくるだろうか。

金山城跡二の丸(だっけ?)
金山城跡で過ごす朝の清々しさよ。
第三次発掘調査中の金山城の麓
搦手の麓の平地。
森家のタイムカプセルとか出てこないかな〜。

 麓に戻って、兼山歴史民俗資料館へ。
師匠と再会してお話する。
そして午後からは、武者行列だ!今年も晴れて何より。

若獅子蘭丸2009
お祭の模様は鶴丸さまのサイト
森蘭丸戦国武者行列」へGO!

 森可成役さんの真横ショットの撮影に成功した。

森可成役さんの真横ショット
見て見て!兜の前立てが!
森可成役さんの後姿
お疲れ様でした。

 今年は、サムライ本舗さんが行商に来て、武者行列の後に従っていらっしゃいました。
移動中にはまるで買うスキを与えさせない。

サムライ本舗さんの行商リヤカー
森家グッズ以外も(愛や光秀も含む)テンコ盛り。
リヤカーにはこんな宣伝が
……思わず苺大福を購入。

 いつものメンバー、団地猫さん、Kijokazuさん[URL]に加えて、Kijokazuさんのお友達の やっさんさんと、GWに一緒に倭城めぐりをした大阪の NACKさんもお祭り見物に参加。

苺大福
今回の祭りに合わせた特注だそう
です。女性陣だけで武者行列の
合間にウマウマ♪

 武者行列イベントには、スペゲス猫の「のぶさま」も参加。まだ、生まれたてなのか、自力でサクサク歩くことができずに、いつもスタッフに手を引かれて移動している「のぶさま」。

 お祭りが終わって、まだ天下の名城・金山城をご覧になったことがないというやっさんとNACKさんを案内して、再び山を登った。
「いい城だ。」と城好きのNACKさんに褒められてよかった金山城。ようやく私が選ぶ森家10名城のひとつ、金山城跡に登ることができて、よかった!やっさんさん、NACKさん!
金山城跡に登れるなんて、人として幸せすぎです!

 Kijokazuさんと、やっさんとは山頂でお別れして、搦手の道を下る。何気ない巨石にもNACkさんが立ち止まって「あれは人工的に削っている気がする。」と推理するごとに、ハッと振り返る。
 麓に降りて、清酒「蘭丸」を買って兼山に別れを告げ、団地猫さんの車に乗せてもらってNACKさん、愛平さん、私とで、城めぐりをした。森長可が落として回った近所の城だ。

 上恵土城跡は、昔一度訪問したことがあるので、記憶をたどってたどり着いた。だけど前回と同様、城の遺構らしいものを見いだせずに「この辺が城跡だったらしい。」で、散策終了。

上恵土城の城主・長谷川五郎右衛門の墓
 
本能寺の変後に森長可を暗殺しようとして
逆に長可から攻めこまれてしまった。

 そして、お次は馬串山砦(まぐしやまとりで)。小牧長久手の合戦の前に、森長可が金山城とは木曽川を挟んでお向いさんの米田城主・肥田玄蕃から強奪して森家の砦として利用した山だ。これは、近隣に牛ケ鼻砦を構えた織田信雄方を睨むための砦と思われる。

馬串山砦
後世の手も加わって遺構がよくわからないけ
ど、道は七曲り風味。
馬串山砦から見た牛ケ鼻砦(山の上)
馬VS.牛!
しかし!そこへ思いもよらぬ天狗さまが〜!!!

 それから、牛ケ鼻砦へ。
現在は天狗さまをお祀りする宗教施設になっております。

牛ケ鼻砦の石
砦には加治田城主 斎藤利尭らが籠った。

 NACKさんとJR太田駅でお別れして、私達は夕食。
手羽先が食べたい!という私の名古屋名物リクエストで、手羽先のあるお店「風来坊」に行った。

エビふりゃあ!

 食後には団地猫さんが小牧山城の夜景をドライブしてくれ、信長が清洲城より分祀した小牧神明社にも案内してくれた。ふふふ…いつもは「どうしよー!帰りのバスに乗り遅れるううう!!!」のドタバタ劇がくるのだけど、今日もお泊りなので、余裕で夜まで遊んだ。
 
 団地猫さんに勝川駅まで送ってもらい、愛平さんと私は名古屋駅へ。

JR勝川駅
 森長可が三河に向けて進軍してるのを、勝川
の住民が家康にバラしたのよ、キーーッ!!!

