滋賀県


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■ 安土城跡

信長が天正7年(1579年)に築いた名城。蘭丸居館跡もある。
JR安土駅下車後、レンタルサイクルしていった方が便利。ミネラルウォーターもあらかじめ買っておか
ないと、特に暑い日に安土城に登ると水を求めて死ぬ思いをする。

《 みどころ 》 安土天主跡にのぼったら、高いところによじのぼって、安土山から坂本までもが一望で
          きることも確認してみたい。

《 交通 》 JR安土駅下車


■ 蘭丸邸跡

安土城内にある、蘭丸の屋敷跡。本当は目印の石碑よりもずっと奥がそこにあたるが、整備されておらず、
立入禁止になっている。お隣さんは津田信澄(信長甥)さんという事になっている。

《 みどころ 》奥へ入るのは危険かも。屋敷跡入り口に”伝蘭丸邸跡”の石碑が建っている。

《 交通 》 JR安土駅下車


 

 浄厳院

天正7年(1579年)、信長の御前で行なわれた安土宗論の舞台となった場所である。浄土宗と日蓮宗の
対決だったが『武功夜話』によると、この時、森蘭丸は日蓮宗方お目付役になっている。
(真偽は定かではない。)

《 みどころ 》 信長の木像がある。(非公開?)

《 交通 》 JR安土駅下車

 


■ 来迎寺

表門は坂本城の城門を移築。ここは比叡の辻で戦死した父可成の眠る寺で、この寺が可成を厚く弔
ったために信長の比叡山焼き討ちの難を逃れたという。

《 みどころ 》 森可成の墓や、織田信忠の側室・寿々の方の墓がある。

《 交通 》JR湖西線比叡駅(大津市比叡辻2丁目


■ 坂本城跡

比叡山焼き討ちの跡、光秀は信長より志賀郡を与えられる。以来ここに築かれた坂本城が湖西の鎮
となった。尚、石垣などの遺構は湖岸などに残り、琵琶湖にも眠る。

《 みどころ 》蘭丸が信長にこの坂本の地を拝領したいと願い出たのを光秀が蔭で
        聴いていたために、叛意を起こしたという逸話も残る。(関連事項:
蘭丸逸話「おねだり」)

《 交通 》京阪坂本駅下車


■ 宇佐山城跡

元亀元年(1570年)に森可成が築いた城。宇佐山は信長が領国美濃から近江を抜け、京都に至る
道の重要な経点であった。しかし、浅井・朝倉軍がこれを見逃さず、3万の兵をもって宇佐山へせまる。
これを城主可成は坂本まで出向いて迎え撃ち、敢え無く討死。しかし、城門を開けてはならないという
厳命を守った家臣らの働きにより、宇佐山城は落城を免れた。また、ここは坂本城ができるまで光秀の
居城となっていた。

《 みどころ 》 草をかきわけ道なき道をひたすら上に登ると、石垣や犬走り、本丸跡、二の丸跡、三の
          丸跡の形跡が確認できる。説明の看板もないので遺構は自力で探すことになる。
          勇者のみ行くべし。

《 交通 》 JR西大津駅下車。宇佐八幡宮脇道より入る。


■ 宇佐八幡宮

宇佐山の山腹にある。治暦元年(1065年)に源頼義が九州の宇佐神社から移した分霊をまつって
社殿を建てたので、この山を宇佐山と呼ぶようになったという。宇佐山城落城の際に焼失し、後に
再建された。当時のものとしては、礎石のみが残る。

《 みどころ 》 境内の隅に当時の礎石がある。
          また、天智天皇の病気を治したという金殿井の霊泉がある。

《 交通 》 JR西大津駅下車。


■ 瀬田橋

「唐橋を制するものは近畿を制す」と呼ばれてきた日本三名橋の一つ。
大海人皇子、木曽義仲、織田信長、いろいろな人がこの橋を制してきた。本能寺の変の折には
瀬田城主が、明智光秀の安土入りを阻止するためにこの橋を焼いている。

《 みどころ 》 信長が再建させたこの橋を森長可が渡ろうとして行く手を阻まれ事件を起こした。
          関連事項:長可逸話「また乗りうち」

《 交通 》 京阪電鉄石坂線唐橋前駅下車 徒歩5分


 多賀大社

 伊邪那岐神と伊邪那美神が天下ったという多賀の地にあり、「古事記」にも記述された大社。
境内は非常に大規模。
古くから貴族や武士の信仰を集め、織田信長や武田信玄、豊臣秀吉など多くの武将の書状、
また、浅井長政らが寄進した釣鐘、豊臣秀吉寄進の太閤橋(←スリリング)・太閤倉・庭園など
も今に残る。 
 森忠政も、大坂の陣に際して「多賀明神」へ願書を提出したことが『森家先代実録』に載って
いる。ただし、多賀神社は火災に遭ったこともあり、残念ながら森忠政の書状そのものは伝わ
っていない。
(※『森家先代実録』の記述には、いずれの多賀明神であるのか記載されていないが、関係者
とも話し、この多賀大社と思って間違いないと結論。)

