鬼武蔵を求めて逆流ツアー

in 新潟→長野→岐阜→愛知
 2006年10月9日(月)〜10月15日(日)
  
炎とともに突き進め!新潟長野の巻

関山へ行く人々は、
「キケン」と書かれし
このミゾのスキマに足を
落さぬようにご注意!!!
10月9日(月)  豪華客船(当社比)でマットレスな船旅 


 キャリーバッグ(小)に無理矢理に荷物をつめて、海辺で散々道に迷ったあげくに博多ふ頭から直江津行きのフェリーに乗る。わが名は「旅人」。
 フェリーに乗って20時間日本海を北上し、翌夕には新潟だ。それまでまったり船の旅、…とのんきに思っていた私だけど、海は甘くはなく、壮絶な船酔いになって転がっていた。そして私はケロるためだけにベッド穴から半身はい出る生き物と化した。
しかも、あまりの気分の悪さに気づかずにマットレスの下までもぐりこんで、上からのしかかる異様な固さと重みに堪えてもだえ苦しんでいたのだ。何という悲劇。
              …この気持ち悪い世界に果てはあるのか…。
 死んだら、船乗りルールで海に投げ込まれるのだろうか。憧れの武蔵ロードを踏むこともできずに、葬送のラッパで海に投げこまれるのだろうか。
そんなことすら考える余裕のない、まさに苦しくつらいスタートだった。
 

10月10日(火) 春日山という陸

 10日の夕方、ようやく直江津港に着いた。陸にあがればこっちのものだ。揺れない大地を踏みしめてようやく生きる希望と元気を取り戻す。
やはり哺乳類は陸の上で生きて行くべきなのだ、と感じた20時間の悪夢の後。
直江津から宿泊地の春日山へ移動。
 元気になった私はマンガやアイスを買ってきて宿泊ホテルでくつろいでいた。
夜更けに、今回の旅のお供のタカアキさん[URL]登場。
 フェリーでの出来事はユメマボロシだったことにして、楽しい旅の幕開けだ。

10月11日(水) 鬼武蔵が目指した北国をゆく

 ホテルに荷物を預け、早朝より駅の錆びレンタサイクルで春日山城跡へと旅立った。

  武田滅亡後に信濃四郡の大守となった森長可。勢いに乗り、色々なものに放火しながら越後の春日山城まで迫っていた。狙うは上杉景勝______。
魚津城(当時、織田軍に包囲されていた)の救出に向かっていた景勝も、森長可が春日山へ進軍をしている事を知って急ぎ春日山城に戻り、新たなる闘いに備えていた。

 春日山城を目前にした長可の行く手を阻んだもの。それは、他でもない「本能寺の変」。織田信長の死であった。
あの時、長可が踏みしめる事のできなかった春日山城跡へわれら登る。
山の麓にはかっこいい上杉謙信銅像があり、さっそく罠にはまってダンディズム撮影会となり、貴重な時間を入り口で費やした。
春日山城大手道
ところがどっこい春日山はこの先をカーブ
して右90度の方向にあった。
春日山城跡・ケンケン像
男の角度は斜め45度ということを
この像は教えてくれる。


 そして、いよいよ本丸を目指す。まずは、麓にあるケンケンの土嚢(どのう)をひと袋抱えて山に登ることにする。
 先年の中越大地震で被害に遭った本丸の修復の為に使われる土をファンが働きアリのようにせっせと運ぶのだ。袋の中の土は本丸で放出、土を入れていた謙信のイラスト入り袋は運んだ人の戦利品としておもち帰りOKという、一石二鳥、まさに智将・直江兼続が編み出したような戦略だ。
  ケンケン土嚢を運ぼうとしていると、土嚢置き場のある駐車場の車の中にいたおじさんが突然車から飛び出して来て
「もうひとつ運びませんか?」
と言う。か弱いので無理だ。
…というよりおじさんは何者?もしかすると春日山城の隠れキャラ。