 みなさん、今年も幸せな一日をどうもありがとうございました。
私は名古屋駅近くの筒状のホテルへもう一泊。

■ 2009年10月19日(月) ついについにの清洲櫓


 疲れもたまっていたので、筒状のホテルのベッドでそりゃあもうぐっすりと眠っていたのに、夜中の3:30ごろにいきなり部屋のドアをドンドンと叩かれて目が覚めた。恐怖を覚えてガクガクしていると、ドアノブをガチャガチャされ始めて、ますます恐怖!!!Σ(゜□゜;
 音はすぐに止んだ。
「どうやら宿泊客が部屋を間違えたのね…。」と思ったけど、心臓はまだバクバクといっている。そうして再びベッドにもぐったら、30分後にまた部屋を叩かれてガチャガチャされた。私の部屋がダメとわかると、隣の部屋、そしてまたその隣の部屋。その隣の隣…しばらくして、もう一周してきた!ドンドン、ガチャガチャ!!!怖すぎて眠れない。鍵はかけているけど、何かの拍子に開けられたりするんじゃないかと、ものすごく恐ろしい思いをした。もう一週してきたらフロントに通報しようと思ってたら、何を悟ったのか来なくなり、そのまま朝を迎えた。
そいういう訳で寝不足でしんどい状態でホテルを出た。


 でも、名古屋城へ来ると、たちまち元気が出る。
名古屋城の西北隅櫓には清洲城天守の古材がリサイクルされていると知って以来、中に入りたくて、入りたくてたまらなかったのだ。それが昨日の18日から特別公開というので、仕事の休みをもう一日もらって、ここへ来たのだ。
名古屋城入口にあった看板
別名:清洲櫓にようやく入れる!

  ここは天守閣よりもずっと奥の御深井丸(おふかみまる)に存在するので、早々に寄ってくる人も少なく開城時間からゆったりと見学することができた。かくいう私も、今年まではこのダイヤモンドのように素晴らしい櫓の存在に気がついていなかったのだけど。

 ありし日の織田信長や森可成を知る清洲城天守の材木。あくまでも材木として利用されたので、今は清洲城の天守だった頃とは形も変わってしまっている。
中の見学は自由だったので、三層の櫓の造りを心ゆくまで見つめてきた。清洲城天守時代のものだろうかと思われる穴が柱などの到る場所にポコポコ開いたりしているし、丁寧にカンナで削られた板の表面や、現代建築では見ることのできなくなった造りを見ると、何とも嬉しい心地する。
 那古野城跡(名古屋城二の丸〜三の丸)といい、この櫓といい、かなり奥が深いぞ、名古屋城。この櫓があれば天守閣はいらない。

名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)
 

 同じく、名古屋城内で特別公開中の乃木倉庫。乃木稀介がナンタラカンタラしたことに由来する倉庫が西北隅櫓の傍にある。NACKさん情報では、ここの隅にまとめてあるのも清洲櫓の古材ということで、撮影。

乃木倉庫の中身
古材には墨書きの文字やマークもあった。

 その後、何をするのか決めてなかった。名古屋城の清洲櫓ではしゃいではしゃいで午後まで時間を費やしてしまったので、しん様さんおすすめの吉田城へ行く時間はもはやない。


 という訳で、桶狭間に行こう。
森可成も信長という若き青年に自分の運命を賭けて大いに奮闘した場所だ。
桶狭間古戦場」を冠する場所は2か所(豊明市と緑区)ある。
 森家に関係する場所なら多くてもいいよね〜。どうせなら九州にも桶狭間古戦場が欲しい。織田軍が今川義元ただ一人をめがけて一気に襲ってくるその今川本陣を島津軍が中央突破するというクロストライアングル!おお!面白いじゃないか!

 それはともかく、私は緑区のほうの桶狭間には行ったことがない。
森可成も織田信長のために戦った桶狭間の合戦というのに…と、言う訳で今回、緑区の桶狭間に向かった。
 名鉄「有松駅」で下車して、歩いていけばすぐに「桶狭間」という地名が出現し、やがて桶狭間古戦場公園に到る。

桶狭間古戦場公園
なんと!!オレンジと黒の包囲網!

 わーいwwwww桶狭間古戦場公園だ!(^O^)/
思ったよりも土が掘り起こされまくって、ショベルカーがよってたかって穴を掘っていて、公園内はガタガタのグッチャグチャ!!巨石や鉄パイプがあちこちに山積みされて、全体的に荒々しい。さすがは古戦場。
今川義元が討ち死にしたという場所も「安全第一」に封印されて近づくことができない!

桶狭間古戦場公園
テーマパークとかになるのか????
来年は桶狭間の戦いから、450周年!

