森家を追って地下まで潜る旅

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                2009年8月29日-30日 in 大阪と兼山と名古屋 

織田信長公の葬儀に参列する謎の発光体
in大阪城天守閣

 ※これは旅行記の1ページめです。→2ページめ

■ 2009年8月29日(土) 大阪城の地下に潜る。

 
 お金がないのに森家ストーカーになってしまった福岡県民の味方、それは夜行バス。

 ■月末は残業の連続。
 ■大阪城の豊臣時代の石垣を見たいヒトー!(^O^)/とお誘いがあった。
 愛と野望の名古屋城に行きたい(4月に見逃した清洲櫓をどうしても見たい)。
 徳川美術館に行きたい(特別展に出品されている森長可の書状を見たい)。
 兼山に行きたい(脳みそは常にこの状態)。
 お金がない(だからといって諦めきれない)。

 働くふりをすれども、働くふりをすれども我が暮らし楽にならず。じっと長久手合戦図絵巻を見る。

 しかし、人生は一度きりで明日にはどんな事になってしまうかわからないのだ。「いつか行きたい、いつかやりたい」ではきっと駄目なのだ。こんなに行きたい理由があるのに行きたい場所に行けないはずはない。

試行錯誤の結果:

会社(残業)→夜行バス(\6,000)→大阪城→夜行バス(\2,800)→兼山&徳川美術館&名古屋城
→夜行バス(\5,500)→会社(残業)

 会社からそのまま夜行バスに乗るようにすれば残業できるし、夜行バスの中で夜を過ごすことによりホテル代も浮いてラッキーである。案ずるより横山やすしである。

 28日(金)はリュックを背負い、キャリーバッグを引いて会社に出勤した。仕事は残業だったけどお風呂に入る時間があったのでラッキー(予定では翌朝に大阪の銭湯に行く予定だった)。

 29日(土)の朝、夜行バスで大阪駅に到着する。
地下鉄に乗って心斎橋駅まで出て、キャリーバッグを駅のコインロッカーに入れる。足元では駅員さんが暴れるおじさんに寝技をかけているのであった。

 私はリュックひとつの身軽になって森ノ宮駅で下車。大阪城内の市民の森のベンチに座り、おケツの下にはハチの巣があったことに気づかずに朝食。朝8時から今日の野望開始と立ち上がった瞬間5、6匹のハチからおケツに特攻されて時の人となる。

                   

大阪城
暗雲たちこめるキャッスルキャ★

 徳川家康が大阪城普請を命じた時の普請図が残っていて、森忠政の担当した石垣の普請担当場所(丁場)もちゃんと判る上に、森家の石と判る刻印が刻まれているのだ。大阪城には今まで何度か訪問しているのに、この城がそんなアミューズメントパークだったなんて今まで考えもしなかった。

大阪城で確認された
ザ・森家の刻印。

 資料を片手に石垣を見学する(今回は『大坂城の謎』村川行弘(学生社)と『大坂城普請丁場割之図』(大阪城天守閣』が資料)。
 この大阪城のあの場所とあの場所に森家の手が加わっているのだと判ると、何だか石垣が具体的過ぎてこみあげてくるものがあり…好きです(ポッ)。

 しかし、大阪城で実際に図を重ね合わせてみると、森家の丁場は内堀と外堀の石垣ばかりなので、もしかして堀に飛び込まない限り、刻印までは見えないんじゃないかという事に気付く(遅)。
 天守閣をガン無視して3時間ほどかけて城の外周を見てまわった。普請割を見ると各大名の持ち場はあちこちに分散して極端に細かい。森家にしてもチマチマと六、七ヵ所に分けられていたっぽい(3期に渡る工事です)。
 森忠政にとっては、ミスがあればそれがすぐにお家の未来に関わるこの石垣普請の仕事は途方もなく神経を使うものだっただろう。お金もジャンジャン飛んでゆく。ああ、信濃時代に領民に恨まれるほどにガッツリ検地して石高増やしたのにぃ〜。

                        

