秋だアニキだ★森の実りツアー 1→2ページめ(10/20-10/21)
2007年10月17日-10月21日 in 尾張・美濃
鶴ケ城手洗鉢 外から帰ってきたらウガイをして 手を洗おう。 |
■ 10月17日(水) 森家の砦でイガイガブーン!!! | ||||||||||||||||||||
朝、名古屋に到着。 旅の最初の目的地へ行くには「上挙母(うわごろも)駅」に向かわねばならない。読みが難しい。駅員に行き方を聞くと、「”うわごろも駅”なら”さなげ行き”に乗り替えてください。「は?」「さなげ行きです。「さな・・は?」「猿を投げると書いて猿投(さなげ)と言います。」 猿を投げる!!!!!Σ(゚□゚; 愛知県には、嫌がる猿を容赦なく投げ落とす谷底があるという(勝手な想像)。 上挙母には光明寺という坂井久蔵ゆかりのお寺があり、姉川の合戦で散ったこの若き少年を弔う。生きながらえれば森可成の娘婿になっていたはずの彼(信長が仲人)。久蔵と親戚に当たる武士が彼の顔に似せて作ったという久蔵地蔵を拝観できたけれど、それは優しく温和な顔。この世にあっては強く厳しく生きた人よ。 ついでに言えば、武藤兼友(森家家臣)が、朝倉攻めの時にこの坂井久蔵の活躍を褒めたばっかりに森可成はブチ切れ(←武藤に)、その直後の武藤の愚痴に嫡男・森可隆がブチ切れ(←武藤に)、ついに可隆は手筒山城で一番乗りを果たして帰らぬ人になったのだった…。姉川の合戦に至る前のお話。 今回をおいては、もぅ上挙母には来る事はまず無かろうと周辺を散策。30分くらい歩いて豊田市美術館の敷地に挙母城の櫓発見!!!江戸期の挙母藩に由来する城の櫓らしいが中には入れない…。中に入れないです(終了)!!!結局、そのまま豊田駅まで歩いて行った。 関係ないけど”豊田市”という地名は某車企業にちなむ時代的には新しい地名だったのね…。昔は「豊田」一帯も「挙母」と呼ばれていたのを初めて知った。地名、変えてしまったのだ…。
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■ 10月18日(木) アイドルマウンテン・蘭丸山巡礼 | ||||||||||||||||||||
車で高速を走る。って…デミオ(普通車)のせいで高速代が高くついたじゃないかぁ〜!!!! 中津川市手賀野に蘭丸山と言い習わされた山がある。『美濃明細記』に、「森某居之」と書かれた山だ。岩村周辺までも森家の領土が拡大された時期があることを思えば、中津川市に森家の名残があっても何の不思議もない。ようやくに山の麓にたどりついて、怪しげに車を停めて山に入っていく。 視界が開けたと思いきやいきなり貯水池。水がめになってしまっているのか蘭丸山。貯水池の水を越えるのに、たよりない鉄板の橋をドキドキしながら渡って行く。ここでひっくり返ったら、私の愛と勇気は岐阜県民の飲料水に混じるのか。 貯水池を越えれば自然の世界。沢の流れに心地よくなりながら進んで、沢を渡り、いよいよ蘭丸山の山頂を目指すことになる…ハズなのに、入り口が無い!!!! 探せど探せど、道っぽい道もないし、入り口の案内も出ていないし。ここまで来たのに!! どこかに隠れたボタンを押せば、山肌から黄金の扉が出現する仕組みなのだろうか…。道は、自分で切り開くものなのだろうか。私の前に道はない。私の後ろに道は出来る。 …しばし、考える。_| ̄|○ いや、引き返すのもまた勇気。残念な思いで蘭丸山を後にした。
次の高山城跡で、また道に迷いウロウロ。ようやく判った登山口には「古城山穴弘法」というノボリがはためき、山肌に沢山の穴がうがたれ、100体近いお地蔵様が並んですごい景色だった。城主だった平井頼母は森長可に降伏して、長可はこの高山城の城番として叔父の林長兵衛為忠を置いたという。…浄土真宗の熱心な信者だった林為忠のお城の麓は今、真言宗のドツボなるぞ。
