だアニキだの実りツアー →2ページめ(10/20-10/21)
                                    

                                 2007年10月17日-10月21日 in 尾張・美濃 

鶴ケ城手洗鉢
外から帰ってきたらウガイをして
手を洗おう。
 10月17日(水) 森家の砦でイガイガブーン!!!
 朝、名古屋に到着。
 旅の最初の目的地へ行くには「上挙母(うわごろも)駅」に向かわねばならない。読みが難しい。駅員に行き方を聞くと、「”うわごろも駅”なら”さなげ行き”に乗り替えてください。「は?」「さなげ行きです。「さな・・は?」「猿を投げると書いて猿投(さなげ)と言います。」
猿を投げる!!!!!Σ(゚□゚;
愛知県には、嫌がる猿を容赦なく投げ落とす谷底があるという(勝手な想像)。
 上挙母には光明寺という坂井久蔵ゆかりのお寺があり、姉川の合戦で散ったこの若き少年を弔う。生きながらえれば森可成の娘婿になっていたはずの彼(信長が仲人)。久蔵と親戚に当たる武士が彼の顔に似せて作ったという久蔵地蔵を拝観できたけれど、それは優しく温和な顔。この世にあっては強く厳しく生きた人よ。
 ついでに言えば、武藤兼友(森家家臣)が、朝倉攻めの時にこの坂井久蔵の活躍を褒めたばっかりに森可成はブチ切れ(←武藤に)、その直後の武藤の愚痴に嫡男・森可隆がブチ切れ(←武藤に)、ついに可隆は手筒山城で一番乗りを果たして帰らぬ人になったのだった…。姉川の合戦に至る前のお話。

 今回をおいては、もぅ上挙母には来る事はまず無かろうと周辺を散策。30分くらい歩いて豊田市美術館の敷地に挙母城の櫓発見!!!江戸期の挙母藩に由来する城の櫓らしいが中には入れない…。中に入れないです(終了)!!!結局、そのまま豊田駅まで歩いて行った。
 関係ないけど”豊田市”という地名は某車企業にちなむ時代的には新しい地名だったのね…。昔は「豊田」一帯も「挙母」と呼ばれていたのを初めて知った。地名、変えてしまったのだ…。
光明寺
坂井久蔵に似せたお地蔵様がご本尊。
ふっくら優しいご尊顔。
『久蔵地蔵さんものがたり』(パンフ)あります。
上挙母城隅櫓
城の名前が読めない時点で難攻不落。


 岐阜駅に行くと、駅そばにできたばかりの岐阜シティ・タワーが高くそびえるのを発見!!
「展望台から天下を睥睨するのもまたよろしかろう。」と、展望台へ登ろうとすると、「30分待ちです。」と、言われ、瞬時にやる気をなくして予定のレンタカーを借りに行く。

 今回の旅は、レンタカー無くしては回れない場所ばかり。自分の車以外の車を運転するのはかなりの恐怖なのだけど、軽自動車なら何とか運転できるかもと勇気をふりしぼって予約したものなり。しかし…実際に借りに行くと
レンタカーの人:「軽がご用意できなかったので、デミオ(普通車)をご用意しました。」
と言われ、マイカーより車体の大きい車を差し出される。
えええええええ(恐怖)!!!Σ(゚□゚;
こっちは青ざめているのに、レンタカーの人は”軽自動車のレンタル代で普通車に乗れるなんて、ラッキーだね、よかったね♪”風味の笑顔をしているではないか。_| ̄|○
そして、私がまだシート調整もせず、心の準備もできないうちから、レンタカーの人は道路に出て「オーライ♪オーライ♪」する。
オイラ、この町の道はよくわかんないし、カーナビすら目的地をセットしていない。せめてカーナビをセッ…。
「はいはい、オーライ♪オーライ♪」
ビヨヨヨヨヨーーーーー!!!!と、車のアクセルを踏んで右も左もわからず岐阜市内ど真ん中の大通りに強制発射されて、私のドライブツアーははじまった。
 