大阪城 たのしい森家丁場めぐり。

大きな地図で見る
google mapに森家の丁場とその画像を入れてみました。
石垣沿いのライン(赤・黄)やポインターをクリックすると管理人撮影の画像を
含むしょーもない解説文を見ることができます。
でも、この画面上の操作ではいじくりにくいので「大きな地図で見る」で別
画面にしてご覧ください。

 そして丁場めぐりの合間に、「石山本願寺推定地」の石碑をついに撮影成功!当サイト初!
 数年前ここに撮影に来た時には、この石碑の前にレジャーシートを敷いてお昼ごはん食べてる家族がいて「福岡からホントにこの為に来ました。」と言い出せずに諦めて帰った。

石山本願寺推定地
森家が信長との和睦に導いた因縁の石山本願
寺。この寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を建て
た。


 森家の丁場をちょうど見終わった頃にお友達と刻印広場で合流。
再会した次の瞬間には「森家の山の刻印がわからない!探して!」と訴え、刻印を見つけてもらう。

刻印広場
竜造寺町から発見された森家の残念石が城
内の「竜造寺町ゾーン」で展示されている
(森家の石は画像一番右のやつです)。
森家の刻印
この大阪城の石垣にも多
発するダブル山マーク。
森家の刻印

 天守閣に入って特別展『戦国武将99人』展を見る。戦国武将が99人も紹介されているなら、当然、森ファミリーの誰かが紹介されていてもいいだろう(当社比)。
壮大な期待感を持って観覧すると、
上杉家書状…おおっ!
武田二十四騎画像。…一枚ものの絵に24人が勢ぞろいの画像。Σ(゜□゜;え、ちょ!これで24人一気にカウントアップ?!
福島正則画像。わぉ!
徳川十七将図。…Σ(゜□゜;え!17人分カウントアップ?
昇梯子文革包二枚胴具足[伝真田信之所用]。…おお!
織田信長書状…当然よね!
黒田二十四騎。…Σ(゜□゜;また2桁繰り上がり!!

そんなこんなで99人…そして会場をあとにしたが、ついに見つからなかった森ファミリーの紹介(涙)。大阪城天守閣は森忠政の血判も所蔵しているというのに。

戦国を森家抜きで語って何が面白いのだろう。
戦国を森家抜きで語って何が面白いのだろう。
戦国を森家抜きで99人も語って何が面白いのだろう。


______(以下、関係者に掲載許可を頂いております。)________
 
豊臣時代の大坂城石垣見学

 大阪夏の陣のあと、豊臣秀吉が築いた大坂城はどうなったか。
徳川家康は秀吉の大坂城を破壊して大阪城を築いたのか、それとも再利用してエコに努めたのか。

 現在の大阪城の地表より7.5メートル下の地下に謎の石垣(@野面積)が新発見されてその謎が解明したのだ、50年前に。それから更に『豊臣時代大坂城本丸図』が別口で発見されて、見つけた石垣は豊臣秀吉の大坂城のものなのだと判明。

 なんと、徳川家康は豊臣秀吉の石垣を十数メートルの盛り土で埋め立ててその上にマイ大阪城を造っちゃったのだ。

…と、いうことは、大坂の陣では、みんな、今の地表よりもっともっと深い場所で戦ってたのか。

 今回、何とも幸運なことに、その豊臣時代の大坂城石垣を見せてもらえる特別企画に参加させていただくことができたのだ。堀下げられた地下へ潜って。
地下に潜らせてまでして見せてもらえるのはこれが最後らしい。

 参加者は午後より天守閣前に集合。GWに韓国倭城めぐりでご一緒した皆さん(ほぼ全員)とも再会した。

大阪城天守閣
天守閣に入っている時にどしゃ降り
になって心配しましたが、地下へ
潜る時には止んでくれた。
謎の地下石垣へ潜る穴の入口
天守閣の目の前なので、一般の
ギャラリーにも上から覗きこまれつ
つ穴に潜る。

私は堀下げた空間が地下王国みたいに広がっているものを想像したら、上から下まで同じ直径の井戸サイズだった。しかも、この穴は2人で入ってギリギリなサイズ。
 

謎の地下石垣へ潜る穴の入口
この地下へ入る穴は頑丈なフタと柵で覆われ、
石川五右衛門でも入れないようになっている。
謎の石垣用キー
フタを閉じる錠(複数)を、クレ556した後にこの
鍵で開けてゆく。

