静岡県


 豊臣秀吉の小田原北条攻め、その時、北条氏の支城である韮山城には森忠政も兵を率いて攻撃をしかけた。 
徳川家康の隠居城ともなった駿府城には、森家の手も加わっている。

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 駿府城跡(静岡県静岡市葵区駿府公園)

 森長可の妻であった池田恒興の娘は、森長可戦死の後は駿府城主・中村一氏のもとに
再嫁し、慶長4(1599)年に逝去した。
中村家が伯耆国に移った後の駿府城は(内藤氏を経て)徳川家康の隠居場となった。

 慶長12(1606)年春には家康隠居に伴う天下普請が行われ、森忠政も駿河城の普請手
伝いにあたり、石壁を修造している。
その後も森忠政は度々、この駿府城の徳川家康の元に参謁している。

《 みどころ 》 2007年現在、「大御所四百年祭」で駿府城の発掘調査が行われている。
         森忠政が普請担当した場所も特定できるかも?

《 交通 》JR東海道本線静岡駅下車


 中張窪石丁場跡(ちゅうばりくぼ)(熱海市下多賀)

 熱海の大久保山・中張窪山の南東斜面には、石丁場遺跡が広がっている。
ここは、慶長16年、慶長19年にかけて江戸城の天下普請に伴なう石垣の石を切り出すた
めに選定された大名家の石丁場だった。
森家の領域の境界を示すために置かれていたであろう「羽柴右近」の刻印入りの巨石が
現在、二つ確認されている。
 その石の一つは、山の中にある(もう一つは次項「羽柴右近」刻印石を参照ください)。
なお、森家の石丁場と隣接している有馬豊氏の石丁場には「是よりにし 有馬玄蕃石場 慶
長一六年 七月廿一日」という刻印石があり、森家と有馬家の領域を区分している。

《 みどころ 》 池田満寿夫記念館付近、板金塗装の工場の横にある登り口から山の中
の石丁場に入る。石を海岸に運び出す道に使われた修羅道を山道として上り、ややもすれ
ば道の山側に羽柴右近の刻印の道しるべが現れる。
それにしたがって道を逸れて山を少し登れば、巨石に「羽柴右近」の刻印があるのを確認できる。

 森家の石丁場の事は山内家の石奉行の覚書に記述があり、慶長18(1613)年6月時点で
は、森家の石丁場に人足がおらずに「石番者ばかり」であったことがわかる。

■『山内家史料史料』の石場之覚
(慶長18(1613)年6月28日付けの相模と伊豆の石丁場報告by土佐藩石奉行)

「伊豆ノ国
一、伊豆ノ山、人不居石番者計、松平武蔵守殿
 
一、熱海、人不居石番者計、森右近殿衆

 同
一、たか 
  人数三百人程、石切り舟にもつみ申候、羽柴左衛門大夫殿衆
  同(※以下、二文字虫喰い)
一、同所左
 仕舞にて罷上り候、鍋島信濃守衆
  同
一、網代 人数六百人程、石切り舟にもつみ申候。加藤肥後守殿衆
(以下略)」

《 交通 》車で連れて行ってもらいました

《 その他 》 何も書いていない登山口画像 羽柴右近の刻印画像


 「羽柴右近」刻印石(熱海市下多賀)

 「羽柴右近(森忠政)」と刻まれたこの刻印石は、もともと江戸城石垣普請のための瘤木石丁場
(現・池田満寿夫記念館そば)にあったもので、丁場内における森家のゾーンを示す標識石であった。
 現在この刻印石は、道路の拡張工事で移動させられ、今は国道135号線のコンビニ付近に置かれ
ている。

《 みどころ 》 大石には「羽柴右近」と刻印されているのがはっきりと確認できる。

《 参考文献 》

『熱海市内伊豆石丁場遺跡確認報告書』 熱海市教育委員会
『石垣が語る江戸城(ものが語る歴史12) 』野中 和夫/同成社

《 交通 》 車で連れて行ってもらいました…。

《 その他 》 「羽柴右近」の刻印画像


 韮山城跡(伊豆の国市韮山韮山)

  天正18(1590)年、豊臣秀吉による北条氏小田原征伐の時に、北条家の支城である
山中城やこの韮山城も豊臣方の軍勢に包囲され、攻め込まれた。
 森忠政は豊臣方の大名達とともにこの韮山城攻めに及び、韮山城主・北条氏規を
睨んだ。
ただし、韮山城は豊臣方の攻撃にも落ちず、最終的には不利を悟った北条氏規が、徳
川家康を仲介した和睦に従い開城した。

《 みどころ 》 本丸から土塁や空堀、内堀などがよく残っている。
この韮山城攻めには、忠政は2100の兵で陣を張って韮山城攻めに挑んでいる(『韮山城
取巻人数書立』毛利家文書)。

 この韮山城攻めの時、森忠政は材木の上に腰かけて下知をなしていたが、福島正則の
家臣・山路一勝が何度その身(というかモロ顔面)に矢傷・鑓傷を受けても城に果敢に攻
め込む様子を目にしていた。福島正則改易後に、この山路は森忠政が召抱えることとなり、
この時、忠政自ら韮山城攻めの山路の働きを語ったという(『森家先代実録』)。
山路は森家において「長尾隼人」と名乗った。

《 参考文献 》
小和田哲男「天正十八年韮山城籠城戦覚書」(『韮山町史の栞 第二十集』韮山町史編纂委員会)
「韮山城包囲戦」(『戦国の堅城 U』学研)
土屋比都司「小田原の役韮山城攻めとその陣城について」(『古城』第四十五号静岡古城研究会)

《 交通 》車で連れて行ってもらいました…


 木戸稲荷陣城(伊豆の国市四日町)

 韮山城攻めの時に森忠政が陣を張ったとされる場所、
画像の手前に見える山の低いところが韮山城本丸のあった場所(見づらくてすみません)。

《 みどころ 》 韮山駅前・韮山図書館前に広がる田園風景の中に、森忠政が陣を張った
場所が比定されているが、そこには「陣跡」を示す標識のようなものは何も存在しない(2009
年5月現在)。
 この木戸稲荷陣城の場所の根拠は『小田原陣之時韮山城仕寄陣取図』(毛利家文書)に
描かれた、韮山城と森右近(忠政)陣との「にし」という方角と「此間田四町」という距離関係
から割り出されたもの。
 この周辺に「木戸稲荷」の小祠が存在するらしいけど、私は見つけられなかった…。

《 交通 》 車で連れて行ってもらいました…でも、ここは韮山駅(伊豆箱根鉄道駿豆線)
の目の前です。


 和田島口(伊豆の国市韮山土手和田)

 天正18(1590)年3月29日の韮山城攻撃開始の時に、左陣に配された森忠政が進撃した
のが、韮山城の五つの門のうちの一つ、南の和田島口ということらしい。
画像は、和田島の地名を頼りに現地撮影したもの。

《 みどころ 》 実は私はこの「和田嶋口」情報のもともとの典拠を見いだせていません(情報求ム!)。
伊豆の国市からいただいた『韮山城要図』『歴史読本韮山』や図書館の本(書名を控えるの
を忘れて)に現代の手による解説と図が書いてあったのを見て、ここを訪問しました。


なお、『森家先代実録』には、和田島口などの具体的な地名の記述はなく、豊臣軍が韮山城
の大手や搦手から押し寄せたことが記述されている。
ちなみに、この和田島口の先には、韮山城とは尾根続きの
和田島砦がある。

《 交通 》 車で連れて行ってもらいました…


臨済寺(安養院を弔う)もお参りしたいので、つづく・・・。

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