武芸八幡宮の参道
「若くして散った信長父子の夢とロマンが
感じられます。(教育委員会説明より)」


 関市の武芸八幡宮。織田家の保護を受け、信長・信忠・信孝の安堵状のほか、坂井政尚・森可成の連署書状も残るこの八幡宮。ネーミングからして武士が寄って来そうな神社ではあるが、そもそもこの神社を再興した人は森家の先祖にあたる人という。
 我ひとり神域に足を踏み込めば、下界を隔つ緑深き杜。静寂の中、森可成の時代そのままの風景を感じながら玉砂利を踏んで本殿へ歩いた。神社は無人だったけれど、パンフレット『信長と八幡宮』が山積みしてあり、森可成や蘭丸のことも書いてあったし、書状の画像も掲載してあったので、ごっそりと持ちかえる(※注:その分、お賽銭奮発!!知人らに配布しました)。

 それから、同じく関市内の十六所山砦(じゅうろくせんやま)に向かう。森長可の築いた砦だ。周辺まではレンタカーの言いなりで難なく来る事ができた。しかし、砦の入り口の目印となる白山神社が見当たらないし、カーナビが車で階段を登るように暴言を吐き始め、暗殺されそうになる。どう見てもカーナビが入りたがっているのは自動車学校。デミオよ、階段を登ろうとしてまで仲間の群れに戻りたいのか!!
 きっと、目の前にあるこの山が十六所山なのだろうと思いつつも、入り口を求めて何周もグルグル〜と1時間。何やってるのだ、我(TへT)。もうたまらずに山の麓の工場に飛び込んで砦に上りたいことを告白。
「自動車学校の敷地の中に白山神社があるので、そこから登るといい。
車では神社に入れないよ。」
敷地の中に神社って!!!Σ(゚□゚; …ようやく、悟りを開いた私は、工場に車を置かせてもらって山に入った。
 おおおお!!!!予定より遥かに時間超過。ダッシュで神社に懸け込んで砦を目指す…って、ここ最近、人がこの山に入っていないのか、神社の上からは道がなくなっていた。それでもここまで来たからには登らずにはおれず、草をかきわけ遺構を目指す!!
クモの巣にひっかかり、植物のトゲトゲに下半身をハリセンボン状態にされ、草木にからまれる恐怖に堪えながら砦の姿を探す。お尻にパンダの顔がついたクモが眼前に現れた時は血の気が引いた。

十六所山砦(じゅうろくせんやまとりで)
間違って「じゅうろくしょ」…と読むとパンダに
取り囲まれることになっている。


 やっと登り詰めた山頂…砦…でも、雑草が多くて砦の遺構が全然わからず…。ただ、山頂は削ってあるかなぁ、くらい…_| ̄|○ 道無き道を歩いたので、振りかえると早速に帰り方がわからない。私はどこからやってきて、どこへ下りようとしているのか。山のヘリを歩くと、ポロポロと壁面が四角に剥がれる。下手すると、壁面と一緒にガケを転がり落ちることとなる。山を下っては行き止まりでまた山頂に戻り、ウロウロしているうちに日が傾き始めて焦る。
「今日は車で10ケ所回る予定が、2ケ所しか行ってないじゃないか(その2ケ所目も脱出できてない)!!!」
とりあえず、どうでもいいから麓に出よう、と、壁面を伝って山を下りていると、急に見知らぬ山道が登場した。神よ!!Σ(゚□゚; と、大喜びで下りて、ザザーーーっと麓に着地すると、そこは人サマの家の庭の中。しかも、その庭に人が立っていた時の恐怖。
「お庭を通ってよろしいでしょうか?…お庭を通ってもよろしいでしょうか!うわ〜ん!!!」
目にも留まらぬハヤワザでダッシュして逃げた…。
 そしてようやく麓に下りて、下半身ハリセンボンなまま、車を置かせてくれた工場にお礼を述べて、関市をあとにする。
今日はこの後も楽しい山城めぐりが目白押しのハズが、空は夕焼けがはじまっている。クモともギリギリの戦いをしたし、体力も消耗して力尽きそう…。

