森家 深追い


1ページめ

槙島城のようです。
足利義昭が籠城中v

         2009年10月15日-19日 in 京都と静岡と三重と兼山・愛知 

 ※これは旅行記の1ページめです。→2ページめ

■ 2009年10月15日(木) 二刀流で京都歩きっぱなし。


  旅程
10/15(木) 京都:森長可・森蘭丸・森忠政ゆかりの史跡めぐり
10/16(金) 静岡:江戸城築城のための石丁場(森忠政)と韮山攻め(森忠政)めぐり
10/17(土) 三重:織田信長の伊勢侵攻(森可成従軍)
10/18(日) 兼山:2009若獅子蘭丸のお祭りと、森長可の攻めた砦めぐり
10/19(月) 愛知:名古屋城「西北隅櫓」特別公開と桶狭間古戦場めぐり

※史跡めぐりの順序そのままに書いて行くので、歴史的な時系列はメチャクチャです。

 夜行バスで朝、京都駅に到着する。
まずは宇治に向かい、槙島城跡を目指す。とりあえずは「槙島城記念碑」と「槙島城跡」石碑を探してみるのだ。

 槙島公園にある槙島城記念碑(でも、そこは槙島城の敷地ではない)はすぐに見つかったが、肝心の真の槙島城跡の石碑があるべき場所にない。槙島城跡の石碑が刺さっていただろう穴の跡だけはあるのだ。

だっ!誰が引っこ抜いたんだ〜!!!Σ(゜□゜;

 ご近所に尋ねても「わからない」とのこと、それでも諦めきれずに周辺をウロウロして石碑の移転先を探した。畑で農作業をしていたおじさんが「この真向かいの小さな公園にある。」と、おっしゃるんで公園に行くと、探している石碑があった。よかった。

 元亀4(1573)年、この槙島城に足利義昭が篭って織田信長が攻めた時には、「気がつけば川の向こう側」でおなじみの森長可も従軍していた。長可も宇治川を渡り、攻め込まんとした時には篭城軍はもう逃げてしまっていたので戦にならなかったそうだけど。

槙島城記念碑
(※槙島城の敷地外のようなのでご注意!)
この石碑がある槙島公園の南に槙島城が
あった。
  槙島城跡
城跡を忍ぶ遺構が無いようなので、
残念。石碑は薗場児童公園にある
(2009年10月現在)。

 槙島城跡から織田軍布陣の場所関係をチェックして槙島城跡散策は無事に終了。森長可が渡河した宇治川のほとりを歩きつつ、次の目的地に移動する。

 次は近鉄宇治駅から月見橋駅へ移動した。
駅そばの月見旅館には、『伏見城城下町の地図』が販売してあるので、まずはそれを買いに行く。(参考「京都新聞」)
 そして旅館で「これどすえ。」と、差し出された地図の意外な大きさ。
 勝手に折りたたみ式の地図かと想像していたのに、実際の地図はポスター大でくるくると筒状に巻いていて長さが60cmほどもある。旅の身である私には見るからに持ち運びに不便そうだ。なのに、結局は二本も買ってしまった。これも森家のためだ。
ちなみに、この地図でチェックしたところ、森忠政の伏見城下のお屋敷は2か所ありました。(゜皿゜)

 地図de二刀流で次の目的地の向島城跡に繰り出す。


 豊臣秀吉は居城の伏見城とは別に向島城を造った。一説には向島城は秀吉の”お月見専用の城”だという。どうでもいいけど中国には”猿猴月を取る”って故事があるなぁ…。

 豊臣秀吉が死んでしまうと、徳川家康は石田三成に命を狙われる危険にさらされ、伏見の上屋敷(三成ん家とはご近所なのでコワーイ!)からその向島城へと移った。その時、森忠政は細川忠興(伏見城下ではお隣さん♪)にとともに向島城にかけつけて警備を申し出ている。他の大名が挨拶に来て言葉のみを尽くして帰っていく中、泊まりこみの用意をして向島城に居座って警備してくれる忠政の姿は家康には好印象だったようだ(『森家先代実録』)。森忠政の行動とは別に、おじさんの森可政も昼夜別なく警備をしたというから、この向島城は、森一族に昼夜別なく警備してもらえたことがあるのだ。
 まぁ、そんな感じで石田三成から家康を護ろうとした森忠政なのだが、三成は三成で加藤清正らに命を狙われてしまい、家康に助けを求めてこの向島城に逃げこんで来て家康と暮らしてしまったカオス。