 男性陣の力でフタを開けると、鉄格子(転落防止?)の間から深く下に石垣が出現!!!
ヘルメット着用で2人ずつ順番にハシゴを伝って下りる。しかし、ハシゴを上り下りする経験など滅多にないから、ハシゴを下っているうちに私は
「あれ?!次はどっちの足をおろすのだっけ?」Σ(゜□゜;
「次は右手を出すべきか、左手を出すべきか…。」
と、訳がわからなくなる。
 永遠に続くかと思われたハシゴを降りて、ようやく地下に足を下ろす。豊臣時代の大坂城の石垣(場所的には「中ノ段」帯曲輪の石垣の一部)が目の前に迫る___と、いうか目の前すぎて石垣を見るのに自分の身体が邪魔になる。
 「大坂城ォオオオ!!!」と、大興奮するも、ここで鼻血を撒き散らしたら文化財保護法か何かで「文化財に着色した。」と、処罰されそうなので、ただただ、大事な石垣を傷つけぬように見学した。

豊臣時代の大坂城石垣
地上から覗きこんで撮影した豊臣時代の石垣。
これでも深さは地上から7mほどある。
石垣を間近で見るため地下に潜る
自分が降りる姿を自分で撮影できな
かったので、他の方の降りてゆく模様。
豊臣時代の石垣
感動の空間。
後で知るには焼土層も確認できたらしい。
豊臣時代の石垣
白いのは当時の漆喰です。
踏まないようにご注意を。

 ________(以上、掲載許可を頂いております。)___

 感動的な地下潜入が終わった後は、参加者の懇親会会場へ向かいがてら城外に遺こる石垣を案内していただく。

まずは徳川時代の石垣

徳川時代の石垣(日本経済新聞社敷地内)
 元和6(1620)年に大阪城を再構築した時の旧
大和川左岸の護岸用石垣ではないかというこ
と(説明板より)。

 続いてマンション下に移築復元された豊臣時代の石垣を見学。
そして、「懇親会やるビルはこっち方向じゃないですよ〜。」「逆方向。」という声がして、大阪城を軸に180度反対方向へ移動して歩いてゆく。

三の丸北端の石垣
豊臣時代の大坂城の石垣。
移築復元されたもの。
  三の丸北端の石垣
自然石を使ったガッチョンガッチョン
の「野面積(のづらづみ)」だ。

 懇親会は夕方4:00から始まった。
会場は松下IMPビルの26階にあるパノラマスカイレストランで、大阪城が一望できるのだ(それが狙いらしい)!そこで贅沢に食事するのだ。
そして興奮醒めやらぬまま6:00に「お時間です。」と、きっちり追い出された。

大阪城俯瞰
こうして見ると改めてでっかいなぁと感じる大阪城。

 会場を変更しての2次会の途中で、私はおいとまさせていただく(その道連れ2名)。

福岡県民・いつも関西日帰りパターンの私が、大阪城のライトアップを見る機会なんてそうないのだ。ライトアップが見たいのだ。

 楽しみにしていたライトアップは…照明が激しすぎて大阪城そのものの輪郭が見えないくらいにまぶしいじゃないか!
大阪城ライトアップのために日本の電力をここに集めているのかと思ってしまうくらいだ。あー、エヴァンゲリオンでそういう話あったなぁ。

大阪城ライトアップ
デジカメでは伝わらないけど傍には月も照って
いて素敵である。もっと照明落してくれれば
ベター。
  庭園の池に映りこむ大阪城
いい場所を教えてもらった。
しかし、水面の大阪城もまぶしす
ぎる。

 案内くださったお二方とも大阪ビジネスパーク駅でお別れし、私は入浴の為に心斎橋駅に戻る。清水湯という駅裏の銭湯で汗を流し(時間がないのでスズメの行水)、大阪駅そばから夜行バスに乗って(11:50)、名古屋へGO!
と、眠りに陥った瞬間に
バスの運転手:「はい。名古屋へ到着です。」(朝5時すぎ)

地図が重いといけないのでつづきはページを変えました。→つづき(2ページめ)