 
 トゲトゲのボロボロの半泣きで車を走らせ向かったのは、本日は予定していなかった森家の故郷・私の愛する兼山。大いなる兼山の懐に包まれて合戦の傷を癒してもらおう。泣き出したいのをこらえながら可成寺に入り、森家の墓に入兼のご挨拶。そこはかとなく安堵感を感じながら、夕映えの森一族の墓前で下半身のトゲトゲを抜いた。
 その後、蘭丸振興会の鶴丸さん[URL]にも押しかけお会いできて、靴はトゲトゲのまま今日の収穫を語った。ここへ来てまだ「私は軽自動車を借りると言ったのにレンタカー屋が普通車をよこした!!」と愚痴る私に、
「軽は事故を起すとすぐにグチャグチャになっちゃうから、普通車のほうがいいよ。」と、(何だか腑に落ちないけど)…励ましてもらった…。
 今日はせっかく車があるので、可児市内のスーパー銭湯に行って心ゆくまで数種類の風呂を楽しんだ。
 初日は興奮して眠れないのが常だけど、今日はぐっすりと眠った。

可成寺から見た夕陽
この景色こそがわが生きる甲斐なり。


 

  10月18日(木) アイドルマウンテン・蘭丸山巡礼
 車で高速を走る。って…デミオ(普通車)のせいで高速代が高くついたじゃないかぁ〜!!!! 
 中津川市手賀野に蘭丸山と言い習わされた山がある。『美濃明細記』に、「森某居之」と書かれた山だ。岩村周辺までも森家の領土が拡大された時期があることを思えば、中津川市に森家の名残があっても何の不思議もない。ようやくに山の麓にたどりついて、怪しげに車を停めて山に入っていく。
 視界が開けたと思いきやいきなり貯水池。水がめになってしまっているのか蘭丸山。貯水池の水を越えるのに、たよりない鉄板の橋をドキドキしながら渡って行く。ここでひっくり返ったら、私の愛と勇気は岐阜県民の飲料水に混じるのか。
 貯水池を越えれば自然の世界。沢の流れに心地よくなりながら進んで、沢を渡り、いよいよ蘭丸山の山頂を目指すことになる…ハズなのに、入り口が無い!!!!
探せど探せど、道っぽい道もないし、入り口の案内も出ていないし。ここまで来たのに!!
どこかに隠れたボタンを押せば、山肌から黄金の扉が出現する仕組みなのだろうか…。道は、自分で切り開くものなのだろうか。私の前に道はない。私の後ろに道は出来る。
…しばし、考える。_| ̄|○
いや、引き返すのもまた勇気。残念な思いで蘭丸山を後にした。
蘭丸山
マウント・ランマル。
登山口を見つけていつか山頂を極めたい。


 明知城跡も予定していたけど、昨日の予定もこなしたいし、明知城跡はレンタカー無しでも行けるので、今回は諦めた。
 次にたどり着いたのは鶴ケ城跡。この領地が森家支配下に入った時に、関勝右衛門なる人が置かれたという。”高野・神篦(こうの)城”という別名は、関小十郎共成の妻であった可成の娘”こうの様(鴻野さま・高野さま)”を連想させる。果たして、かの貴婦人はこの城に関わりがあるのだろうか。

鶴ケ城本丸跡
こじんまりとしていい感じ。
お風呂井戸もついている。


 出丸や井戸の遺構は私にも判るくらいきれいに残っていたので大興奮。かつての武田攻めの折には、織田信長もこの城に宿泊したとのこと。と、なると当然、蘭丸もここに来たということかしら?
 山を下りて自分の下半身がまたしても植物の種だらけ(今日はサンカクのネバネバした種!!)なことに気づく。
 鶴ケ城のすぐ近くには、小里城跡がある。こちらには、なんと専用駐車場もある!!
山に入ればすぐに石垣の群れ。「小里氏御殿場跡」の広場があって、難なく着いた〜と、喜んだ。
 小里城主の小里光明は本能寺の変の後に森長可に逆らって城を出ていくはめになり、その後「助けてドラえもーーーんん!」と、徳川家康を頼る。 
そうして御殿場の遺構にフィーバーしていた私も…\(^o^)/…本丸はここじゃないんだ…ここは麓の御殿なのだから…と、気づいて、本丸のある山を登る。きっちりと山道があるだけマシだけど、かなり細い道に不安になりつつ、「まだか、まだか」と、汗だくで30分くらい登り続ける。ようやくたどり着いた山頂には巨石がゴロゴロ、主郭の石垣も残っていて圧巻だった。

