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森家のルーツをたどる旅にでると、西濃へとたどりつく。
森可成が若き日々を過ごした蓮台は、妻の故郷・本巣郡や、後に娘の聟となる関家の故郷一ノ宮にも近い。

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■ 岐阜城(岐阜市)

ご存知、斎藤道三、織田信長ゆかりの城。

天正10年1月26日に、
蘭丸、伊勢遷宮にともない信長の使者として岐阜城の織田信忠の元に赴いたことが
『森家先代実録』などに見える。
また、天正10年(1582年)本能寺の変の後に、森長可は岐阜城主神部信孝(信長3男)側について弟の忠政
と叔母のお鍋の方を人質に差し出すが、年末には救出した。

《 みどころ 》  岐阜城の天守閣からの眺めは絶品。
          体力に覚えのある方は、ロープウェイではなく、足で山頂へ登ってみるのをオススメ!
          天守閣以外にも、御殿跡も要チェック。
          信長が政務を執り行っていた山麓御殿跡、そして生活空間であった山上御殿跡がある。
          山上御殿は12歳から17歳までの信長の家臣の息子たちと信長自身の家族の生活空間であり
          重臣すら入ることが許されなかった。        

《 交通 》 JR岐阜駅よりバスで岐阜公園下車。


■ 蓮台城跡(羽島市田代)

美濃国羽栗郡蓮台村(現・笠松町田代)に森越後守可行と可成の2代に渡る居城・蓮台城があったと伝わる。
長男・可隆と二男・長可の生まれ故郷でもある。
今は住宅地になっているが、地域の方の話では、ひと昔前は、土地が盛り上がった高台があり、周り
に堀が残っていたという。おそらくその上に館が建っていたのだろう。
数年前までハス池として残っていたお堀跡も、残念ながら今は埋め立てられてしまっている。
可成は信長の尾張平定に尽力し、その武功により永禄8年(1565)金山邑の烏峰城(のちの金山城)を賜り
蓮台城を後にした。
なお、森家とともに戦国の世を生きぬいた関家ゆかりの一ノ宮は、木曽川の川向こうにあり、昔からの親密さ
が伺える。

《 みどころ 》 以前は道端にあったこの史跡の標識(←画像)も、今は撤去されてしまっている(2004年時点)。
          田代に着いたら、地元の人にお城のあったあたりを尋ねてもらいたし。
          (付近の写真は笠松町役場のサイトでも参照できる。)
          また、近所には斎藤道三・織田信長両将別れの地の史跡・八幡神社を合祀した「白髭神社
          もある。

《 みどころ 》  竹鼻線西笠松駅より徒歩


■ 八幡神社(現在:白髭神社と合祀)(羽島市田代)

森家が居城をおいたとされる美濃国羽栗郡蓮台城跡そばにある。
天文22(1553)年に織田信長と斎藤道三は富田の正徳寺(一宮市)で対面を果たし、2人は帰路、この
八幡神社(白鬚神社合祀)で別れの儀式をして、それぞれ尾張と美濃に帰国した。
この場所が森氏の経営地であったことから、この二人の対面にも森可成が何らかの関わりと尽力が
あったものと想像される。

《 みどころ 》 境内には斎藤道三・織田信長両将別れの地という解説あり。

《 みどころ 》  竹鼻線西笠松駅より徒歩


■ 旧・森村(羽島市正木町森)

 『森家先代実録』の記述に頼れば、この森村(現・正木町森)は「(森家)ご先祖のおはしませし所にて森村と云と也」。
と、森家にゆかりのある場所である。画像は正木町森10-63にある「貴船神社(創立年不明)」。

《 みどころ 》  貴船神社(画像)には鎌倉時代の作と推定される御神像が祀られているそう。
          寛永19(1942)年時点では、この神社は「貴船五社大明神」と称されており、『森家先代実録』の記録中、
          赤穂藩主・森忠哲が先祖の森村を訪問した際に参詣したという「五社大明神」はこの神社のことと思
          われる。

《 交通 》 名鉄竹鼻線「須賀駅」より徒歩


■ 大浦古戦場跡(羽島市正木町大浦)