土嚢
(左)土入り。
(右)土を放出しても、袋は土臭いと気づく。
毘沙門堂

毘沙門なくしては上杉謙信は語れない。
お供え物のペットボトルの中身をハチが必死に
飲もうとしていたのが印象的だった。


 みどり児をかき抱くようにして土嚢(どのう)を抱え、乳母(めのと)気分で城を登る。
 城内の遺構で写真を撮るために土嚢を置いては、
「あれ?私の土嚢はどっちだったっけ?」
と相棒に問いつつ山頂を目指した。ゆるゆると歩いてようやく目にした頂上。
雄大な越後の景色が広がり、爽やかな風が頬をなでる。森長可はここから見える風景の中まで迫っていたのか____。
 ケンケン土嚢の袋を開けて、中の土を本丸に解き放つ。
長可と戦った上杉景勝屋敷跡にも寄りながら山を下って春日山神社宝物館を見学。
さぁでは次に移ろう!という時に、私が錆びレンタルチャリの鍵をなくしてしまっている事に気付く。
「ない!ない!」
時間は迫るので焦るばかり。パンツのポケットやリュックの中、穴という穴に手を突っ込み鍵を求めるものの、チャリの鍵は見つからなかった。
……やっぱ…………………落としたのか?
この大いなる春日山城の堅固な要塞のどこかに我は落としてしまったのか!!(゚□゚;
…恐ろしい事になってしまったと一気に血の気が引いた。最悪、夜更けまで小さな鍵を探して再び春日山の山中を引きずり回ることになるのかと、色んな想像が駆け巡る。
  こういう時に大事なのはまず落ち着くことだ。リュックの中をもう一度落ち着いて探してみよう。春日山神社にあった石の上でリュックの中をぶちまけて洗いざらい見直すことにした(迷惑)。
 その時、まさに天の声がしたのだ。宝物館の方が「落ちていたのだけど…お探し物はこれですか?」と指に自転車の鍵をひっかけやって来た。どんよりしていた気持ちが一瞬で晴れ渡る。
「それです!私が落したのは、金の鍵でもなく、銀の鍵でもなく、まさしくその古びた鍵です!!」
勘のいい方に拾われてよかったと、涙がにじんできた。
 鍵は見つかったといえど、もう春日山での見学時間は尽き果てようとしている。それでも謙信が学んだ学問の寺・林泉寺は見ておきたいと、ママチャリで全速力で山を降り、寺の宝物館を高速見学し、ダッシュで謙信の墓参り。
上杉謙信_____義に生きた男のダンディズム!!
義に生きつつ、高利貸しも営む金持ち男のダンディズム!!
出家しようと飛び出して、かつて謀叛した家臣に説得されて連れ戻される男のダンディズム!!!

  もっと、上杉謙信の魅力的な世界を堪能していたかったが、バスの時間が迫っている。ホテルに預けていたキャリーバッグを取りに行き、錆び自転車の前カゴに無理矢理に突き刺して走る。肝心な時に駅へ戻る道を間違えて、見当違いの方向をかけぬけ、私は独走状態!タカアキさんに連れ戻されるダンディズム!!!
 レンタルサイクルを駅に返却してバスに乗り込む。その疾き事風の如し。ぐったりすること林の如し。春日山を後にして、我ら、いよいよ森長可のおはしまし場所をたどる。


  バスで高田市中心街にたどり着き、キャリーバッグを引いて本誓寺を見学。
森長可が越後に侵入した時に、本誓寺のお坊さんたちは、上杉景勝に「大田切城(田切城のことと推定される)で籠城して。」と頼まれたという。

 お次はJR妙高高原駅のコインロッカーに荷物を預け、田切城跡を目指す。田切と大田切という深い断崖が天然の要害となっていたが、この田切・大田切周辺で森勢と上杉勢が衝突し、森家有利の合戦が展開された。
 目的地の田切城は、もはや推定地としてしか留まっておらず、タカアキさんの案内でたどりついたその場所は、案内板すらない田んぼと化していた。黄金の稲穂揺れ、こんな場所に城があったなんて、ましてこの周辺で森軍Vs.上杉軍(with坊主)のドラマがあったとは思いもよならい。星由里子ここいらで歌っとこうね。という感じの田園風景。