小里城本丸跡
登りつめたものだけ見れる特典の石垣。

 次の高山城跡で、また道に迷いウロウロ。ようやく判った登山口には「古城山穴弘法」というノボリがはためき、山肌に沢山の穴がうがたれ、100体近いお地蔵様が並んですごい景色だった。城主だった平井頼母は森長可に降伏して、長可はこの高山城の城番として叔父の林長兵衛為忠を置いたという。…浄土真宗の熱心な信者だった林為忠のお城の麓は今、真言宗のドツボなるぞ。
 山頂をつきつめれば、平地が広がっていた…というか、思いっきりアスファルトじゃないか…何よこれ…車道があるし。油断しまくってカギかけっぱなしの車が山頂に放置してあるし…。
 肝心の遺構といえば、土地をいじくりまわされてよく判らず。城跡のど真ん中に排水池があって、でもその排水池は埋め立てられていて、その埋め立てられた土の上にベンチが置かれていた…しかし、その周りは鉄柵をめぐらされていて、カギがかかっている…これは選ばれしカップルだけが鉄柵の中に入ってベンチに座ることができるのか?ベンチに座るには、市役所に申請とかしなくちゃいけないのか?
どうしろというのだ、高山城!!!!

高山城跡
飛騨高山城に負けるな、美濃高山城!!
下麻生城址
説明ナッシング。遺構はよくわからなんだ…。

 次の目的地を下麻生城跡(麻生城跡)に定め、可児金山線を突っ走る。森長可の家臣・井戸治兵衛がこの城にいたという。しかし、道路沿いにあるとはいえ、細い木の柱に「下麻生城址」があっただけで、動体視力の弱い私は何度も見逃して通りすぎ、麻生の地でUターンを繰り返した。…車がすごいスピードで走るので探し物をしながらの運転はとても怖かった。

 次は米田城跡へ向かう。森家の本拠地・金山城とは木曽川を挟んだ近い場所にある。城主・肥田玄蕃は、森可成には従っていた。宇佐山城の攻防でも、森家の家臣らと一緒に頑張った。宇佐山城を落城させずに守り抜いた。
 しかし、本能寺の変の後、森家との仲は険悪になる…ついには長可に「館を建てるからお前のとこの馬串山をくれ。」と、イチャモンをつけられる。肥田玄蕃が断ったら長可に逆ギレされ、攻め込まれて落城に追いこまれる。
長可が、本能寺に斃れた蘭丸らの葬儀をしたその日のうちに血祭りにあげたのがこの米田城だった。

 城跡の山に車を走らせると、麓でおばちゃん達が井戸端会議をしていて、私が車をバックして山の麓に停める行動までをめっちゃ目で追われる(緊張)。城跡に登ると話すと驚かれつつも、
「神社の奥の左側に道があるでな。」
「いや、右側やったよ。ハハハ」 
「一人で登るの?」
「神社の奥の右側に道があるよ。」
「神社の右側に道があるからね。」
「神社の右(以下同文)」
「神社の右に(以下同文)」
「気をつけてね〜。」と、励まされつつ、山に入る長い階段を登り始める。しかし、スタミナがだんだんと無くなってくる。足がガクガクしながらも、ただただ森家への思いにひかれて山を登りゆく。青い石が沢山あって、神秘的だったぞ、肥田玄蕃。
汗だく、足ガクガク、そして容赦無く太陽が照りつける中、リュックの中でケータイが鳴る。
うっかり出ると、大昔に登録したことのある派遣会社からだった。
「うききさんの、現在の状況確認でお電話いたしました。」
 現在、うききさんは、肥田氏の築きし米田城本丸跡のある山頂に向かって登っているのであります。
登山しながら就職話。汗だくの耳にケータイをくっつけて、危うく水没させるところだった。

米田城址本丸跡
狭いぜ、切ないぜ、肥田玄蕃!!!