 さて、その向島城があっただろう一帯に足を踏み入れる。そこは、現代的な風景ばかりが広がっていて、城跡の名残などはまるで見つけられない。高層マンションを抜ける道路と道路の間に細長い公園があった次第。その名も「草原公園」。その命名にこちらが照れくさくなるものの、向島城跡っぽい風景がないので仕方なくそこを写真におさめていたら、奇遇にも草原公園内に「向島城跡」の看板が立ってるじゃないか。ついでに私もこの草原公園の警備をしてみた。

いきなりですが、草原公園
現代的な建物の中に緑の一角。
ここに向井島城跡の看板があった!

ここ、向島城跡かもね看板(草原公園)
この画像のベンチ左後ろにある細長い看板の
説明には「向島城の正式な場所は確定してい
ないが、この付近にあったといわれている。」
と、正直に書いてあった。

 それから向島中央公園二の丸という地名の場所を散歩して、戦国当時は巨大な池だったという巨椋池干拓地を眺めつつJR向島駅から京都市内に戻った。

 JR京都駅から30分ほど歩いてお次は養源院へ。
伏見城がらみでここを訪問してみた。
 元々この寺は淀殿が建立した父・浅井長政の菩提寺ながらも、その火災後に徳川秀忠夫人(淀殿の妹)が再建した故もあって徳川家の菩提寺ともなり、伏見城からの移築物が色々と詰まっている。その中でも伏見城の血天井というのがすさまじい。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの時に伏見城で戦死した鳥居元忠の姿と伝わる陰や武者達の血染めの手形や血でびしょびしょになった鎧の跡が天井に何とも生々しく残っていて、戦というものの残虐すぎる一面を際立たせているのだ。
 あ、森蘭丸の姉「梅」の旦那・木下勝俊も関ヶ原の合戦の折には伏見城に入っていたけど、夜の間に逃げ出して助かった♪
 そして妻は激怒して歌人の夫に どぎつい一首を捧げて実家(忠政のいる信州)に帰ったのだった。
 父や兄弟たちの激越で激烈で鮮烈な死にざまを知る彼女には「敵前逃亡」という行為が理解できす、また到底受け入れられるものではなかったのだろう。
武士なら「戦死」がデフォよね!

   命やはうきなにかへて何やらん まみえぬために送るきりかみ


 武士の妻なら死した夫の為になら髪を切るが、勝俊は死ななかったせいで妻に髪をおろされてしまったのだった。

養玄院
 浅井家のご位牌もある。
伏見城の血天井の話などをカセットテープで聞
かせてもらえる。


 そこからまた歩いて方広寺豊国神社へ参詣。
 豊臣秀吉がこの京都に壮大なスケールの大仏を造ろうとして、森忠政もその手伝いをさせたようだ。忠政は迷惑にも日本一でっかい大仏を造りたいという秀吉の単純でわかりやすい夢に巻きこまれてしまったのである。
 しかし、秀吉の大仏は慶長の大地震であっさり崩壊してしまったどころか、再チャレンジを繰り返すに及び、豊臣家そのものすら滅亡に導いているようなのであった。

造っても造っても崩壊する大仏年表

天正14(1586)年:豊臣秀吉が創建。
文録4(1595)年に大仏ほぼ完成。
慶長元(1596)年2月:森忠政が大仏普請に関わる書状(百人鵜沼へ
連れてこいと言った話はナシ!)を金山の家老たちに送る。

慶長元(1596)年12月:慶長の大地震で大仏崩壊、ついでに伏見城も崩壊。
慶長3(1598)年:秀吉逝去。
慶長4(1599)年:豊臣秀頼が大仏再建。
慶長7(1602)年:失火で大仏と大仏殿、焼失。

慶長13(1608)年:徳川家康のすすめで、秀頼が大仏を再再建。
慶長19(1614)年:家康が「方広寺梵鐘の銘文」に激怒。
 →勢いにのって翌年、豊臣家を滅ぼす。
寛文2(1662)年:地震で大仏崩壊。