 JR妙高高原駅の近くで「ここ新潟県?」と聴きつつ信州そばを食べて、再び車上の人となる。
 お次は「二本木」。
 長可はこの二本木で陣を張っている時に、京都で起こった本能寺の変の報に接したという。織田信長、信忠、森蘭丸、坊丸、力丸…最愛の者の死を異郷で知り、一度にあまりにも多くを失った長可のショックはいかばかりであったであろう。
 長可の驚きと悲しみの宿る地、二本木_____。
 
  田切城跡推定地より見る妙高山
長可も目にした妙高山は
雲を腰に巻いて美しい。
二本木駅
長可の「その時歴史がうごいた」は
この二本木の地で起こった。


…と言っても、二本木のどこに陣を張っていたのか全然わからないので、とりあえずタカアキさんが目標物を決めてくれた。北国街道の古道に古くからある白山神社だ。観光地ではないので、誰もいない。近所のお寺・安楽寺(江戸期には加賀前田家もお泊まりした)にも立ち寄った。観光客、やはり誰もいない。
だけど我等のハートは熱い!!!
 再びバスに乗り、北国街道をなぞって関山神社に詣でた。奈良時代に裸行上人が創設したこの神社は妙高山を霊山と仰ぎ、中世には木曽義仲や上杉謙信の保護を受け大いに繁栄した。
森長可がこの関山神社にどう関わってくるかというと、焼いた。
多くを放火したその焼き物のひとつが、ここ関山神社だった。
 残念ながら、境内は修復工事のようで社殿に青いビニルシートなんてかかっていたけれど、関山神社の案内板にて、ようやく本日最初の「森長可」の文字を目にした。上半身以外を土中に埋めたシュールな石仏群や、墓石でできた階段(使用禁止)などもあり、なかなかにスリリングな神社であった。

関山神社の鳥居
「(神社は)森長可の越後侵入軍に焼かれ灰燼
にきしてしまつた。」と解説されていた。
関山の夕暮れ
神々の黄昏。ああ、長可もこの夕焼けを
仰いで涙したのか。


 神社から関山駅までの道のりを徒歩でくだって行く。夕暮れ時の空気は冷たく、妙高山の霊峰はますます気高く美しい。
道行く小学生が「こんにちは。」と挨拶してくれたのが嬉しい。
 関山駅から妙高高原駅へ、そして一気に長野駅へと移動。
長野では異様に量が多くてぬるい中華料理を食べ、まだ体力の余っていた私は夜の
善光寺へと繰り出した。

 忠政に引かれて善光寺
善光寺へお参りするのは二度目だけど、やはり本堂は恐ろしく荘厳で巨大だった。さすが国宝。
 牛に引かれることで有名な善光寺だけど、境内には森家ゆかりの史跡がある。
千人塚」。
信濃を治めた森忠政の圧政に堪えかねて蜂起し処刑された一揆軍の慰霊塚だと言われている。
この信州という土地は、特に美濃から来た森家にとって治めるに非常に厳しく苦しい場所だったのだろう。それを思わせる塚である。
境内の奥はライトがなく暗い。暗闇の中で千人塚を捜し求めた。塚らしいものは見つけたものの、説明板が暗くて確認できない。
こういう時はハニーフラッシュだ。
デジカメを手にしてハニーー!!!と、やっていた時に、善光寺のライト自体が落された。なぜ、このタイミングで消灯するんだ!怖いじゃないか!!
境内はまったくの闇となり、一気に足がすくんだ。
怖いけど、びびりつつフラッシュをたいてみると反射した案内板には「千人塚」の文字!!やはりここが千人塚だとわかると同時に、フラッシュで目に焼きついた千人塚は真っ赤な色!!赤いなんてあり得ない!!
ごめんなさい、ごめんなさい、遊び半分じゃないです、ごめんなさい!と何かに謝りつつ、思いっきり走った。
背負っていたリュックのチャックが突然壊れて大きく全開!中の物が溢れだしそうになる!!ごめんなさぁあああいいい!!!   →
つづき