東濃エリア2


多治見市  【史跡案内マップ】                                                     ホーム  史跡INDEX



 永保寺(虎渓山町)

 永保寺の起源は夢窓国師が正和二(1313)年に土岐氏の招きで美濃長瀬山に庵居したのが
はじまりで、その後も大道場として大いに栄えた。
 境内の開山堂は南北朝時代の遺構、観音堂(画像)は室町時代の遺構で、時代時代の兵火を
くぐりぬけ、当時のままの姿を留めている。


《 みどころ 》 
森忠政によって保護された寺院でもある。
          年貢免除状 天正17年12月26日)や寺領充行判物(天正19年10月10日)が発給された。

《 交通 》 JR多治見駅から東鉄バス約15分(本数が少ないので注意。)

 根本砦跡(根本)

 若尾元昌の砦で、平素の住居であった御殿屋敷はこの麓にある。
若尾家は元は甲斐の武田の一族で、武田家の東美濃進出にともない根本に移住したと考えられ
ている。
 織田信長の死後、若尾元昌は森長可の侵略を前にして森家の内縁を頼って降伏しており、本領
安堵された。
元昌の子、若尾元美は森長可に従軍し、天正12(1584)年の羽黒の合戦で戦死した。

《 みどころ 》 砦の山頂に至る途中、「旗揚げの松」がある。
          (井戸もあるらしいけど、シダが群生して見えなかった。)
          曲輪や空掘、土橋などが良好な状態で残っていた。 
 

《 交通 》  JR太多線根本駅より徒歩


 元昌寺(根本)

 若尾元昌が開基の若尾氏菩提寺。開山は天正12(1584)年9月、絶同和尚。
若尾元政の閑居の場所をそのまま寺としたとし、開基を以って、「元昌寺」と称された。

《 みどころ 》  庭園がとても立派。
          道路を隔てた南東には、若尾家代々の墓所がある。

 《 交通 》 JR太多線根本駅より徒歩20分。


 若尾氏墓所(根本)

 根本に根付いた若尾氏が郷里の甲州から先祖の墓を移してきたものと伝わる。 
宝篋印塔は多治見市指定有形文化財に指定されている。

《 みどころ 》 正面は若尾氏の墓で、両側は家臣の墓とのこと。 
          (どれが誰のお墓か判りませんでしたが、3基の宝篋印塔のうち2つは
          「明徳四(1391)年」「応永二(1414)年」の年が刻まれているそうで、ず
          いぶんと古い
ものです。)   

《 交通 》 JR太多線根本駅より徒歩20分。

 


 森玄蕃長義墓(根本)

  森家側の文献には登場しないが、根本では森長可の子だと伝えられている森玄蕃の墓。
森長可が長久手で戦死した当時、玄蕃は7歳で幼名を松千代と言った。
長可の死後、玄蕃は若尾氏の補佐で根本に過ごし元和五(1619)年に42年の生涯を終えたという。

《 みどころ 》 墓には「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」の文字が見える。
         昔は墓所に彼の墓の一角があったが、現在は、古い墓石は1箇所にまとめられてしまい、
         森玄蕃の墓石も一緒に観音石像の足元のコンクリートに置かれている(案内板無し)。

《 交通 》 JR太多線根本駅より徒歩20分。


 諏訪神社(根本)

 甲州から若尾氏が根本にやって来た時に、鎮守の森に武田氏の氏神である諏訪明神を迎えた
とされる。
一方、この神社の神事や祭典様式は金山城主・森長可の指導によるものだといい、今もその伝統が
継承されている。
(諏訪神社の画像を撮影するの忘れていました…。当面、お祭りに使う花を替わりに掲載しておきます。)

《 みどころ 》 森長可の指導による祭礼儀式や金山の森田流の太鼓が今に伝わる。
          画像は秋祭りで使われる花で、三十六本を馬の背にさして、
          (若尾元昌の家来のうち農耕に従事していた三十六戸にちなむ。)
          豊作を祈願する。秋祭りは毎年第2日曜日に行われる。

 《 交通 》 JR太多線根本駅


つづく。 ホーム  史跡INDEX