寛文7(1667)年:木造で大仏再再再建。
寛文10(1798)年:落雷。大仏と寺、焼失。

天保14(1843)年:木造半身で大仏を再再再再建。
昭和48(1972)年:火災により大仏焼失。


 今も方広寺に使われていた石垣を見れば、その石の一つ一つの巨大さに圧倒されるものがある。拝観料を払えば、宝物や当時の瓦、彫刻なども拝観できた。

 方広寺

方広寺梵鐘
豊臣家討伐のきっかけを与えた
「国」「君臣豊楽」の梵鐘。
梵鐘の内側には淀殿の幽霊と伝わ
る白い影があった。
方広寺の本堂
 秀吉時代当時の大仏殿は大坂城や東大寺
大仏殿よりも大きな建築物だったそうだ。
大石垣
天正14(1586)年に秀吉が築造した石垣。
前田家が奉納した巨石は「泣石」と呼ばれてい
るらしい。(前田家が出費に泣いた説と、巨石が
元の場所に帰ると泣いた説。)

大仏
 豊臣秀頼が再興した大仏とは1/10のス
ケールで複製された大仏様。
眉間籠り仏
 秀頼が再興した大仏の眉間に埋めこまれて
いた仏さま。


 次は隣接する豊国神社へ参拝す。
立派な門は伏見城門の移築とのこと(秀吉築城の伏見城か徳川家康築城の伏見城かは書いてなかった)。宝物館にも入って秀吉の歯(黄色い)や秀頼の幼少期の手形など多種多様の宝物を見学した。
 

豊国神社の唐門
 伏見城の遺構とも伝えられる唐門(国宝)。
両脇には豊臣家家臣の石灯籠も並んでいた。


 それからまた歩きに歩く。
そして偶然にも建仁寺常光院の方に出くわして森家の墓にご案内いただけたのは、本当に運がよかった。常光院は森蘭丸らの叔父・森可政の菩提寺でもあり、森忠政の娘(名は上洛or黒or岩)もここに葬られている。
 大きな五輪塔2基が森家のものと言われている、ということだった。墓石には文字も何も彫られてなくて、どちらがどなたの墓なのか判らなかったけど、ずっと望んでいた森可政のお墓参りが叶ったので、嬉しかった。
 なぜに森家の墓が常光院にあるのか、常光院と木下家との関係もからめて調べると面白そうだ。

常光院墓所
 常光院からはちょっと離れた場所にあるも、お
寺の方によれば「昔はここ一帯ずっと境内でし
た。」とのこと。

 今度は地下鉄とバスを利用して妙顕寺にお参りした。寛永11(1634)年の徳川家光の上洛に伴い、それに先立って森忠政もまた津山より上洛していた。その時に着座したのが、このお寺だった。その上洛で忠政は一生を終えてしまう訳だが…。

 妙顕寺の本堂(再建)は工事中で、すっぽりとカバーされていた。Σ(゜□゜;

四海唱導妙顕寺
秀吉により当地に移る前は、西洞院二条にあ
って、妙顕寺城と呼ばれるほどの勢いだった。
妙顕寺本堂
工事中…。
お寺は天明の大火(1788年)で焼失したのを天
保5(1834)年に再建したものとのこと。

 外観すらわからずにショック…。けれど本堂の中は参拝できるとのことでお参りさせていただいた。本堂内はため息がでるほどに豪華だった…。

 妙顕寺を出てから歩いて森蘭丸・坊丸・力丸の墓おある阿弥陀寺にお参りする。ここへきて段々と日も暮れ始める。
見るたびに傷みが激しくなってゆく阿弥陀寺の三兄弟の五輪墓にますます悲哀を覚えた。
君たちが生きていた証を千代に八千代に保ちたいのに墓は容赦なく朽ちてゆく。

阿弥陀寺
本能寺討死衆の眠る阿弥陀寺。
森可成の書状(現物)もある。

当時の墓石
 本能寺戦死者は元は一人一人の墓があった
ものの、秀吉の命で現在地に境内が縮小移転
されたために、しっかり弔う遺族がいる人以外
の遺骨は一つ穴にまとめて葬られた。
森三兄弟の墓
左から蘭丸・力丸・坊丸。
森長可や忠政がしっかりと弔っていたからこう
して三人の墓は残ってくれているのでしょうね。
織田信長・信忠の墓
 手前右側の石灯篭も、森家家臣の寄進の
もの。