 工事の手が及んでいない公園入り口の石碑などを見ていると「ここは危ないから入らないでください。外から見てください。」とヘルメットをかぶっていた工事の人に怒られた。そして、すかさず立入禁止の衝立を持って来られてバリヤーを張られた。これで、敷地内に足を踏み入れることは全面的に拒絶された。
私は敵なのか…。
 切ない気持になりつつ、公園の外から工事用のネットへ亡霊風味に手をつっこんで石碑などをデジカメ撮影。

桶狭間古戦場公園石碑
名古屋市緑区の古戦場公園。
古戦場石碑
今川軍先陣の松井氏の子孫が揮毫した
「桶狭間古戦場田楽坪」石碑(左のデカいの)
と、「桶狭間古戦場(文化十三年建立)」石碑(
右の小さい石)

 当時、この近辺にあった鞍流瀬川は合戦の血に染まったそうだが、川はもう開発で埋められたのだという。川跡を越えて「桶狭間古戦場ゆかり之寺」と看板のある長福寺というお寺にお参りした。
 お寺の入口にあった説明看板によれば「寺伝に、永禄三(一五六〇)年」桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者となって率先酒食を提供してその労をねぎらったとある。本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主林阿弥が義元公供養のために納めたものと伝えられる。寺宝に義元とその家老松井宗信の木像、合戦記を所蔵する。」とのこと。
 本堂には鍵がかかっていて入れないようだったけど、ガラス張りなので、中のご本尊と思われる仏像を外側から拝観できた。ああ、今日は外側から見てばっかりだ。でも、午前中に清洲櫓の内側に入れたのでいいや。

長福寺と供養杉(二代目)
この大杉のあたりで、林阿弥が今川氏の首
実検を命じられたそうだ。
  桶狭間合戦供養塔
昭和43年建立のもの。

 もう少し、今川関係をご紹介。

今川軍・瀬名氏俊陣所跡
昔は「セナ藪」「センノ藪」とか呼ばれた竹林も
あったそうだ。
セナのピアノが頭をよぎる…(別番組)。
評定の松(二代目)
桶狭間の戦いの時に今川軍の瀬
名氏俊が大松の下に部将を集め
て評定したところという。
 

 住宅街を徘徊して、住宅と住宅の狭い通路の先に合戦の戦死者を葬る七ツ塚を見つけた。

七ツ塚
合戦後に戦死者を埋葬した
七つの塚が作られた。
今は区画整理でこの1つに統合。

 その後、地図がないのに信長軍の今川義元突撃コースの武路釜ヶ谷を探して歩いて足が棒になった。いくら探しても釜ケ谷という地名がわからず、やむなく明らかに地形が「谷」と思われる場所を撮影して諦めた(帰宅後確認したら、やっぱりそこが釜ケ谷だった。)
 
 そうして、桶狭間を後にする。そのまま名古屋駅に帰る切符を買って列車に乗りつつも、ふと思った。
…桶狭間に行ったからには、熱田神宮にも行って今川との戦いの戦勝祈願をすべきだよね。

と、言う訳で途中下車して熱田神宮に参拝。夕方の参道にたくさんの燈籠がほんのり照ってとてもステキだった。

信長塀
織田信長が桶狭間の合戦勝利の後に熱田神
宮に寄進した塀。中に何か埋まっていない
のだろうか(例:信長家臣団タイムカプセル)。
熱田神宮
織田信長が桶狭間に出陣の時に願文を奏じ
た熱田神宮。
お参りした時は、ご遷宮直後でキレイでした。

 熱田駅近辺で味噌カツ丼つきのうどんを食べて、名古屋に戻る。夜行バスの時間まで銭湯に行くことにして、本やお酒を最大限に詰め込んで重くなったキャリーバッグをドコドコと引いて銭湯まで行くと、なんか窓が真っ暗。扉にかかっている札を見ると…

「定休日」


Σ(゜□゜;えええ!
 ショックだが、考える暇もない。ピックアップしていたもう一軒の銭湯に向かう。もしや、ここもオチがついて定休日だったら泣くぞ、と途中で思い直して電話すると「とうぶん休業中です…。」とのこと。
Σ(゜□゜;どどどどどどどうするんだ!!!
夜行バスで明日の朝に福岡に着いてそのまま会社に出勤しなくてはならないので、お風呂には入らない訳にはいかない。キャリーバッグを引っ張ってケータイで銭湯を探しつつ右往左往していたら、目の前に、「マンボー」という名のネットカフェがあるではないか!!!
そこでシャワーを借りて大慌てで汗を流して何とかなった。
ホットな状態のままバスセンターまで走って汗かいたけど(結局はいつものドタバタ劇)。

 そして、乗りこもうとした夜行バスで私の予約していた座席がダブルブッキングになっていて…そのせいで、いろいろとあった(思い出したくない)。

でも、そんなことよりも、旅が楽しかったので、結果オーライ!!


 今回も、皆さんに助けられつつ、旅行中は毎日朝から晩まで森家の史跡を楽しくめぐることができました。
ありがとうございました!(^O^)/
                   
                                               《尾張》