次の目的地を下麻生城跡(麻生城跡)に定め、可児金山線を突っ走る。森長可の家臣・井戸治兵衛がこの城にいたという。しかし、道路沿いにあるとはいえ、細い木の柱に「下麻生城址」があっただけで、動体視力の弱い私は何度も見逃して通りすぎ、麻生の地でUターンを繰り返した。…車がすごいスピードで走るので探し物をしながらの運転はとても怖かった。
登りつめた本丸跡は疑わしくなるほど狭かった!かなしうこそものぐるをしけれ!!!!!!!山頂には愛宕社がのっかっているが、山頂が非常に狭い。「俺だけが助かればノープロブレム(by肥田玄蕃)!!!」という感じの手狭さだったし、虎口のかっこよさも見うけられず。森家の金山城とはあまりにも規模が違いすぎる。単なる見張り台とかじゃないと納得できない…。麓に肥田玄蕃の館があったというから、きっと、きっとそこがすごい防衛設備なのだと信じたい。
の、はずだったのに、レンタカーがあるのだし、下呂温泉に行ってみよう♪
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■ 10月19日(金) 森玄蕃…君は誰? | ||||||||||||||||||||
今日も早朝からお城めぐり!!さぁ、早朝ならまだ車も混んでいないし、沢山の城をめぐ…ろうかと思っていたら、通勤ラッシュに巻きこまれた。で、肝心の城が近づくと、渋滞も解けて他の車が急に猛スピードになる。つられて私もアクセルを踏みつつ、 「この辺!室原城跡はこの辺!!!!って、アッタァアアアア!!!」 と、気づけばもう城跡の山を見送っている。これで往復をくり返し、やっと、車を停める場所も見つけて、室原城跡へ入城することに。城主の可児秀行は、森可成の金山入城とともに、森家に従ったという。『可児氏』の家紋が『蟹』であったことに、「ちゃんと笑いのツボを心得た一族だったのだ。」と、ホッと胸をなでおろす。 しかし、入り口は見つけたけど、山に入る道がないのでどう進んでよいものやら。しばらく山中をウロウロしたけど、山頂へ進めそうにないので、諦めてしまった意気地なし。 続いて、今城跡。ここはコンパクトで虎口などの遺構も判りやすい。しかし、シイタケが栽培してあるので、シイタケ泥棒と間違われないように細心の注意を払わなければならない。 ここは小池家継が築いた城だけど、森長可の命令で城を退去したという。この城主に関係があるのか、山中には五輪塔もあった。
結局、その後、集まった奥さま達が本の著者を呼び出してくださった。何か、すごいな根本。根本砦まで登ってきた事をお話すると、驚かれつつ「昔、あのお城の井戸の水辺にはマムシが沢山いて…。」
と、いう訳で森忠政も保護した虎渓山永保寺にお参りした。森家の勢力って、中津川から多治見、犬山あたりまで大きく広がっていたのだなぁ。美濃国にこれだけ勢力を持っていて、森忠政が徳川から金山をとられて川中島へ転封にされたのって…やっぱり忠政からすれば「ハァ(ーe一)?!」という感じだったのではないかと思う。森長可の場合は金山の本領に加えて川中島を貰えたのだろうけどね(←うきき説)。
バスに乗り、多治見駅に着いて、さぁ、兼山に向かうぞ!と思ったら、またJRの待ち時間長し。別行動で兼山に向かう愛平さんに連絡すると、愛平さんは愛平さんで武蔵塚お参りなんかをした後にヌレネズミになってしまっていたようだけど、新可児駅に集合で決まり!!再会を喜びつつバタバタと列車に乗りこみ、明智駅からYAOバスで兼山に向かう。 |