 阿弥陀寺をあとにして間もなく日没を迎えた。
暗い。京都の街は予想以上に暗い。
それでも、時間だけはまだあるので意地で予定をこなして本日最後の史跡めぐりを強行。

 森家を初めて色んな大大名と交流があった大文字屋の”宗味(人名)”の屋敷跡を探した。
その宗味の奥さんは石川備前守貞清の娘。(あ、石川は「いしこ」と読むのですって!)
 私としては森忠政が妙顕寺着座後に大文字屋に招かれてご飯を振舞われて、桃を食べて死に至った時の大文字屋宗味の屋敷の場所を探し出したいのだ。

 とは言えど、宗味は住んでいた家を息子に譲ったりして自分はまた新しい家を買って引っ越したりと色々と居住地を移動していたことなどもあって大文字屋の敷地跡をいうなら、いくつもあるようなのだ(『先祖記』)。
 忠政がお呼ばれした屋敷跡は一体どこなのだ。桃はどこだ。ピーチ姫を助けろ!
もう完全に夜だったけど、今日は候補3つを選んで探して京都府警の周辺を散策してみた。
 慣れない夜道、やっちゃあなんない格好で思いっきり転倒してしまったりもしたが、たとえ自分は折れたり曲がったりしても、手に持った『伏見城城下町の地図』の筒2本は折れたり曲がったりせぬように死守した。

 途中、こんな町を見つけた。大文字屋に関係があるのかないのか、それは判らないが、妙に気になる。

大文字町
町の由来を調べ中。
情報求む!

  大文字屋の敷地と思われる場所に3ヶ所行ってみたけど、収穫なし。石碑なんてものもなかった。もしかすると私は、見当違いの探検をしているかも知れない。

 一日中歩き回って、くたくたになって京都駅に戻り、ご飯を食べてから銭湯に行った。
初めて利用するその銭湯は、入口の扉を開けると目の前がすぐさま脱衣所でペロンという 極めて恐ろしい造りだったうえ、風呂に腰かけが一つもなくて硬いタイル張りの床の上でしゃがんでの洗髪と身体洗い。苦行だった…。

 京都駅八条口
から松田行きの夜行バス(私の目的地は沼津駅)に乗りこみ、その日を無事に終えた。

■ 2009年10月16日(金) はるばる伊豆へ石と土盛りを見に来た
 
 夜行バスで早朝にJR沼津駅(静岡県)に到着。
すぐに三島駅に移動して、今日の旅のお供のmasaさんと駅の北口にて待ち合わせ。
 しかしmasaさんから高速で交通渋滞に巻き込まれたとの連絡を受けて、観光しながら待てるよう三嶋大社に集合場所を変更。で、三嶋大社のある方向に行くために三嶋駅の南口へ回ろうと抜け道を探すけど見つからないので、駅北口改札の駅員さんにお尋ねすると

「反対側に出る道はありません。」

と言われて夢かと思い、思わず聞き返した。
この駅は北口と南口が断絶されているので間違って出たが最後、もう二度と反対側へ行く事はできないとの事。(゜o゜;; な…何と言う酷くて恐ろしい駅なのだ。
森長可が三島駅で出口を間違えたら、駅は3分後に消滅するぞ。

 私が、でかいキャリーバッグを引いて伏見城城下町地図を二本持って固まっているのを見て、駅員さんには土地の者ではないと分かって貰えたのか、特別入場券(間違って北口に出たおばかさん専用券)を発行してくれ改札口に通してもらい、晴れて南口を拝む事ができた。早速、三嶋大社に向かう。

 三嶋大社に到着!(^O^)/…すると、程なくしてmasaさん登場。

masaさんのお車でまずは熱海まで移動。
熱海といえば、誰でもまず浮かぶのが中張窪・瘤木石丁場遺跡だろう(当社リサーチ結果)。ここに、羽柴右近(森忠政)の刻印石があるからだ。
 江戸城の石垣の石を切り出すために選定されたこの石丁場は他の大名も利用していたので、他の大名の丁場に対して「森家の石丁場ゾーーーン」を示すものが必要だったようで、森家の領域の境界に置かれたと思われる「羽柴右近」の刻印入りの石が現在、二つ確認されている。一つは、山の中にある。もう一つはもともと池田満寿夫記念館そばにあったのが道路の拡張工事で移動させられ、華麗に国道135号線デビューを果している。
伝築城石積場跡の付近
木が生えているあたりがそうだと伝わる。