 登りつめた本丸跡は疑わしくなるほど狭かった!かなしうこそものぐるをしけれ!!!!!!!山頂には愛宕社がのっかっているが、山頂が非常に狭い。「俺だけが助かればノープロブレム(by肥田玄蕃)!!!」という感じの手狭さだったし、虎口のかっこよさも見うけられず。森家の金山城とはあまりにも規模が違いすぎる。単なる見張り台とかじゃないと納得できない…。麓に肥田玄蕃の館があったというから、きっと、きっとそこがすごい防衛設備なのだと信じたい。
 続いて馬串山砦に登る。ここはそもそも肥田玄蕃の嫡子・長寿丸(名前に反して短い生涯)の住まいがあったらしいが、後に長可がこの場所を乗っ取り、牛ケ鼻砦(後出)に対抗して砦にした。この馬串山に登りたかったのに「マムシがいるからやめて。」とかつて何度も止められた。その山についに登る。砦の跡には、平坦地や虎口みたいなものも残っていて、米田城よりは遥かに意味がわかる。
 
 この後、折角だから牛ケ鼻砦にも行ってみた。加治田城の斎藤氏(彼のバックには織田信孝がついている)が守っていた砦。馬串山と牛ケ鼻砦が両者の境界だったのだろう。馬Vs.牛。結局、馬が牛を破るのであるが。
 牛ケ鼻砦は今は、新興宗教の施設となり、でっかいでっかい天狗さまが鎮座ましまし…。それでちょっとビクビクしていたのだけど、施設内に入り城跡の石2コを確認。遺構はもうわからないので砦見学終了。

馬串山砦
肥田玄蕃の子・長寿丸が暮らしていたのを、
森軍が攻めこんで砦にしたという。
牛ケ鼻砦(毛利山城跡)
遺品は、石、2こだけです。


 あとは、飛騨川の真ん中に浮かぶ小山観音でマニ車をグルグルしたり、ロウソクを灯したり、あいだみつをの詩を観賞したりして日没まで過ごした。ここは森長可が加治田城を攻める時にご祈願した観音様でもある。
今回の訪兼で「金山城跡に登りたいです。」と言っていた女子大生・愛平さんに電話してみると、愛平さんは旅に履いていく靴をどんなのにすればいいのか悩み中(←前回、ヒールつきの靴)。
運動靴ダッ!絶対に、運動靴ッウ〜〜!!!!!(ドキドキ)(゚皿゚;
…こうして水を眺めつつ史跡めぐり2日目が終わる。

小山観音
対岸の敵から矢を射掛けられつつ長可も参拝。
手水でおくちクチュクチュ。

 の、はずだったのに、レンタカーがあるのだし、下呂温泉に行ってみよう♪
という考えを起してしまった…。行きつけのお店で味噌煮込みを食べると、お店のオジちゃんがバナナをくれ、お兄さんがアメをくれた。
カーナビを下呂温泉に設定し、言われるがままに可児金山線を走る…と、だんだんと車がなくなり、細くてクネクネした道に入りこみ、やがて街灯もない闇の中。やっと後ろに来た車は120km/hくらい出している!!!レーサーかっ!!!一車線なので慌ててその車に道を譲り、後ろからついて行こうと思ったのに、車はすぐに私の車を突き放し、キラリンと、お星様になった。こうして1時間30分、後走の車が来るたびに道を譲りつつ、緊張に継ぐ、緊張で、下呂へ向かった。
 下呂温泉の中心街に出ると、いきなりきらびやかな町が登場。今までの暗くてクネクネした危険な通い路は何だったのだろう…下呂温泉では公共浴場の白鷺の湯(300円)に入った。織田信長が森長可ら家臣と共に慰安旅行したのではないかといわれ、森忠政も利用したという天下の名湯・下呂の湯に身体をひたす。

白鷺の湯
ああ…長可や忠政もこの湯に…


湯は良かったけど、帰りもまた緊張しまくりの1時間30分の道のりなのだった…。

 ■ 10月19日(金) 森玄蕃…君は誰?

 今日も早朝からお城めぐり!!さぁ、早朝ならまだ車も混んでいないし、沢山の城をめぐ…ろうかと思っていたら、通勤ラッシュに巻きこまれた。で、肝心の城が近づくと、渋滞も解けて他の車が急に猛スピードになる。つられて私もアクセルを踏みつつ、
「この辺!室原城跡はこの辺!!!!って、アッタァアアアア!!!」
と、気づけばもう城跡の山を見送っている。これで往復をくり返し、やっと、車を停める場所も見つけて、室原城跡へ入城することに。城主の可児秀行は、森可成の金山入城とともに、森家に従ったという。『可児氏』の家紋が『蟹』であったことに、「ちゃんと笑いのツボを心得た一族だったのだ。」と、ホッと胸をなでおろす。
 しかし、入り口は見つけたけど、山に入る道がないのでどう進んでよいものやら。しばらく山中をウロウロしたけど、山頂へ進めそうにないので、諦めてしまった意気地なし。
 続いて、今城跡。ここはコンパクトで虎口などの遺構も判りやすい。しかし、シイタケが栽培してあるので、シイタケ泥棒と間違われないように細心の注意を払わなければならない。
ここは小池家継が築いた城だけど、森長可の命令で城を退去したという。この城主に関係があるのか、山中には五輪塔もあった。
室原城址
ムガッ!!!
今城址
さぁ、君も今こそシイタケのヒミツに迫ってみほ。