 『信長公記』にいう「大良」という地は、現・大浦〜上大浦と比定されている。
弘治2(1556)年4月20日、清洲の織田信長は、長良川で苦戦に陥っている義父の斎藤道三の援軍にかけつけようと
していた。
しかし、信長の援軍は道三と敵対していた斉藤義龍も予期する所、義龍配下の兵は木曽川の河原に布陣して信長を
待ち受けており、両者が激突する。織田軍は苦戦の末に、道三討ち死にの報を受け、織田信長軍の撤収で幕引きと
なった。

《 みどころ 》  古戦場を示す石碑も何も無いようなので、適当に木曽川沿いの大浦方面の写真を撮影。この合戦中、
          森可成は斎藤軍の千石又一と馬上で戦い、その時ヒジを切られて負傷してしまい撤退している。  
      

《 交通 》 車で行きました。


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■ 森部古戦場(安八郡安八町森部)

 永録4(1561)年5月11日に美濃の斎藤義龍が急死すると、はや13日には織田信長が西美濃に兵(千五、六百)を入れた。
墨俣にいた斉藤家の将・長井甲斐守衛安(もりやす)と日比野下野守景直は六千の兵でこれを迎える。織田軍が森部に布陣すると、
斎藤軍は森部に広がる泥沼に踏み込んで接近を試みるが、織田軍が一斉に矢を放ち、また鑓ぶすまで突きかかって応戦する。
柴田勝家や森可成らの奮戦で斎藤軍を切り崩し、斎藤軍は退却するに至るが、信長が潜ませていた伏兵がこれを襲い、長井衛安と
日比野景直も討ち死にした。

《 みどころ 》  木曽川沿いに薬師堂があり、織田信長が薬師堂前で首実検をする時に、鎧をかけてたという「鎧掛けの松(2代目)」と
          ともに古戦場の碑や解説などがある。また、戦死者の墓もある。
          少し離れて、前田「
利家出世の松」と解説碑文があるが、これは信長に追放されて浪人していた前田利家が、この合戦
          で手柄を立ててようやく帰参を許されたことにちなんだもの。某大河ドラマ記念で植樹したとか。

 《 交通 》 車で行きました。木曽川沿いに狭い路地(恐)をひたすらノロノロ運転。


■ 千代保稲荷(海津市平田町三郷)


撮影した画像が失敗ばかりでした、ごめんなさい。
一番マトモなのを掲載。
”おちょぼさん”の名で親しまれるこの神社は、森家の始祖である八幡太郎義家の六男義隆が
分家する際に祖先の霊璽、宝剣、義家の画像の三点を「千代に保っていけ」と賜ったことに由
来し、文明年間に森八海がこの須脇の里を開いて義家公から授けられし霊璽を祀ったのが始
まりといわれる。
自分で心得て千代に保てといういい伝えをうけ、お札・お守りの類は一切置いていない。

《 みどころ 》 境内には油揚げのお供えものがうずたかく積まれてある。
          森八海が森蘭丸の血筋とどう関係があるのか、今のところははっきりしていな
          いが、森家の祖とされる森義隆の名がこの地にこのように留まっているのが
          興味深い。

 《 交通 》 JR東海道線「岐阜羽島駅」下車タクシーで約15分
        (バスもあるが、本数も少なく、乗り換えがあったりするので事前にきちんと調べ
        ないと、わかりにくかった気が・・・。)


■ 大垣城(大垣市)

大垣城は天文4年(1535)に宮川安定によって築かれたと伝えられる。その後、城主は織田信辰、氏家直元、
へと移行。天正11年(1583)5月よりは、森長可の義父・池田恒興が大垣城主になった。
森長可が長久手の戦いの際に遺した遺言にも
「一、をんなどもは、いそぎ、大がきへ御越し候べく候。」と述べられている。
関ヶ原の合戦では一時石田三成の本拠となったが落城。江戸時代以降、戸田氏の城となる。

《 みどころ 》 天守は残念ながら戦災で消失、現在は再建天守となっている。館内の展示は関ケ原メインで、
         池田家関係のものは見受けられなかった。(涙)

 《 交通 》 JR大垣駅南口から徒歩


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