  国道135号線沿いの石はすぐに見つかった。
本当に「羽柴右近」と書いてある。
石にシャネルマークや「YSL」を刻むよりも、このように「羽柴右近」と刻むほうが数段にかっこよくて高級感が漂う。「羽柴」じゃなくて「森」だったなら、さらに しめ縄をめぐらせたいところだ。ようやくめぐり会えた巨石に心癒されながら、あらゆる角度から石の画像を撮った。

「羽柴右近」刻印石(その1)
瘤木1497‐2にあった石を135号線沿い(現在
地)に移設。
「羽柴右近」刻印石(後ろから撮影)
裏からみた。
植えこみが邪魔だ。

「羽柴右近」の刻印
大切な文化財なので、ここに自分との
あいあい傘を彫りこむことは固く禁じら
れています。
石に穿たれた矢穴
え…割ろうとしてたのか…。

 次は池田満寿夫記念館で車を降り、山を登って石丁場に入ってゆく。入口にちょっと迷ったものの、板金塗装の工場の横にある登り口が次の羽柴右近刻印石に到る道だった(標識なし)。
これも、20分ほど登ってゆけば案内のちっこい矢印があって、二番目の「羽柴右近」石もすぐに見つかった。   

何も書いていない登山口
でも、山中は石のワンダーランド!
私は羽柴右近石しか見てないけど!
  山の中
この画像の上のほうに「羽柴右近」
刻印石がある。
「羽柴右近」刻印石(その2)
  羽柴右近の刻印
大切な文化財なので、ここにも自分
とのあいあい傘を彫りこむことは固
く禁じられています。

 しつこいくらいにデジカメ画像に収めて満足。そこら辺に転がっている石にも矢穴があって人の手が加わったものとわかる石が本当にゴロゴロしていた。ここで、石工たちが江戸城に使う石を一生懸命切り出したのだなぁ。
 

 お次は伊豆の下のほうにある韮山城跡へ連れて行ってもらった。
近年まで、韮(ニラ)という字が読めなかったのは私だけかも知れない。
しかし、森忠政がここにも来たと知った今は、「韮」という字を何も見ないで書けるようになった。ちょっとゲジゲジっぽい形をしているので嫌だけど。

 天正18(1590)年の豊臣秀吉による北条攻めの時、秀吉は北条氏の本拠地の小田原城はもちろん、支城の山中城と韮山城にも兵を向けた。その時、森忠政も豊臣軍として北条氏の韮山城を囲んでいるのだ。
 山中城は半日で落城したが、韮山城の籠城は3ヶ月も続いた。そして結局は、韮山城を守っていた北条氏規が今川時代の人質仲間の徳川家康に説得されて開城することになる。

 そんな長期の籠城に耐えうる北条早雲ゆかりの韮山城なら、さぞすごい名城に違いないと、まだ見ぬ堅城に大いに想像を膨らませていたのに、masaさんに「あれが韮山。」と、ひっくーーい小山を指し示されたので目を疑った。韮山を知らない私が、実はあれは韮山じゃないに違いない、と首をふっても、やっぱりその実に低い小山が韮山とのこと。

 それに対して豊臣軍が韮山城包囲網の為にと築いた付城群は、韮山城を見下ろせる高い山々のほうに築かれているらしく…敵城の周囲にウンザリするほど味方の付城を築きまくるというこの戦略。これは織田信長のオリジナル戦略だったハズ。いやん、こんなところでパクられている。
 現地でシビアな地形を目の当たりにして、北条軍がなんだか可哀想になってきた。これは、いじめだ。完全にいじめだ。…豊臣軍の大軍が本気になれば落ちちゃうのに、なんで持ちこたえてるのか不思議でならなかった。

 なお、小和田哲男センセは、山中城は秀吉がどうしても落としたかった城であったのに対して、韮山城は無理せず押さえておけばいい城だったという趣旨の論文を書かれている。
 
 韮山城跡に登ってゆく前にまずは韮山図書館で郷土資料を探した。図書館を出ればもうそこが、森忠政が2100の兵で陣を張った木戸稲荷陣城付近(韮山城包囲の前半戦)だ。
見事に田んぼだ…。そして田んぼにはミステリーサークルまでできている。

木戸稲荷陣城付近
森忠政がいた陣城付近より、韮山(手前の山)
を撮影。


 韮山城に登る前に韮山郷土資料館で予習。資料館の方はとっても優しかった〜。
 木戸稲荷陣城について、”今でも木戸稲荷の小祠が存在する”という文字情報を入手したので、つい探してみる。それらしき物を見つけたけど、この小祠がでかい。しかも中に仏像がお祀りしてある。masaさんには「それは小祠じゃないんでは…。」とツッコまれるも、この寺のお堂と見える大きさとその中に安置された仏像は、実は敵をあざむく仮の姿であり、まさにこの建物こそが小祠であってはならないので、とりあえずデジカメ撮影しまくる。