 レンタカーは今日のお昼1時に多治見駅で返却することにしている。では、ドライブツアーのグランドフィナーレは多治見駅の手前にある若尾元昌の根本砦に行ってみよう!!!
 と、元気良く登り始めた根本砦。ちゃんと道もあるので楽勝だと思いきや、いきなり腰の高さの大きなシダが道を覆う。どうしようかと、悩みつつも、ここには二度と来る機会もないだろうと、長い木の枝(名鑓:羊歯無骨)を片手にクモの巣を取り払い、ヘビを威しながら、シダをかき分け山頂を目指す。中腹には「旗揚げの松」というナンジャ松もあり、山頂にたどり着くと、昔の砦がきれいに残っていて、空堀、土橋なんかもあって、多いにハッスル!!!登った甲斐のある砦跡だった。いいもの見させてもらったよ!

根本砦山頂
何か異変があれば、この砦から金山城に
狼煙をあげる手はずになっていた。
※今は、もうやっていない。
根本砦への道のり
太古のシダ類かと思うような巨大
なシダに腰までどっぷり…。
 


 武田方の若尾元昌が、甲斐よりやって来て、この根本に住み着いたという。
本能寺の変の後には東美濃の諸将が森長可に反旗を翻す中、若尾元昌においては大森城上恵土城の落城を知り、さっさと長可に従ったという。
 山を下りて、説明板を今一度見ると、若尾元昌ゆかりの元昌寺も存在し、また、別の場所には若尾氏の居館跡若尾一族の墓もあるという。急遽、お墓参りにいそしむことにしたけど、場所がいまいち不明であるので、地元の奥さまに道をお尋ねした。
「ちょっと、待ってくださいね。」と言われ、玄関先で待っていると、間もなくして、奥さまが本をペラペラとめくりながら戻ってきた。奥さまが若尾氏のお墓をさがしてめくる本に、「森長可の子…墓…」という文字が見え、私は思わず自分の手をガスッ!とページに挿し込んでしまった!!!Σ(゚□゚;
 「す、すみません。この長可の子の墓って何ですか?!!」本を見せてもらったけど、奥さまはご存知ないという。森長可には森玄蕃長義(幼名:松千代)という子がいて、森長可の死後、若尾元昌の元に預けられ、ここで一生を終えたという。森家の文献には全く現れない人なのではあるが、ここでこの話を知ったのはただの偶然とは思えず、お墓は確認したい。しかし、本には墓の場所が書いていない。
奥さまがとりあえず人に道を尋ねつつ若尾家のお墓に案内してくださり、近所の人に森玄蕃のお墓のことも聞いてくれた。結局、色々な人が「探してあげるわ〜」と、出てきて、数人がかりでの墓捜索となった。
 諏訪神社に通りかかる。「九州には殆どないのですが、この辺には至るところに諏訪神社があるのですね。」と、奥さまに話しかけると「先週はここでお祭りがあったのですよ。」とのこと。その”お祭り”に恐るべきヒミツがあったことも知らずに、その時はただ森玄蕃の墓を探す。結局、墓地を2ヶ所探したけど、森玄蕃の墓は移動させられたらしく古い墓ばかりと一緒にコンクリ壇の上にまとめられてしまっていた。

若尾一族の墓所
宝篋印塔のお墓だった。
若尾氏が故郷の甲州より運んできたものと
伝えられる。
  森玄蕃の墓石
森長可の子と伝えられる。
「元和五未年
自得院殿因岩道果一處士
 四月廿五日」


「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」
もはや、この墓が風化し、語り継ぐ人が無くなれば、この墓の主の生きた証拠は何も無くなってしまうだろう。
森玄蕃…あなたは誰?