《 みどころ 》

多賀明神へ御直筆の御願書写

今度大坂御ちんニ付而、何事なくする/\(←原文踊り字)とかいちん
仕候ハゝ、おつつけ代参ニて、此くわんしよ(=願書)はらし
可申上候、しよくわんしやうしゆかいれう(=諸願書成就皆了)満足之
御事御座候ハゝ、ちやうじつ(=長日)のこま(=護摩)一座進上可仕候、
為其如此くわんしよ(願書)奉進上候、目出度/\(←原文踊り字)、以上
  慶長廿年   羽柴右近
 五月朔日       忠政 (御判)

進上

御たが様

《 交通 》 JR彦根駅下車後バスor近江鉄道「多賀大社前駅」下車


■ 姉川古戦場跡

 元亀元年(1570)6月28日早朝に織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍とが姉川を挟んで衝突した場所。
織田軍の森可成もこの戦いに挑んだ。
 また、森可成の娘聟になるはずだった坂井
政尚の嫡男・久蔵(16)は、父が退却しようとも己は踏みとどまって戦い続け壮烈な戦死を遂げた。みんながそんな久蔵にあやかろうと記念に戦没地の土を採ったので、大きな穴ができたという。

《 みどころ 》 
各史跡紹介地図
古戦場跡(野村と血原)にある説明板の陣構えの中には「森可成」の名も見える。
龍ケ鼻砦(信長本陣)や本陣跡の「陣杭の柳」、勝山(徳川陣)・野村(浅井陣)・三田(朝倉陣)、
などなど、周辺には姉川の合戦に関する史跡が多い。

《 交通 》 JR長浜駅下車後バス「野村橋」または、「東上坂口」下車。(でも、かなり歩くし、バスは
本数が極端に少ないので要注意。)


■ 雲雀山

 姉川の合戦になる前に森可成らが登って浅井の篭る小谷山城を睨んでいた場所(『信長公記』)。
小谷山や虎御前山からはかなり間近な砦。
可成らがここに陣取ると、敵が攻めてきて多少の小競り合いはあった。
森可成らはその敵を城に追いこみ、町を焼き払った。

《 みどころ 》 管理人はまだ外観を眺めただけで、中には入りこんでいないが、この山には
古墳もあるらしい。

《 交通 》 車だったので公共の交通機関がよくわからないけれど、JR河毛駅下車して30分くらい歩けば
たどり着くような感じ。


■ 箕作城(東近江市)

 この箕作(みつくり)城は、観音寺城に拠点を置く佐々木氏の支城のひとつとして、永録11(1568)年の
織田信長による近江侵攻(森可成も従軍)を阻止せんと立ちはだかったものの、箕作城は早々に落城、
佐々木氏もほとんど戦うことなく観音寺城を捨てて甲賀に落ちのびた。

《 みどころ 》 『森家先代実録』によれば、9月12日の朝、信長が坂井政尚と森可成、小姓馬廻の五百騎
で箕作城の視察をしていたところ、箕作城から足軽が出てきたので、森軍・坂井軍がぶつかっていき敵八
十あまりを討ち取って城中へ敵を押し込めた出来事があったらしい。

 この城跡は現地に道案内などまったく存在しないので、必ず下調べが必要だった。城跡への入口はいくつ
かあったが、私の場合は「国道石塚」のバス停を下車して国道8号線を歩いて神崎中央病院を目指し、新幹
線の線路の下をくぐってその裏の鉄塔のあるところから林道に入りこみ、山頂を目指した。
見つけるのが困難という噂の「箕作山城跡」の石碑を噂そのままに見つけることができなかったので、いつか
またリベンジ!

《 交通 》 (私の場合)JR能登川駅下車、近江鉄道バス「八日市駅行」国道石塚バス停下車より徒歩


■ 少林寺(守山市)

一休禅師ゆかりの名刹。


《 みどころ 》
『寛政重脩諸家譜』と『森家先代実録』によれば、近江朽木小谷で討死した
森家の先祖・森可秀(蘭丸のヒイじいちゃん)の墓があるという。この江戸期の赤穂藩森家による調査
で森可秀のお墓と推定された五輪塔と推定される墓石(ややこしや)が存在する。
(これがそうだとしても本当に森可秀の墓かは謎のまま。
お寺でもこの墓の被葬者は不明であるとのこと)。



 

《 交通 》 JR守山駅下車


■ 赤田城跡(八町城) 

森可房(森可成曽祖父)は近江赤田城を夜討して、ここに討死したと伝えられる。
この赤田城と推定されるのが、赤田氏の居城であった八町城(赤田館)で、現在は
常禅寺の境内となっている。

《 みどころ 》 常禅寺山門入り口に”八町城跡”と彫られた石柱がある。
         城はこの常禅寺と近くの白山神社の一帯にあったといわれる。とりあえず、航空写真貼っときます!

《 交通 》 犬上郡豊郷町


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