 それから韮山城とは目と鼻の先の和田島口もチェック。ここに森忠政は兵をすすめたようだ。

和田島口付近
森忠政が軍を進めた「和田島口」あたり。
韮山郷土資料館の布陣図に描いてあった。

 韮山城跡に登れば、総土盛り。すごく短時間で登頂してしまった。そして城跡でお昼ご飯にする。コンビニご飯を食べ、おやつには韮山名物のイチゴにちなんだイチゴソフトクリームを食べた♪名物がニラソフトじゃなくてよかった〜。

 韮山城ついでに、masaさんが守山付城(豊臣軍が築いた付城)のそばにある北条政子産湯の井戸と、伝堀越御所跡を案内してくださった。キャラ戦略で描かれたに違いないマンガチックな茶々丸(名前はかわいいけどその人生たるや…)が埴輪と戯れている絵が看板に描いてあって世の無常を感じた。

 そして、この地をあとにする。
地図に書いてあった地名「韮山韮山」が個人的には気になったままだ。
地図の誤植かと思えば、現地の案内看板にも「韮山韮山」と書いてあった。「上条城(じょうじょうじょう)」以来の衝撃だ。


 
 もし、時間があれば連れて行ってほしいという私のリクエストという名の強要で、masaさんが芝川町本門寺へ車を走らせてくださった。しばらく山道を行けば、大きな寺にたどり着く。信長の旗がいっぱいだ!

芝川町のいたるところに、のぼり
「西山本門寺首塚由来信長まつり」
というのぼりが。(まつりは11/8)

 本因坊算砂(囲碁の名人)が原志摩守宗安に、本能寺で死した信長の首級を託して西山本門寺に埋めて首塚を築いて柊(ひいらぎ)を植えた、という伝承がある。

夕暮れでずいぶんと薄暗くなっていた中、信長の首塚にお参りした。そこに植えられている柊は、病気なのか、枝を丸落としにされて、カバーされ、なんだか残念なことになっていた。
 境内には別の場所に「信長公没421回忌 記念植樹の大柊二代目 by 織田信成」なる柊の木もあったけどこっちの存在は気にかけまい。 

本門寺の信長公首塚
大柊が植えてある場所がそれ。
歴史番組でもミステリーとして取り上げ
られて有名になった。
卒塔婆
大柊に建てかけられた
信長公追善の卒塔婆


 旅のグランドフィナーレには、富士宮市の浅間大社へ。
天正10年4月、織田信長は武田攻めのことは息子に任せ、自身は視察で甲府まで行ったが、その折には激しく寒い富士の裾野の原っぱで、お小姓と御くるひ(お小姓とばっかりやってるが、これは野外スポーツらしい)に興じたり、浅間神社富士山白糸の滝人穴(富士山大噴火の跡にできた洞窟)を見に行っている(『信長公記』)。前後の日記の流れで推測するしかないけれど森蘭丸もこっちのグループに同行していたのだろうか。
もはや観光だ。しかし、泣いても笑ってもあと2ケ月の命。

浅間大社
多くの武将のゆかりの大社。
奥の院は富士山頂にある。
暗くて画像が見えずらくてスミマセン。

 そして新富士駅にて、ついにmasaさんとお別れ。
masaさんには本当に一日、私のわがまま放題やりたい放題で大変お世話になりました。(^o^)
 

 そして、私は一人、新幹線に乗って名古屋駅まで行く。
お腹すきまくりで、駅弁を買おうとしたところ、車内販売のおねーさんに
「お弁当はすべて売り切れました。サンドイッチだけなら残っています。」
と言われて、サンドイッチが私の夕食となった。

 名古屋駅から特急に乗り、ようやくたどり着いた松坂駅。そこから旅館に向かうのに道に迷って、結局おかみさんに探し出してもらった。ただの側溝を阪内川と間違えてしまったがゆえに地図を読めなくなって迷子になった。そうして宿についたのは11時過ぎ。
 お風呂に入って久しぶりに普通に「布団」で横になると、疲れでそのまま撃沈。

つづきはページを変えました。→つづき(2ページめ)