 結局、その後、集まった奥さま達が本の著者を呼び出してくださった。何か、すごいな根本。根本砦まで登ってきた事をお話すると、驚かれつつ「昔、あのお城の井戸の水辺にはマムシが沢山いて…。」
Σ(゚□゚; ビヨヨヨヨ!!!
 中腹で見た、”旗揚げの松”は、砦の見張りが何か異変を見つけたら、吹流しを松に掲げて、麓の若尾氏の館にすみやかに連絡するためのものだそうだ。
「砦から狼煙をあげて、金山にも連絡しなくてはいけなかったのだよ。」
 更に、先ほど通りすぎた諏訪神社は、若尾氏が武田の氏神を根本にお迎えしたのが所以といい、しかもその祭典については金山城主の森長可のご指導(というか、口出し?)が入ったと言い、現在のお祭りの様式もそれに習うという。Σ(゚□゚;
「太鼓も金山の森田流で、祭礼儀式も、森長可の指導(というか、口出し?)によるものです。」
「えええっ!!!Σ(゚□゚; 」
長可プロデュースのお祭り!!!!地元の兼山にすら、残って無いのに!!!
そのお祭りに使われた手作りの花がまだ置いてあるからと、見せてもらった。若尾家の当時の家臣の家が36戸であるゆえに、36本の花を作るらしく、これを馬の鞍に挿して、奪い合うらしい。奪い合うのか。
 結局、時間ギリギリまで根本にいて、多治見駅にレンタカーを返しに急ぐ。そして重大なことを思い出す。
「ギャァアアア!!!Σ(゚□゚; ガソリン満タンにして返却せねばならなかったなり(5分前)!!!」
セルフサービスに飛びこんでスタッフに「入れて!!!お願い!!!入れてください!!!(切羽詰った顔)」と、ぜんぜんセルフサービスじゃない事をして、無事に時間内にレンタカーを返した。
雨の中、レンタカーの人は、多治見駅まで送ってくれるという。
「それなら…永保寺に送ってください。」
「いいですけど…その後、どうやって帰るのですか?」
知らん。

虎渓山永保寺
桃源郷のような国宝の観音堂。

 と、いう訳で森忠政も保護した虎渓山永保寺にお参りした。森家の勢力って、中津川から多治見、犬山あたりまで大きく広がっていたのだなぁ。美濃国にこれだけ勢力を持っていて、森忠政が徳川から金山をとられて川中島へ転封にされたのって…やっぱり忠政からすれば「ハァ(ーe一)?!」という感じだったのではないかと思う。森長可の場合は金山の本領に加えて川中島を貰えたのだろうけどね(←うきき説)。
 それにしても、このお寺(国宝2つ)の立派なことと言ったら…あまりの規模に唖然としてしまったよ。雨の降りしきる中、境内を散策して、社務所でバスの時刻を尋ねると「あと1時間後。」とのこと、Σ(゚□゚; 更に境内を徘徊しても時間が余ったので、喫茶店に入ってヤキソバを食べていると、知らないおじさんがそっとタイ焼きをくれた。

うながっぱ。
「日本一暑い!」のは自慢なのか、多治見(!)
うながっぱはシッポ部分だけはどうにか食べる
ことができそうだ。

 バスに乗り、多治見駅に着いて、さぁ、兼山に向かうぞ!と思ったら、またJRの待ち時間長し。別行動で兼山に向かう愛平さんに連絡すると、愛平さんは愛平さんで武蔵塚お参りなんかをした後にヌレネズミになってしまっていたようだけど、新可児駅に集合で決まり!!再会を喜びつつバタバタと列車に乗りこみ、明智駅からYAOバスで兼山に向かう。
 その時、既に兼山入りしていた伊澤先生とも兼山歴史民俗資料館で再会、蘭丸の甲冑の展示を見せてもらう。この時は資料館で『森蘭丸と戦国の甲冑展(PDF)』が開催されており、翌日は甲冑ご所有者の伊澤先生のギャラリートークを控えていたのだ。
 展示のケースの中心には蘭丸の甲冑があり、両脇には妙向尼の二幅の肖像画と、森長可の勝蔵画がかけられている。
 故郷に帰ってお母さんと、お兄さんに見守られた蘭丸の甲冑は何とも嬉しげに見えて、おしゃれな演出にジーンときた。よかった。本当によかった。
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